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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
197/513

25







 間近に迫る五月祭と、先王の嫡子の子であるリオネル・ベルリオーズの滞在に湧くシャルム王宮。


 庭園の西方に位置する騎士館を、昨今の話題の中心人物であるリオネルが、友人らと共に密かに訪れていた。



 日は昇って間もない。

 上空には雲が多く、あたりは薄暗かった。


 空気は冷ややかで、草や土は朝露に濡れ、人気ひとけのない庭園はひっそりとしている。

 正門周辺も、宮殿も、そしてここ騎士館があるあたりも、柔らかな静けさに包まれていた。


 その静けさと調和するように、穏やかな声音がかすかに早朝の空気を震わす。


「叔父上、お変わりなくなによりです」

「リオネル、おまえも元気そうだな」


 叔父と甥の半年ぶりの再会だった。


 正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルの私室。

 この部屋を訪れた客人たちを、シュザンはあたたかく迎えた。


「ディルク、おまえはもう宮殿にいる美女たちと話したのか?」

「勘弁してください」


 心の底から訴えるディルクに、シュザンは軽く謝罪する。


「終わった話だったな、すまない」

「自分では終わったつもりかもしれないが、おまえに期待している女たちが、まだここには数え切れないほどいるぞ」


 謝罪するシュザンの後ろから聞こえた声は、レオンだった。


 レオンは寝台に座り、上半身に衣類をまとわぬ状態で軍医の診察を受けていた。

 暖炉に火が燃えているのは、肌寒いからというよりは、病み上がりのレオンのためであろう。


「これまで話したといっても、二言三言、言葉を交わしたことがあるだけだ」

「それでも、広まった噂はなかなかしぶといものだ」


 耳に痛い言葉を投げかけられ、ディルクは顔をしかめた。


「浮いた噂も、やっかいなものだな」


 新たな婚約を取り決められぬよう立てた「噂」だったが、逆に、そのせいで個人的に言い寄ってくる貴婦人の数も増えたのだ。

 未婚の女性だけではない。結婚に満足しておらぬ夫人や、夫に先立たれた未亡人などからも色目を使われる。


「いいではないか。当初の望みどおり、まともな縁談はひとつもこないだろう。自由に過ごしているほうがおまえには似合っているのではないか?」

「レオン、おまえの身体が弱っていなければ、殴ってやるんだけど」


 友人に脅され、レオンは痩せた肩をわずかにすくめる。


 ディルクが指摘したとおり、レオンの身体はひどく衰弱していた。それは一見してわかるほどで、これまで鍛え上げられていたレオンの身体が、今はひとまわり細くなっている。


「それにしても、痩せたな」


 医者にあちこち点検されるレオンの身体を眺めながら、ぽつりとディルクが感想を漏らす。


 高熱に加え、激しい嘔吐を繰り返し、まともな食事もとれなかったのだから、弱るのは当然のことである。

 シュザンがクリストフに渡した薬で救われたレオンは、今、騎士館において密かにその後の経過を軍医に診てもらっているのだった。


 部屋の窓はカーテンで締め切られ、室内の様子が周りから見えぬようになっている。

 日は昇りはじめているはずだが、外の明るさを知ることはできなかった。


「病気の原因は、本当に旅の疲れだったのか?」


 気遣うように尋ねたのはリオネルである。

 黙っているレオンへ、今度はディルクが問いかける。


「なにがあったんだ?」


 親しい友人らの視線を受け、ごまかしきれぬと思ったのか、渋々といった感じでレオンは答えた。


「理由は聞かないでくれ。ただ、わけあって兄に毒を飲まされたのだ」

「毒……」


 皆が息を呑む。


「……ジェルヴェーズ王子か」


 その顔を思い浮かべながらつぶやいたのは、ベルトランだった。

 信じられぬことである。理由はわからないが、同じ腹から生まれた兄弟に毒を飲ませるとは。


 傲慢で残忍な人物とは聞いていたし、実際に酷薄そうには見えたが、ここまでくると常軌を逸しているとしか言いようがない。


「くそ髭じじいは、このことを知ってるのか」

「いや――」


 わずかに言い淀んでから、レオンは説明した。


「これを公言すれば、ややこしい事態になる。父上が諌めたとしても、あの兄がおとなしく従うわけがない。さらに姑息でひどいことを密かに仕掛けてくるに決まっている」


 リオネルやベルトランはさておき、ディルクやシュザンは、なぜレオンがジェルヴェーズにこのような目に遭わされたのか、その理由を漠然と察していた。


「……とんでもない兄貴を持ったな」


 ディルクの感想に、レオンは口端を吊り上げてから従兄弟を見やった。


「そのとんでもない人物は、おれの兄でもあるが、リオネルの従兄弟でもある」


 皆の視線が、壁にもたれかかっていたリオネルに集まる。


「リオネル、あまり言いたくないことなのだが、兄上はおまえの存在を良く思っていない。あの人のまえでは普段以上に警戒したほうがいい」


 リオネルはただ黙って聞いていた。


「あと、フィデール・ブレーズ――あいつはかなりの曲者だ。兄上に信頼されているようだが、なにを考えているのか底知れない」

「……その雰囲気はなんとなくわかったよ」


 答えるリオネルのかたわら、ディルクの顔に影が差した。

 フィデールから突きつけられた言葉は、ディルクの胸の底にある傷をえぐり、鎮めていた痛みを繰り返しよみがえらせる。


 そんな親友の心情を察し、リオネルは表情を曇らせた。


 けれど、かける言葉は思い浮かばない。なぜなら、だれよりもディルクを責めたてているのはフィデールでも、遺族でも、亡きシャンティでもない、他ならぬディルク自身なのだから。


 リオネルにできることは、あえて話題を元に戻すことくらいだった。


「毒を飲まされた理由は聞かないけど、どうやって窮地を脱したんだ?」


 どうやらシュザンがからんでいるようではあるが、詳しいことはまだ聞いていなかった。

 問われたレオンは、まっすぐにリオネルを見据え、そして答えた。


「レオン王太子の幽霊に助けられたのだ」

「…………」


 彼の口調は、いたって真面目だった。

 あまりに真面目なので、ディルクでさえ茶化す機会を逸する。


「真っ黒に焼かれた姿でな、おれのまえに現れ、そしてシュザンに窮地を知らせてくれた」


 さらにレオンは、どこまでも真面目な様子で「レオン王太子」がいかにして自分を救ったかという話を語った。


 突然どこからともなく現れた黒い少年。レオンの状況を把握すると、さっと紙に筆を走らせ、それを矢にくくりつけて庭園へ放ちシュザンに知らせた。


 ちなみに焼死したレオン王太子というのは、数代前のシャルム国王により王太子に定められていた幼い王子で、ローブルグとの争いの最中、人質として捕らえられた末に、彼を救おうとしたシャルム軍とローブルグ軍の激突で生じた戦火に巻きこまれて死亡した。


 その死については、ローブルグの陰謀だとか、シャルム王の弟が玉座を狙い密かに暗殺したとか、王の愛人が仕掛けたことだとか様々な憶測が飛び交ったが、真相は結局わからないままである。


「幽霊でなければ、あんな黒焦げの少年が、あれほど矢を遠くまで、しかも寸分狂わず目的の場所に射ることができるはずがない。幼くして死んだ無念を、同じ名前のおれを助けることで晴らしたかったのかもしれない」


 皆、無言だった。

 奇妙な沈黙。


 だれもがぐっとなにかをこらえていたが、耐えきれなくなった者がひとり。

 ついに、ディルクが腹を抱えて笑いだす。


「あはははは……もうだめだ。いや、無理。耐えられない――」


 爆笑する主人に、マチアスが小声で「ディルク様」といさめる。けれど、その声もディルクの耳には届かなかった。


「どうせおまえは馬鹿にするだろうと思っていた」


 不服そうに、レオンは腹を抱える友人を見やった。


「いや、けっして馬鹿になんて――あはははは」


 台詞を言い切らぬうちに、笑いはこみあげてくる。


「おまえに信じてもらわなくても結構だ」


 ふてくされたように、というよりは、諦めたようにレオンは友人から視線を逸らした。

 ディルクの笑いはなおも収まらない。


「かなりの弓の使い手であったことはたしかだな」


 と、二人の様子を見守っていたシュザンが、苦笑まじりにレオンを弁護する。


「叔父上、その手紙はまだありますか」


 なにかが気にかかった様子で、リオネルはシュザンに問いかけた。


「むろん捨てた」


 手紙が残っていれば、シュザンだけではなく、それを記した者にとっても非常に危険である。万が一にでもジェルヴェーズの手に入ってしまったら、それは動かぬ証拠となるのだから。


「そう、ですよね」


 ここにはない者を思い浮かべるように、目を細めてリオネルがつぶやく。


「弓を操る、少年……」


 うつむき、最後に小さく首を横に振った。

 まさか、考えすぎだ――と。


 愛しさと心配のあまり、自分はありえないことを想像してしまうようだと、リオネルは自嘲する。


 そんなリオネルの様子を、シュザンが不思議そうに見やった。


「思い当たる者がいるのか?」

「……いいえ、叔父上」

「おれも、だれだかさっぱりわからないのだ。あれほどの腕なら、これまで私の目についていてもおかしくないのだが」

「…………」


 黙りこんだリオネルの代わりに、ディルクが苦しげに言った。


「だから……レオン、王太子の……ゆうれ……」

「おれを馬鹿にしているのだろう」


 診察を終えたレオンが服を着ながら、ディルクを睨んだ。

 その視線に気づいているのかいないのかディルクは笑い続け、そんな主人をマチアスはしかたなさそうに見守っている。


「リオネル」


 不意にシュザンが真剣な口調で名を呼んだ。

 なんだろうとリオネルが視線を向けると、正騎士隊を率いる立場にあるシュザンは、姉の忘れ形見に向かって小さく頭を下げた。


「山賊討伐において軍を動かせず、すまなかった」


 思わぬ謝罪を突然に受け、リオネルは驚く。


「いいえ、叔父上。軍を動かすかどうかを決めるのは国王です。叔父上が謝ることなどなにもありません。どうぞ顔を上げてください」


 リオネルの手でそっと姿勢を戻されたシュザンは、苦い表情でかすかに笑んだ。


「すまない。――これから先も、この立場にいるかぎり、おれは幾度もおまえに謝罪しなければならないだろう」

「叔父上の存在は、なにものにも代えがたいものです。この国にとっても、私にとっても。どれほど私は、貴方に助けられているでしょう。難しいお立場にあり大変な御苦労をされているとお察ししますが、どうかこれからも力をお貸しください」


 容姿の似通う叔父と甥は、しっかりと視線を合わせ、互いの意思と絆を確認しあった。

 さらに、ちらとシュザンが視線を上げた先には、彼の幼馴染みと呼ぶべき男ベルトランがいる。


 ――おれはこの場所からリオネルを守る。おまえは、近くでリオネルを守ってくれ。

 シュザンの眼差しは、ベルトランにこう告げていた。


 宮殿内には、リオネルの敵が数知れずいる。


 そばで直接、命を守ることができるのがベルトランやディルクであるならば、正騎士隊隊長という立場からリオネルを守るのがシュザンの役割だった。


 国王エルネスト、王子ジェルヴェーズ、ルスティーユ家、ブレーズ家、そしてその他国王派諸侯……幾多の魔手から、リオネルを守らねばならない。


 シュザンの視線を受けたベルトランが、深くうなずく。


 トゥールヴィル公爵領とルブロー伯爵領――シュザンとベルトランがまだ各々の領地におり、共に稽古をし、剣を交えていたころ。あのころから、二人のうちにある決意は同じだった。

 先王の嫡子クレティアンの子――若き主君を守ること。


 それは、どれほどの時間が流れようと、どのような立場にいようと、変わることのない信条であり、また、二人が交わした固い誓いでもあった。











 宮殿の最上階。


 一室のまえで、二人の衛兵が立っていた。

 ひとりは近衛隊を率いる隊長アルドワンで、今ひとりは、隊のうちでも優れた腕の持ち主である。


 つまり、彼らが守るこの部屋には、シャルムを統べる王がいるということだ。


 父王に会いに行こうとしたジェルヴェーズは、アルドワンらがこの部屋のまえに立っているのをみとめ、心中で舌打ちした。


 この部屋に立ち入ることを許されているのは、国王のみである。王子であるジェルヴェーズでさえ、その部屋に入ることはおろか、なにがあるのかも知らされていなかった。


「父上に用がある」


 ジェルヴェーズは、アルドワンに対し威圧的に告げたが、相手に動じた様子はない。


「緊急でなければ、今しばらくお待ちくださいませ」

「…………」


 普段なら逆鱗に触れるような言葉も、ジェルヴェーズはこのとき黙って聞いていた。

 なぜなら、こう言われることはほとんど予測できていたからだ。


 この部屋にいるとき、父王エルネストはだれも寄せつけない。妻グレースや二人の息子たち、あれほど信頼するブレーズ公爵でさえも。


「この部屋にはなにがあるのだ、アルドワン」


 声を潜めて、ジェルヴェーズは尋ねる。


「どのような秘密があるのだ?」

「存じあげませぬ」

「知っていて知らぬと答えぬなら、私が王になった暁にはおまえを斬首に処すぞ」

「かまいませぬ、殿下」


 アルドワンの態度は平然として変わらなかった。


 再び舌打ちしたい気持ちになったが、ジェルヴェーズは不愉快げにアルドワンを睨んだだけで、無言で踵を返す。

 交渉の余地もなかった。


 苛立ちを感じさせる足取りで去っていくジェルヴェーズの後ろ姿に目もくれず、二人の近衛兵は部屋を守り続ける。




 ……彼らが守る扉の向こうでは、エルネルトが肘掛椅子に深く腰掛け、目を閉じていた。


 エルネストが腰かける椅子以外にもう一脚同様の肘掛椅子、そして低い円卓がこの部屋にはあるだけだ。

 部屋の広さに比して家具は少ないが、がらんとした印象を与えないのは、壁にかけられた大判の油絵のせいであろう。


 そこに描かれた肖像画の女性が、柔らかくほほえみエルネストを見守っている。

 そう感じられるのが錯覚だとしても、かまわなかった。


 深い紫色の瞳、つややかな濃茶色の髪、白い肌、優しげな顔立ち。

 自分が生涯で唯一心から愛した女性――アンリエット。


 狂おしいほど彼女の心を欲し、臆病なまでに彼女に嫌われることをおそれた。


 そして、ついには手に入れることのできなかったその人の生き写しである、ひとり息子のリオネルが、今、この宮殿にいる。

「敵」として憎むには、リオネルは、エルネストにとってあまりに残酷な相手だった。


 一度は殺すことを決意したのに、実際に彼の姿を目にすると、その決意は揺らいでいく。


 己の揺れ動く感情にエルネストは戸惑い、自身のなかでさえ方向性を明確にすることができずにいる。そのことを、だれにも悟られたくなかった。


 このような心境にあるエルネストにとって、フィデールの策は非常に都合のよいものだった。

 とりあえずは、リオネルを害さずして、服従させる。

 あとのことは、またリオネルがここから去ってから考えればよい。


 今は、かの青年を目の前にすれば、ただあの愛しい女性を思い出し心が揺れるばかりなのだ。


 そっと瞼を開くと、肖像画のアンリエットが、春の木漏れ日のようにそっとエルネストにほほえみかけていた。







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