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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
196/513

24





 夕御飯の時間だったが、アベルの粥は先程からほとんど減っていない。

 皆はもう二杯目を食べはじめているというのに、アベルの椀にはまだ一杯目の麦粥が並々と残っていた。


 その様子を隣で見ていたジェレミーは、心配そうにアベルの横顔をのぞき見る。

 夕方くらいから、どうも相棒の様子がおかしい。元気がなく、話しかけても上の空なのだ。食欲もなさそうである。


 細い身体で煙突掃除などという過酷な仕事をしたせいで、体調を崩しているのかと、ジェレミーは不安になった。


「大丈夫、イシャス?」


 小声でジェレミーはアベルに話しかける。


「どこか具合が悪いの?」


 ぼんやりしていたアベルは、ジェレミーの声で我に返った。


「え……あ、いいえ」


 反射的に麦粥の椀を両手で掴み、口元へ運ぶ。


「少し考えごとをしていただけです」


 このとおり食欲はあるのだと言うように、アベルは一杯目の粥を一気に飲み下した。


「ならいいんだけど」


 ジェレミーが少しほっとしたような顔をしたとき、ボドワンの妻ナタリーが二人の声を耳にして怒鳴った。


「なにを話してるんだい。とっととお食べ!」


 ジェレミーは肩をすくめた。


「イシャス、あんたは麦粥のお代わりはいらないんだね!」


 今度はアベルが肩をすくめる。

 すると杯を重ねていたボドワン親方が、ちらとこちらを振り返った。


「今、一杯目を食べ終わったところです。二杯目をください」


 ナタリーの顔色をうかがうふりをして、アベルは木椀を差しだす。


 品定めするような目つきでナタリーがアベルを眺めていると、ボドワンが口を挟んだ。


「そいつには明日も宮殿で働いてもらわなくちゃ困る。粥を食わせてやれ」


 不満げなナタリーであったが、親方の言うことには逆らわず、アベルの椀に粥を注ぎ足す。注ぎ終えると、うさんくさそうにアベルを一瞥し、ぷいと背を向けた。


 自分も相棒も殴られずにすんだと、ジェレミーがちらとアベルに目で笑いかけるが、アベルはそれに気づかず、粥を目の前にして再びぼんやりとしていた。


 その様子が気にかかったが、ここでこれ以上話しかければ、今度こそ親方かナタリーのどちらかに殴られるので、ジェレミーは黙っている。


 木椀の粥からは、わずかな湯気が立ち上っていた。

 おなかは空いているのだが、アベルはふと気がつくとそのことを忘れて、粥を食べる手を止めていた。


 すべては、その日の夕方の出来事のせいである。

 ……考えれば考えるほど怖ろしく、いてもたってもいられない気持ちになるのだ。





 数刻前のこと。


 夕暮れ時、アベルはひとり屋根の上に座っていた。

 つい先程まではジェレミーも隣にいたのだが、夕陽の美しさに見惚れていたら、気がつけば彼はいなくなっていた。


 大きな雲が時折、夕陽を隠して辺りを闇に染める。


 雲のふちから茜色の陽光がもれ、「天使の梯子」を濃紺の天空に渡し掛けるその光景の美しさといったら、息を呑むほどである。


 それを眺めていたら、いつ煙突掃除にジェレミーが戻っていったかも気づかぬほどに時間が経っていた。


 我に返ると同時に、急に風が強まったように感じた。

 アベルは戻ろうと思った。


 不安定な屋根の上で立ちあがる。

 そのとき強く吹いた風に均衡を崩したアベルは、とっさに近くにあった煙突に捕まった。


 すると風にまぎれて、ある言葉がアベルの耳の脇を吹き抜けていく。


 聞えてきた言葉。

 それは。


 ――リオネル、という名だった。


 捕まった煙突から聞こえてきたに違いない。

 ここまで届くということは、最上階の一室につながっている煙突なのだろう。


 気になる。


 胸騒ぎがする。……以前感じたのと同様の胸騒ぎ。


 アベルは煙突に耳を寄せた。

 けれど聞こえてくるのは、男性の声らしき、低い音だけである。


 なぜ「リオネル」という音だけ、はっきりと聞こえたのだろう。聞き間違えだろうか。いや、そんなはずはない。たしかに聞えたはずだ。


 ごくりとアベルは唾を飲む。


 宮殿の最上階に立ち入ることを許されているのは、王族か高位の貴族だ。彼らの話を盗み聞きするなど、けっして許されぬことである。

 だが、アベルはその煙突に、緊張する身体を滑り込ませた。


 理屈ではない。

 アベルを衝き動かしていたのは、主人の危険を察知する直感や本能のようなものだった。

 なにか不吉なものを感じてしかたない。


 ゆっくり、ゆっくりと下りていく。


 煤が目に入り、目を開いていられないほどの痛みが走る。けれどアベルはじっと我慢して声が拾えるところまで降下した。


 会話はようやく聞えるというところだが、これ以上近づけば気配を察知されるかもしれない。

 できるかぎりアベルは気配を消し、そして耳を澄ました。


 聞こえてくるのは、複数の男性の声である。いずれもはじめて聞く声だった。


『……女中……が……見た……』

『……だれ……毒……』


 はじめは、はっきり聞えなかった声も、神経を集中させると徐々に明瞭になってくる。


『運んでくる途中で毒を入れたと言われてしまえば、それまでではないか』


 位の高い者なのだろう、傲慢な響きのある語調だ。

 毒という穏やかならぬ言葉に、アベルの表情は強張った。


『そのとおりでございます。なので、直前までは入れないのですよ』


 次は年配の男の声だ。


『ならば、だれが毒をひそませるのだ』

『殿下でございます』


 ――殿下。


 聞こえた言葉を、アベルは信じられぬ思いで頭のなかで反芻した。


 シャルムで「殿下」と呼ばれる者は二人しかいない。

 ひとりはリオネルやディルクの友人であり、アベルもよく見知っているレオン王子。いまひとりは、彼の兄であるジェルヴェーズ王子だ。


 この声はレオンではない。

 とすると――。


 低い笑い声が聞こえる。


『私が、か――おもしろいではないか。私が自らの手で、自らの杯に毒を入れるとは』

『殿下ご自身がお入れになれば、だれも気づきますまい』

『ふむ……』

『それから女中が騒ぎ立てるのです、リオネル・ベルリオーズが殿下の杯に毒を入れたのを、目撃したと』


 アベルの心臓が跳ねた。


 ――これは罠だ。リオネルを陥れる、卑劣な罠。

 この男たちはリオネルを欺く算段をしている――。


 怒りと恐怖でアベルの全身は熱を帯び、震えた。


『うまい運びですな』


 別の中年の男の声がする。


『それで、どうするのですかな?』

『おそらくリオネル殿は否定するでしょう。そのときに殿下はこう答えるのです』


 ――ならば、貴公が飲んでみよ。入れていないならば、ためらう必要はない。毒を入れていないことを今この場で証明し、自らの潔白を晴らせ、と。


 再び愉しげな笑い声があがった。


『それはおもしろい』

『飲まなければ、自らの罪を認めるということになり、飲めば、殿下の暗殺を企てた謀反人として死んでいくだけでございます』

『けれど、陛下から功績をたたえられた直後に謀反が発覚するのは、いささか具合が悪いのではありませんか?』


 中年の男の質問に対して答える声は、自信に溢れていた。


『事を運ぶのは五月祭の前日。そうすれば陛下から栄誉を授かるより前なので、問題ないでしょう。いかがですかな、殿下』

『愉快な筋書きだ――うまくいけばな』

『うまくいかないわけがございません』

『いちおう我が軍師殿の意見を聞いてみようか。彼はすぐにここへ来る』


 このとき、わずかな沈黙があり、それから再び年配の声が低く響いた。


『もしあの方がこの計画を知れば、難色を示されるでしょうな。五月祭の当日に、殿下への忠誠を誓わせるという計画が狂いますから』

『ほう、内密にしておくというか』

『……殿下のお心次第でございます』


 再び部屋には沈黙が訪れる。

 この沈黙が長かった。


 アベルの手足は限界に達していた。筋肉が痙攣し、体重を支えきれなくなっている。落下してしまう前に、屋根まで這い上がらねばならない。

 軋む身体で煙突を引き返す。


 けれどその途中、かすかに聞きなれぬ声が聞こえてきて、不意に動きを止めた。


『遅く……申し……ざいません』

『……ていたのだぞ、……ィ……ル』

『な……楽しいご計画……ていらした……か?』

『いや、なにも……そ……あろう……スティ……公爵』


 再び無理な体勢で止まったせいで、関節が燃えるように痛い。

 そのとき、突然声がはっきりした。


『煙突のほうから気配を感じませんか?』


 はっきりと聞こえてきたのは、煙突のほうへ向けて声が発っせられたせいだろう。


 アベルは無我夢中で煙突を登りはじめた。

 暖炉のなかから上を覗かれたら最後だ。抜けて見えるはずの空が欠けて見えれば、すぐにだれかいることを気づかれる。


 やっとのことで登りきり屋根の上に転がったときには、関節や筋肉の痛みだけではなく、肘や膝がひどく擦り切れ、そこに煤が付着し激痛が走った。


 アベルは荒く呼吸をして、ただ空を見上げる。


 うまく逃げられたのかどうか確証はない。――すぐにジェレミーと合流して仕事に戻らなければ。

 そして五月祭の前日までに、卑劣な陰謀があることをリオネルに伝えなければならない。無事に逃げきることができなければ、主人を救うことはできないのだ。


 アベルは無我夢中でジェレミーのもとへ戻った。





 そのころ、煙突の下では……、


『暖炉を覗くのか? 服が汚れるぞ、フィデール。鼠がいるなら火を焚けばいい』

『火を焚いているうちに、鼠が逃げてしまうかもしれません』


 暖炉に近づくフィデール。

 そして、長身をかがめて器用に上を覗き込んだちょうどそのとき、アベルは脱出し終えたところだった。


『どうだ?』

『……なにもありません』


 そう答えるフィデールは、腑に落ちぬ面持ちである。


『先程から風が強まったようですから。気配を感じたのは、そのせいでしょう』


 と、なにごともなかったかのように言うのはルスティーユ公爵。彼こそが、リオネル暗殺の計画を語っていた人物である。


 公爵にとって、この計画をフィデールに知られるのは甚だ不都合なことであった。

 ルスティーユ公爵は、なんとしてでもリオネルを早々に殺してしまいたい。巧妙だが遠回しな方法でリオネルを欺こうとするフィデールとは、考え方が相容れないのだ。


『フィデール殿がおいでになるのを待っていたのです。そのあいだ、ブレーズ公爵殿がいかにして過ごされているかなど、他愛のないことを話していました。さあご嫡男殿も、そちらへ座られよ』


 なにか勘づいているようでもあったが、必死にごまかそうとするルスティーユ公爵に、フィデールは儀礼的な笑みを向けただけだった。







 恐怖がアベルを支配していた。


 男たちが話していた計画は、卑怯で残酷なものだ。

 もしリオネルが毒を飲んでしまったら、その場で彼は死んでしまう。


 もし毒杯をあおらなくとも、リオネルが謀反の罪で投獄されてしまったら、その先に待つものは……。


 どちらにせよ、あの優しい主人が辿るのは残酷な運命だ。

 背筋がぞくりとして、息苦しささえ覚えた。


 それも、計画に加わっている者のひとりは、レオンの兄であり、リオネルの従兄弟でもあるジェルヴェーズ王子――シャルムの時期国王の座に最も近い地位にいる者だ。

 とてつもなく強大な力から、リオネルを守らなければならない。


 そのようなことを考えていると、麦粥も喉を通らないのだった。


 今の自分の立場と力では、この陰謀からリオネルを守り切ることはできないだろう。

 だから一刻も早く伝えたい。


 明日、宮殿でリオネルに接触する機会があるだろうか。

 ――いや。なければ、作らなければ。

 リオネルに伝えるまでは、心安らかに眠ることもできそうにない。


 思いつめた様子でうつむくアベルの横顔を、ジェレミーは不安げに見つめていた。






+++






 山が闇に染まっている。


 かつて己が住んでいた場所は、ひどく遠く感じられる。


 山中に住んでいたときは、厳しい冬でさえ愛おしく思えたのに、この館から眺めていると、拒絶されているような感覚を覚えた。それは、自分が山の生活を捨て、地上で暮らす道を選んだからだろうか。


 闇のなかでは、山と天空の境目は曖昧だ。

 天空に月はなく、代わりに無数の星が輝く。星たちの存在が、山と空の境目を教えてくれていた。


 ヴィートは山での生活を懐かしく思うが、戻りたいとは思わなかった。


 今は、ブラーガもエラルドも共にいる――このラロシュ邸に。

 まっとうな生き方が、ここにはある。


 平和に暮らしている罪なき人々を襲い、苦しめ、奪うのではなく、自らの力でなにかを生み出し、守り、そして与える。

 長いあいだ、求めつづけてきた生き方だった。


 山の生活に、未練はない。


 これからブラーガやエラルドと共に、そしてリオネルやラロシュ侯爵らの力を借りて、自分たちが地上で生きていく場所と役割を模索していくのだ。そのことに、ヴィートは希望を抱いていた。


 けれど、すべての理想を叶えつつあるのに、一抹の寂しさがある。

 それは、ひとりの少女のためだった。


 恋しい人から、自分は遠く離れている。そのことが、彼の心に小さな空洞を開けていた。


 心を通わせているわけではないが――、それでも、ただそばにいるだけでいい。

 生涯、彼女を守ろうと、心に誓っている。


 哀しいほど澄んだ瞳の少女――アベル。


 今、あの子はどこでなにをしているだろう。

 そばには、紫色の瞳の青年がいるだろうか。

 恋しさ、切なさ、そして不安、様々な感情が入り乱れた。



 部屋の扉が数回鳴ってから、開く。ヴィートは振り返らなかった。だれが戻ってきたのかはわかっている。


「まだ寝ていなかったのか?」


 親しい友人の声だった。


「なんとなく、眠れなくてね」


 窓枠にもたれかかり、闇に沈んだ景色を眺めながらヴィートは答える。


 背後でかすかに笑ったような気配を感じ、ヴィートはようやく扉口を振り返った。

 案の定、エラルドが笑みを浮かべてこちらを見ている。


「なんだ?」

「山にいたときも、おまえはよくそうやって窓に座って外を見ていたな」

「落ち着くんだ」

「あのときは、山の下に想いを馳せていたように見えたけど、今はここから山の上へ想いを馳せているように見える」

「……そんなわけじゃない」

「知ってるよ」


 決まりの悪そうなヴィートに、エラルドはあたたかい声音を向けた。


「あの子のことを考えていたんだろう?」

「…………」

「本当に綺麗な子だったな」


 ヴィートは黙っていた。


「――おまえが惚れるのも、わかるよ」

「惚れるなよ」


 即座に牽制され、エラルドは笑った。


「惚れないよ。おまえがぞっこんなのに、惚れられるわけがない。……もう仲間同士で争うのは御免だ」


 しばらく間をおいてから、ヴィートはうつむき、「そうだな」と声を落とした。


「ブラーガの様子はどうだった?」


 エラルドはブラーガの部屋を見舞ってから、この部屋に戻ってきたのだ。二人は交互に彼の体調と機嫌を確認しにいっていた。


「ああ、変わらずだ」

「そうか」


 安心したような声に、エラルドはそっと同情するような表情になる。


「なあ、ヴィート」

「ああ?」

「ブラーガの容体は落ち着いてる。このまま回復するのは間違いない。あいつのことはおれがしっかり見ているから、おまえはベルリオーズに行ったらどうだ?」


 星が、夜空を飾っている。けれど、友人の視線からも、瞬く星の美しさからも目を逸らし、ヴィートは虚空を見つめていた。


「会いたいんだろう?」

「……会いたいさ」

「なら行けよ。こっちは大丈夫だ」


 ヴィートの心をかけめぐる様々な想い。


 友人の言葉はありがたかったが、ここでうなずくことができたのなら、最初から彼女と別れる道など選ばなかった。


 残ると決めたのは、自分だ。

 怪我が治らぬ大切な友を置いて、どうして恋しい人を追って遠くへ行けるだろう。


 顔を上げ、寂しげに笑んだヴィートのその表情で、エラルドは彼が出した答えを悟る。


「なにもかも投げ打つ覚悟で臨まなければ、あの子を手に入れることは到底できないぞ」


 冗談でも冷やかしでもなく、エラルドは真剣に忠告した。


「ほしいものがあったら、死に物狂いで取りにいかないと――」

「たしかに、あの子の心がほしい。けれどそれ以上に、おれには失いたくないものがある」

「……それは?」

「確固たる意思だ」


 ヴィートの言葉に、エラルドはわずかに首を傾げた。


「今、アベルがおれを必要とするよりも、ブラーガのほうがおれを必要としている」

「…………」

「あいつはいつもどおりに見えるけど、まだ怪我は癒えていなくて、万が一の事態に陥ったときに充分に戦える体力はない。おれは、自分を必要としている友のそばにいると決めたんだ。あいつの怪我が治るまでは、アベルには会いにいかない。それはおれの意思だ――決断だ。騎士は、一度決めたことを容易に曲げたりしない」


 それが、騎士でありたいと願いつづけるヴィートの、意志であり、守るべき矜持だった。


「こうやって、おれの生き方を貫いたとき、あの子の心がそばにあれば幸せだと思う。でも、もしそうでなかったら――それでもいいんだ」


 それでもいい、というヴィートの言葉は、ラロシュ邸の静寂のなかにじんわりと溶け込んでいく。

 それがあまりに寂しげに響いたので、思わずエラルドは眉を寄せていた。


「……ヴィート」

「それでもいいんだ。……たとえ自分のものにならなくとも、それでもあの子を想いつづける。これも、おれの望む生き方だ」


 寂しげに見える雰囲気のなかにも、ヴィートはたしかに確固たる強さを秘めている。

 親友の切ないほどの想いに打たれて沈んでいた表情を、エラルドはかすかな笑みに変えた。


「アベルじゃなくて、おまえに惚れそうだよ、おれは」


 可憐で強く美しいアベルよりもよいが、ヴィートのひたむきな生き方にエラルドは心を揺さぶられる。

 あらためて、この友人の心の美しさに気づかされるのだ。


 一方ヴィートは、


「おれは、おまえじゃなくて、アベルに惚れてほしいけどね」


 と、当惑気味につぶやいた。








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