24
夕御飯の時間だったが、アベルの粥は先程からほとんど減っていない。
皆はもう二杯目を食べはじめているというのに、アベルの椀にはまだ一杯目の麦粥が並々と残っていた。
その様子を隣で見ていたジェレミーは、心配そうにアベルの横顔をのぞき見る。
夕方くらいから、どうも相棒の様子がおかしい。元気がなく、話しかけても上の空なのだ。食欲もなさそうである。
細い身体で煙突掃除などという過酷な仕事をしたせいで、体調を崩しているのかと、ジェレミーは不安になった。
「大丈夫、イシャス?」
小声でジェレミーはアベルに話しかける。
「どこか具合が悪いの?」
ぼんやりしていたアベルは、ジェレミーの声で我に返った。
「え……あ、いいえ」
反射的に麦粥の椀を両手で掴み、口元へ運ぶ。
「少し考えごとをしていただけです」
このとおり食欲はあるのだと言うように、アベルは一杯目の粥を一気に飲み下した。
「ならいいんだけど」
ジェレミーが少しほっとしたような顔をしたとき、ボドワンの妻ナタリーが二人の声を耳にして怒鳴った。
「なにを話してるんだい。とっととお食べ!」
ジェレミーは肩をすくめた。
「イシャス、あんたは麦粥のお代わりはいらないんだね!」
今度はアベルが肩をすくめる。
すると杯を重ねていたボドワン親方が、ちらとこちらを振り返った。
「今、一杯目を食べ終わったところです。二杯目をください」
ナタリーの顔色をうかがうふりをして、アベルは木椀を差しだす。
品定めするような目つきでナタリーがアベルを眺めていると、ボドワンが口を挟んだ。
「そいつには明日も宮殿で働いてもらわなくちゃ困る。粥を食わせてやれ」
不満げなナタリーであったが、親方の言うことには逆らわず、アベルの椀に粥を注ぎ足す。注ぎ終えると、うさんくさそうにアベルを一瞥し、ぷいと背を向けた。
自分も相棒も殴られずにすんだと、ジェレミーがちらとアベルに目で笑いかけるが、アベルはそれに気づかず、粥を目の前にして再びぼんやりとしていた。
その様子が気にかかったが、ここでこれ以上話しかければ、今度こそ親方かナタリーのどちらかに殴られるので、ジェレミーは黙っている。
木椀の粥からは、わずかな湯気が立ち上っていた。
おなかは空いているのだが、アベルはふと気がつくとそのことを忘れて、粥を食べる手を止めていた。
すべては、その日の夕方の出来事のせいである。
……考えれば考えるほど怖ろしく、いてもたってもいられない気持ちになるのだ。
数刻前のこと。
夕暮れ時、アベルはひとり屋根の上に座っていた。
つい先程まではジェレミーも隣にいたのだが、夕陽の美しさに見惚れていたら、気がつけば彼はいなくなっていた。
大きな雲が時折、夕陽を隠して辺りを闇に染める。
雲のふちから茜色の陽光がもれ、「天使の梯子」を濃紺の天空に渡し掛けるその光景の美しさといったら、息を呑むほどである。
それを眺めていたら、いつ煙突掃除にジェレミーが戻っていったかも気づかぬほどに時間が経っていた。
我に返ると同時に、急に風が強まったように感じた。
アベルは戻ろうと思った。
不安定な屋根の上で立ちあがる。
そのとき強く吹いた風に均衡を崩したアベルは、とっさに近くにあった煙突に捕まった。
すると風にまぎれて、ある言葉がアベルの耳の脇を吹き抜けていく。
聞えてきた言葉。
それは。
――リオネル、という名だった。
捕まった煙突から聞こえてきたに違いない。
ここまで届くということは、最上階の一室につながっている煙突なのだろう。
気になる。
胸騒ぎがする。……以前感じたのと同様の胸騒ぎ。
アベルは煙突に耳を寄せた。
けれど聞こえてくるのは、男性の声らしき、低い音だけである。
なぜ「リオネル」という音だけ、はっきりと聞こえたのだろう。聞き間違えだろうか。いや、そんなはずはない。たしかに聞えたはずだ。
ごくりとアベルは唾を飲む。
宮殿の最上階に立ち入ることを許されているのは、王族か高位の貴族だ。彼らの話を盗み聞きするなど、けっして許されぬことである。
だが、アベルはその煙突に、緊張する身体を滑り込ませた。
理屈ではない。
アベルを衝き動かしていたのは、主人の危険を察知する直感や本能のようなものだった。
なにか不吉なものを感じてしかたない。
ゆっくり、ゆっくりと下りていく。
煤が目に入り、目を開いていられないほどの痛みが走る。けれどアベルはじっと我慢して声が拾えるところまで降下した。
会話はようやく聞えるというところだが、これ以上近づけば気配を察知されるかもしれない。
できるかぎりアベルは気配を消し、そして耳を澄ました。
聞こえてくるのは、複数の男性の声である。いずれもはじめて聞く声だった。
『……女中……が……見た……』
『……だれ……毒……』
はじめは、はっきり聞えなかった声も、神経を集中させると徐々に明瞭になってくる。
『運んでくる途中で毒を入れたと言われてしまえば、それまでではないか』
位の高い者なのだろう、傲慢な響きのある語調だ。
毒という穏やかならぬ言葉に、アベルの表情は強張った。
『そのとおりでございます。なので、直前までは入れないのですよ』
次は年配の男の声だ。
『ならば、だれが毒をひそませるのだ』
『殿下でございます』
――殿下。
聞こえた言葉を、アベルは信じられぬ思いで頭のなかで反芻した。
シャルムで「殿下」と呼ばれる者は二人しかいない。
ひとりはリオネルやディルクの友人であり、アベルもよく見知っているレオン王子。いまひとりは、彼の兄であるジェルヴェーズ王子だ。
この声はレオンではない。
とすると――。
低い笑い声が聞こえる。
『私が、か――おもしろいではないか。私が自らの手で、自らの杯に毒を入れるとは』
『殿下ご自身がお入れになれば、だれも気づきますまい』
『ふむ……』
『それから女中が騒ぎ立てるのです、リオネル・ベルリオーズが殿下の杯に毒を入れたのを、目撃したと』
アベルの心臓が跳ねた。
――これは罠だ。リオネルを陥れる、卑劣な罠。
この男たちはリオネルを欺く算段をしている――。
怒りと恐怖でアベルの全身は熱を帯び、震えた。
『うまい運びですな』
別の中年の男の声がする。
『それで、どうするのですかな?』
『おそらくリオネル殿は否定するでしょう。そのときに殿下はこう答えるのです』
――ならば、貴公が飲んでみよ。入れていないならば、ためらう必要はない。毒を入れていないことを今この場で証明し、自らの潔白を晴らせ、と。
再び愉しげな笑い声があがった。
『それはおもしろい』
『飲まなければ、自らの罪を認めるということになり、飲めば、殿下の暗殺を企てた謀反人として死んでいくだけでございます』
『けれど、陛下から功績をたたえられた直後に謀反が発覚するのは、いささか具合が悪いのではありませんか?』
中年の男の質問に対して答える声は、自信に溢れていた。
『事を運ぶのは五月祭の前日。そうすれば陛下から栄誉を授かるより前なので、問題ないでしょう。いかがですかな、殿下』
『愉快な筋書きだ――うまくいけばな』
『うまくいかないわけがございません』
『いちおう我が軍師殿の意見を聞いてみようか。彼はすぐにここへ来る』
このとき、わずかな沈黙があり、それから再び年配の声が低く響いた。
『もしあの方がこの計画を知れば、難色を示されるでしょうな。五月祭の当日に、殿下への忠誠を誓わせるという計画が狂いますから』
『ほう、内密にしておくというか』
『……殿下のお心次第でございます』
再び部屋には沈黙が訪れる。
この沈黙が長かった。
アベルの手足は限界に達していた。筋肉が痙攣し、体重を支えきれなくなっている。落下してしまう前に、屋根まで這い上がらねばならない。
軋む身体で煙突を引き返す。
けれどその途中、かすかに聞きなれぬ声が聞こえてきて、不意に動きを止めた。
『遅く……申し……ざいません』
『……ていたのだぞ、……ィ……ル』
『な……楽しいご計画……ていらした……か?』
『いや、なにも……そ……あろう……スティ……公爵』
再び無理な体勢で止まったせいで、関節が燃えるように痛い。
そのとき、突然声がはっきりした。
『煙突のほうから気配を感じませんか?』
はっきりと聞こえてきたのは、煙突のほうへ向けて声が発っせられたせいだろう。
アベルは無我夢中で煙突を登りはじめた。
暖炉のなかから上を覗かれたら最後だ。抜けて見えるはずの空が欠けて見えれば、すぐにだれかいることを気づかれる。
やっとのことで登りきり屋根の上に転がったときには、関節や筋肉の痛みだけではなく、肘や膝がひどく擦り切れ、そこに煤が付着し激痛が走った。
アベルは荒く呼吸をして、ただ空を見上げる。
うまく逃げられたのかどうか確証はない。――すぐにジェレミーと合流して仕事に戻らなければ。
そして五月祭の前日までに、卑劣な陰謀があることをリオネルに伝えなければならない。無事に逃げきることができなければ、主人を救うことはできないのだ。
アベルは無我夢中でジェレミーのもとへ戻った。
そのころ、煙突の下では……、
『暖炉を覗くのか? 服が汚れるぞ、フィデール。鼠がいるなら火を焚けばいい』
『火を焚いているうちに、鼠が逃げてしまうかもしれません』
暖炉に近づくフィデール。
そして、長身をかがめて器用に上を覗き込んだちょうどそのとき、アベルは脱出し終えたところだった。
『どうだ?』
『……なにもありません』
そう答えるフィデールは、腑に落ちぬ面持ちである。
『先程から風が強まったようですから。気配を感じたのは、そのせいでしょう』
と、なにごともなかったかのように言うのはルスティーユ公爵。彼こそが、リオネル暗殺の計画を語っていた人物である。
公爵にとって、この計画をフィデールに知られるのは甚だ不都合なことであった。
ルスティーユ公爵は、なんとしてでもリオネルを早々に殺してしまいたい。巧妙だが遠回しな方法でリオネルを欺こうとするフィデールとは、考え方が相容れないのだ。
『フィデール殿がおいでになるのを待っていたのです。そのあいだ、ブレーズ公爵殿がいかにして過ごされているかなど、他愛のないことを話していました。さあご嫡男殿も、そちらへ座られよ』
なにか勘づいているようでもあったが、必死にごまかそうとするルスティーユ公爵に、フィデールは儀礼的な笑みを向けただけだった。
恐怖がアベルを支配していた。
男たちが話していた計画は、卑怯で残酷なものだ。
もしリオネルが毒を飲んでしまったら、その場で彼は死んでしまう。
もし毒杯をあおらなくとも、リオネルが謀反の罪で投獄されてしまったら、その先に待つものは……。
どちらにせよ、あの優しい主人が辿るのは残酷な運命だ。
背筋がぞくりとして、息苦しささえ覚えた。
それも、計画に加わっている者のひとりは、レオンの兄であり、リオネルの従兄弟でもあるジェルヴェーズ王子――シャルムの時期国王の座に最も近い地位にいる者だ。
とてつもなく強大な力から、リオネルを守らなければならない。
そのようなことを考えていると、麦粥も喉を通らないのだった。
今の自分の立場と力では、この陰謀からリオネルを守り切ることはできないだろう。
だから一刻も早く伝えたい。
明日、宮殿でリオネルに接触する機会があるだろうか。
――いや。なければ、作らなければ。
リオネルに伝えるまでは、心安らかに眠ることもできそうにない。
思いつめた様子でうつむくアベルの横顔を、ジェレミーは不安げに見つめていた。
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山が闇に染まっている。
かつて己が住んでいた場所は、ひどく遠く感じられる。
山中に住んでいたときは、厳しい冬でさえ愛おしく思えたのに、この館から眺めていると、拒絶されているような感覚を覚えた。それは、自分が山の生活を捨て、地上で暮らす道を選んだからだろうか。
闇のなかでは、山と天空の境目は曖昧だ。
天空に月はなく、代わりに無数の星が輝く。星たちの存在が、山と空の境目を教えてくれていた。
ヴィートは山での生活を懐かしく思うが、戻りたいとは思わなかった。
今は、ブラーガもエラルドも共にいる――このラロシュ邸に。
まっとうな生き方が、ここにはある。
平和に暮らしている罪なき人々を襲い、苦しめ、奪うのではなく、自らの力でなにかを生み出し、守り、そして与える。
長いあいだ、求めつづけてきた生き方だった。
山の生活に、未練はない。
これからブラーガやエラルドと共に、そしてリオネルやラロシュ侯爵らの力を借りて、自分たちが地上で生きていく場所と役割を模索していくのだ。そのことに、ヴィートは希望を抱いていた。
けれど、すべての理想を叶えつつあるのに、一抹の寂しさがある。
それは、ひとりの少女のためだった。
恋しい人から、自分は遠く離れている。そのことが、彼の心に小さな空洞を開けていた。
心を通わせているわけではないが――、それでも、ただそばにいるだけでいい。
生涯、彼女を守ろうと、心に誓っている。
哀しいほど澄んだ瞳の少女――アベル。
今、あの子はどこでなにをしているだろう。
そばには、紫色の瞳の青年がいるだろうか。
恋しさ、切なさ、そして不安、様々な感情が入り乱れた。
部屋の扉が数回鳴ってから、開く。ヴィートは振り返らなかった。だれが戻ってきたのかはわかっている。
「まだ寝ていなかったのか?」
親しい友人の声だった。
「なんとなく、眠れなくてね」
窓枠にもたれかかり、闇に沈んだ景色を眺めながらヴィートは答える。
背後でかすかに笑ったような気配を感じ、ヴィートはようやく扉口を振り返った。
案の定、エラルドが笑みを浮かべてこちらを見ている。
「なんだ?」
「山にいたときも、おまえはよくそうやって窓に座って外を見ていたな」
「落ち着くんだ」
「あのときは、山の下に想いを馳せていたように見えたけど、今はここから山の上へ想いを馳せているように見える」
「……そんなわけじゃない」
「知ってるよ」
決まりの悪そうなヴィートに、エラルドはあたたかい声音を向けた。
「あの子のことを考えていたんだろう?」
「…………」
「本当に綺麗な子だったな」
ヴィートは黙っていた。
「――おまえが惚れるのも、わかるよ」
「惚れるなよ」
即座に牽制され、エラルドは笑った。
「惚れないよ。おまえがぞっこんなのに、惚れられるわけがない。……もう仲間同士で争うのは御免だ」
しばらく間をおいてから、ヴィートはうつむき、「そうだな」と声を落とした。
「ブラーガの様子はどうだった?」
エラルドはブラーガの部屋を見舞ってから、この部屋に戻ってきたのだ。二人は交互に彼の体調と機嫌を確認しにいっていた。
「ああ、変わらずだ」
「そうか」
安心したような声に、エラルドはそっと同情するような表情になる。
「なあ、ヴィート」
「ああ?」
「ブラーガの容体は落ち着いてる。このまま回復するのは間違いない。あいつのことはおれがしっかり見ているから、おまえはベルリオーズに行ったらどうだ?」
星が、夜空を飾っている。けれど、友人の視線からも、瞬く星の美しさからも目を逸らし、ヴィートは虚空を見つめていた。
「会いたいんだろう?」
「……会いたいさ」
「なら行けよ。こっちは大丈夫だ」
ヴィートの心をかけめぐる様々な想い。
友人の言葉はありがたかったが、ここでうなずくことができたのなら、最初から彼女と別れる道など選ばなかった。
残ると決めたのは、自分だ。
怪我が治らぬ大切な友を置いて、どうして恋しい人を追って遠くへ行けるだろう。
顔を上げ、寂しげに笑んだヴィートのその表情で、エラルドは彼が出した答えを悟る。
「なにもかも投げ打つ覚悟で臨まなければ、あの子を手に入れることは到底できないぞ」
冗談でも冷やかしでもなく、エラルドは真剣に忠告した。
「ほしいものがあったら、死に物狂いで取りにいかないと――」
「たしかに、あの子の心がほしい。けれどそれ以上に、おれには失いたくないものがある」
「……それは?」
「確固たる意思だ」
ヴィートの言葉に、エラルドはわずかに首を傾げた。
「今、アベルがおれを必要とするよりも、ブラーガのほうがおれを必要としている」
「…………」
「あいつはいつもどおりに見えるけど、まだ怪我は癒えていなくて、万が一の事態に陥ったときに充分に戦える体力はない。おれは、自分を必要としている友のそばにいると決めたんだ。あいつの怪我が治るまでは、アベルには会いにいかない。それはおれの意思だ――決断だ。騎士は、一度決めたことを容易に曲げたりしない」
それが、騎士でありたいと願いつづけるヴィートの、意志であり、守るべき矜持だった。
「こうやって、おれの生き方を貫いたとき、あの子の心がそばにあれば幸せだと思う。でも、もしそうでなかったら――それでもいいんだ」
それでもいい、というヴィートの言葉は、ラロシュ邸の静寂のなかにじんわりと溶け込んでいく。
それがあまりに寂しげに響いたので、思わずエラルドは眉を寄せていた。
「……ヴィート」
「それでもいいんだ。……たとえ自分のものにならなくとも、それでもあの子を想いつづける。これも、おれの望む生き方だ」
寂しげに見える雰囲気のなかにも、ヴィートはたしかに確固たる強さを秘めている。
親友の切ないほどの想いに打たれて沈んでいた表情を、エラルドはかすかな笑みに変えた。
「アベルじゃなくて、おまえに惚れそうだよ、おれは」
可憐で強く美しいアベルよりもよいが、ヴィートのひたむきな生き方にエラルドは心を揺さぶられる。
あらためて、この友人の心の美しさに気づかされるのだ。
一方ヴィートは、
「おれは、おまえじゃなくて、アベルに惚れてほしいけどね」
と、当惑気味につぶやいた。




