23
やり切れぬ思いでいたのは、この少年も同じである。
王族の寝室が続く回廊をひとり歩んでいるのは、ディルクやフィデールと別れたばかりのカミーユだった。
まだノエルのもとへ戻るには早い。
けれど、他に行く場所もない。
自分の部屋へ行けばトゥーサンがいるが、一度そこで落ち着いてしまったら、再びこの受け入れがたい現実が渦巻く場所に足を踏み入れることができそうになかった。
自分が知っていた狭い世界。
デュノア邸の庭、こぢんまりした屋敷、マイエの街並み、街を囲う城壁、どこまでも続くように見える丘と、その先にあるローブルグとの国境……厳しい父と、病弱だが優しい母、トゥーサンと乳母のエマ、そして強く美しい姉のシャンティ。
今までは、これらが世界のすべてだった。
広い世界は、これよりもっと素晴らしいものが溢れているはずだった。
けれど狭い世界から外へ飛び出し、まっすぐに顔を上げてみれば、想像していたような夢や希望ではなく、そこには暗くて重い現実や社会が広がっていた。
自分は立ち向かわねばならないのだということを、少年は知っている。
多くの大人たちがそうしているように。あるいは――。
立ち向かうことができなかったとき、自分は大人になりきれぬ「大人」として、生きねばならなくなる。それは、世界に怯えて自分自身のなかに閉じこもる「大人」だ。
けれど、そのどちらでもない生き方を、カミーユは選んでみたいとも思う。
この現実に「慣れて」しまいたくない。
怯えながらも、立ち向かいつづけたい。
この世の現実をただ受け入れることが、大人になることだとすれば、大人など価値のない生き物だと思う。
震える心を持たずして、どうして世の中の真実が見えるだろう。
この世には、楽しみや喜びよりも、苦しみや哀しみのほうが多いのだから。
国王派と王弟派の対立だとか、ブレーズ家とベルリオーズ家の諍いだとか、ジェルヴェーズ王子の暴虐だとか、そんなものを現実だといって受けいれることが大人になることだとすれば、大人になんて――騎士になんて、諸侯になんて、王家の家臣になんて、なりたくないと思った。
同時に、ディルクやリオネルのように、この現実のなかでも毅然と、そして温かい心を忘れずに生きる人たちに憧れる。
彼らはきっと、強く、澄んだ魂を持っているに違いない。
豪華な廊下が続く。
深い考えに沈みながら歩んでいたとき、カミーユは空耳のように、かすかな泣き声を聞いた気がした。
女性の声だ。
カミーユは顔を上げて、周囲を見渡す。
彼が立っているのはジェルヴェーズの寝室の前。
部屋の主が不在なのだろう、近衛兵は立っていない。
ふとカミーユの目にとまったのは、小さな扉――以前、ここを通ったときにも気になり、共に歩いていた叔父のノエルにこの部屋について尋ねたことがあった。
そのときノエルは、「ジェルヴェーズ殿下の寵姫が住まう部屋」だと説明してくれたはずだ。
カミーユはその部屋へゆっくりと近づく。
扉はうっすらと開いていた。声はここから洩れ聞こえてきたのだろう。
我知らず、カミーユは扉をそっと押していた。
音も立てずに開く扉――その向こうには、橙色の光があった。
淡い夕暮れ色に染まる部屋にいたのは、紫紺色のドレスをまとった、ひとりの娘だった。
娘といっても、カミーユより少なくとも五つは年上であろう。
長椅子に腰かけ、背もたれに顔を隠すようにして彼女は泣いていた。
その姿を目にした瞬間、カミーユのうちにもある種の哀しみが込み上げる。泣いている理由はわからない。けれど、彼女が泣く姿には、胸を締めつけるものが確かにあった。
カミーユの存在に気がついた娘は、はっとする。
彼が部屋にいることに対して驚いたのではなく、相手の顔を確認してから驚いたかのようにも見えた。
まるで、以前から見知っていたような反応だったが、カミーユが彼女を目にするのはむろん初めてのことである。
「……あなたは?」
当然の質問だろう。
娘はカミーユに尋ねた。さして警戒する様子でもなく。
「貴女はどうして泣いているの?」
逆に聞き返したのは、カミーユだ。
「貴女が、ここに住んでいる人?」
二人は顔を見合わせて沈黙し、そして娘は少し笑い、カミーユは哀しげな顔をした。
「どうして笑うんだ?」
「あなたは、わたしの質問には答えてくださらないのに、わたしには質問ばかりするのですね」
きょとんとしてから、カミーユは自分の行動を思い返し、短く謝る。
「……ごめん」
娘は頬に残る涙を拭い、謝罪した見知らぬ少年に向きなおると、名乗ろうと口を開いたカミーユより先に声を発した。
「あなたがどなたかは存じ上げませんが、ここにいたら危険です。早く出ていったほうがいいわ」
突然なにかに怯えるように突き放した言い方をしたので、カミーユは再び尋ねる。
「どうして泣いていたの?」
同じことを問われて、娘は沈黙した。
「危険だというのは、ジェルヴェーズ王子のこと?」
「…………」
「貴女は、あの人にひどいことをされて泣いていたの?」
娘は困ったようにカミーユから視線を逸らし、そして、ささやくような声で答えた。
違うわ、と。
「でも、哀しいんだろう?」
遠慮もためらいもなく尋ねてくる少年に、娘はなんだかおかしくなってきて、うつむきながら笑った。
「さっきから、どうして笑うの?」
「本当に質問ばかりなのですね」
瞳に笑みをたたえたまま、娘は顔を上げてカミーユを見る。
カミーユはなにかを理解し、そして、ありのままのことをすべて話した。
「おれは、カミーユ・デュノア。従騎士として宮殿で修行している。ここにはたまたま通りかかっただけだけど、泣く声がしたから気になって入ってしまったんだ。断りもなく貴婦人の部屋に入ったことは、失礼な行為だったと思ってる。ごめんなさい」
一気に話し終えると、今度は娘のことを問う。
「おれのことは話したよ。今度は貴女のことを教えてよ。どうして泣いていたの? なぜ二回も笑ったの? 貴女はなにに怯えているの?」
娘は不思議なものを目にするようにカミーユを見やる。
「カミーユ・デュノア様。おかしな方ですね。なぜわたしのことを、そのようにお尋ねになるのです?」
「気になったから」
カミーユは正直に答えた。
「だれかが泣いているところを見るのは、辛い」
「どうして?」
問われてカミーユはわずかに表情を曇らせる。
……真横から差し込む夕陽が、目に沁みる。
なぜ、泣いているのを見ることが苦手なのか。
それはきっと、あの人を思い出すから。
あの嵐の日、腕のなかで悲痛な泣き声をあげていたあの人は、きっと心の底から救いを求めていたに違いなかった。
それなのに、自分には救うことができなかった。
「姉さんを、思い出すからだ」
今だったら、違う結果を導きだすことができたのだろうか。
「おれには、姉さんがいたんだ。おれのまえで涙なんて見せたことのなかった人だった。けれど、そのとき姉さんは泣いたんだ。おれはどうすることもできなくて――気がついたら、なにもかも取り返しがつかなくなってた」
だからこそ、泣いている人がいたら放ってはおけない。
助けてあげたいと、思う。思わずにはおれない。
変えることのできぬ過去に、それと知って抗おうとするように。
「そうなのですか……」
表情や口調にあどけなさを残す少年を見つめながら、娘は静かに言った。
「わたしが最初に笑ったのは、あなたがわたしより哀しそうな顔をしていたからです」
「…………」
「お姉様を思い出されていたのですね。笑ったりして、ごめんなさい」
カミーユは首を横に振った。
「あと私はなにを聞かれたでしょうか……? なにに怯えているかという質問でしたね」
思い出しながら、娘はひとつひとつ丁寧に答えていく。
「あなたのおっしゃるとおり、ジェルヴェーズ殿下を怖れています。けれど今は、わたし自身についてというより、ここにいるあなたに殿下がひどいことをするのではないかということを、怖れています」
「きみ自身については?」
娘はかすかに笑った。自嘲するような笑いだった。
「逆らわなければ、あの方がわたしにひどい暴力を振るうことはありません」
「でも貴女は哀しそうだった」
そうですね、とつぶやいた娘は、そっと視線を部屋へ彷徨わせ、けれど落ち着く先を見つけられなかったのか、そのまま視線を床へと落とす。
「自分でもわからないのです、なにが哀しいのか」
カミーユは、娘の次の言葉を待った。
「ここにいたいわけではありません。けれど、どこへ行きたいわけでもなく……ただ、なんとなく哀しいのです」
「……ジェルヴェーズ王子のことを慕っているの?」
「いいえ」
答える口調は強くないが、きっぱりとしたものだった。
少年の顔は、哀しみとも悔しさともつかぬ色に曇っていく。
「好きじゃないのに、貴女はあの人のそばにいるのか?」
「そうするしかなかったのです」
娘の声は、窓の外の景色のように、暗く沈んでいく。
紫紺のドレスが、哀しみの色そのものに見える。それをまとう娘よりも、カミーユのほうが泣きそうな顔をしていた。
「どうしてそんなふうに言えるのか、おれにはわからない」
唇を噛む少年を、娘はすまなそうに見つめる。
「あなたを哀しませているのはわたしですね。ごめんなさい」
「わからないのは、おれが子供だからなのかな」
娘は瞼を伏せた。
「好きでもない人に抱かれなくちゃならないのが、この世界の現実なのか? それが、大人の世界なのか?」
少年の心はどこまでも純粋だった。
その純粋さに打たれ、娘は動揺する。
そう、それは動揺だ。
「しかたがない」と思って受け入れていたもの――そこに潜む矛盾と過ち、そして秘めたる本心に気づいたとき、人は狼狽するのだ。
忘れていられたら、どれほど幸せだっただろうか。
どれほど気楽だったろう。
哀しみの理由がわからないなどというのは、自らに対してついた嘘だ。ごまかしに過ぎない。
本当は知っている。
なぜ、哀しいのか。
なぜ泣いていたのか。
魂は、ちゃんと知っている。
好きな人がいるの……、と娘はつぶやいた。
「わたしには、恋慕う人がいます。本当は、その人以外のだれにも触れられたくなんてなかったわ」
もう娘は泣かない。
けれど、彼女の青い目は、とても遠いところを見ていた。
本心を語った娘は魂が抜けたような顔をしていたが、けれど、カミーユは逆に強い決意のようなものを青灰色の瞳に宿していた。
「それなら――」
途切れた声の続きを求めるように、ゆっくりと娘は視線を少年へ向ける。
向けられた相手の瞳をしっかりと見つめながら、カミーユは言い放った。
「それなら、ここを出ればいい」
少し怒っているようにも聞こえる少年の声。
娘は咄嗟に返す言葉を見つけられない。
「こんな部屋、出ていくんだ」
もう一度カミーユは言った。
え、と言おうとした娘の口は、開いたまま声を発することができずにいる。
「好きな人がいるんだろう?」
ようやく娘はぎこちなくうなずいた。すると少年のうちから怒りのようなものが離れていき、代わりに大人びて聞こえるほど落ち着いた口調で言う。
「なら、こんな場所にいたら、貴女の心は引きちぎられてしまうよ」
「…………」
宮殿の庭を焼きつくすような深紅の夕陽が、窓の向こう側で沈もうとしている。
真横から光を受けるカミーユの姿は、その金色の髪も、白い肌も、近衛の制服も、すべてが溶けるような緋色に染まっていた。
娘はまるで夢を見ているような気がした。
――あのときのように。
「おれはもう行かなくちゃいけない。けれど、必ず明日もう一度ここへ来るから。そのときまでに、決めておいて。もし貴女が望むなら、おれがここから連れ出してあげる」
ああ、と娘は思った。
目の前の少年は、あの人と同じことを自分に言うのだ、と。
――あの人と同じ色の瞳で。
その瞬間、夕陽が大きな千切れ雲に隠されて、部屋からは明るさが消え去る。
光と陰がせめぎあい、娘のなかで激しい葛藤が生じた。
必ずまた明日来る、と約束して踵を返した少年が、扉のまえで振り返る。
「名前を――、まだ聞いてなかった」
「……クラリス」
名を聞いたカミーユが、クラリスに向けて笑った。
再び雲から逃れた夕陽が、少年の笑顔を照らしだす。
目を細めなければならないほど、クラリスはそれを眩しく感じた。
カミーユが扉を開けて出ていく。
夕陽がサン・オーヴァンの街の彼方へ落ちていく。
残されたのは、深い闇。
身震いするほどの、冷たい闇だった。




