第二章 暗い陰謀と冷たい雨 22
太陽が西の空に傾きかけている。
水色の空には、手で無造作に千切ったような雲が浮かんでおり、時折、大きな雲が赤味を帯びはじめた太陽を隠してシャルム宮殿を暗く沈ませた。
大回廊から寝室へ向かう途中の廊下を、昼に国王と謁見をすませた貴族の青年らが歩んでいる。
廊下は、宮殿の建物内にある小さく区切られた中庭に面しており、窓から差し込む光の様子から、雲が出てきたことがよくわかる。
「想像以上に、危険な男かもしれないな」
小声で論評したのは、ディルクだった。
「噂には聞いていけど、あれほど気が短いとはね。あそこでレオンが現れなかったら、おまえに短剣でも投げつけてたんじゃないか?」
リオネルは苦笑しただけで黙っている。
「レオンの様子を探るより先に、おまえが大怪我を負うところだったよ。あの王子様はどうも、なにをしでかすか読めないな」
主人らの背後を歩むベルトランが、低い声でディルクに同意する。
「初日から、現王家に剣を向けることになるかもしれないと、あのときおれは覚悟を決めたぞ」
「心配をかけてすまなかった」
短くリオネルは謝罪した。
リオネル自身も、ジェルヴェーズの気性の荒さを読み切れておらぬところはあったのだ。
そして未だに、あの王子が激昂すればどれほどの行為に及ぶのか想像ができない。
けれど、リオネルとジェルヴェーズのやりとりを見守っていた周囲は、本人以上に気が気でなかったようだ。そのことで気苦労をかけたことを、リオネルはすまなく思った。
「おまえのせいじゃない」
苦々しげにベルトランは吐き捨てる。
「というと?」
興味を引かれて尋ねたのはディルクだ。
「リオネルを見る第一王子の目は、はじめから敵意と憎悪に満ちていた」
「……なるほど。たしかにそうだったかもしれない」
「近づかないほうがいい」
太陽の白い光が差したり陰ったりする廊下を、リオネルは黙って歩んでいた。
そしてだれにともなく呟く。
「おれの命を奪おうとしているのは、彼なのだろうか」
すぐには、だれも返事をしない。
光が廊下の床に広がり、それから再び陰ったとき、ベルトランがようやく答えた。
「従兄弟だとか――いっそのこと、血縁関係など忘れたほうがいい」
再び廊下は静かになる。
だれもなにも言わないので、ベルトランは続けた。
「命を狙っている者のうちのひとりかもしれないし、そうではないかもしれないが、どっちにしろ、おまえの存在を憎んでいることには変わりない」
「……憎んでいる、か」
ぼそりとつぶやいたリオネルの声は、思案に沈んでいるようだった。
リオネル自身、あのときジェルヴェーズが抱く憎悪を、肌がひりつくほど感じとることができた。刺客を送ってくる首謀者がジェルヴェーズか否かなど問題ではなく、彼が自分の存在を疎ましく思っていることそれ自体に深い禍根があるのだ。
疎まれているからといって、リオネルがジェルヴェーズを憎むわけではない。
けれど、無為に刺客を送りつけ、自分の大切な人たちまでも傷つけようとしているのであれば、リオネルは彼を赦すことができないだろう。
「ベルトランじゃないけど、おれも気がかりだ」
そう口にする様子は、ディルクにしては深刻だった。
「ひとりであの男には近づくなよ、リオネル」
「心配性が、二人か」
微笑しつつ、リオネルは、ベルトランとディルクの二人を見やる。
「冗談を言ってる場合じゃないぞ。あいつはカルノー伯爵を一方的に斬り殺したんだ。おまえにも同じことをしないとはかぎらない。――おまえがむざむざ斬られるとは思わないけど、相手が相手だからな」
苦い表情でディルクがそう言ったとき、後方から彼を呼び止める者がいた。
振り返った皆の目に飛び込んできたのは、金色の髪の少年だった。
「カミーユ」
わずかな驚きと、再び出会えた喜びを混ぜ合わせて、ディルクは少年の名を呼ぶ。
カミーユはひとりだった。
「間近で見る礼服姿もかっこいいなあ!」
嬉しそうに駆け寄ってきたかと思えば、第一声がこれだ。
思わず周囲の者は口元をほころばせる。
この少年は、ディルクのことが好きで好きでたまらないらしい。だれの目にも、その姿はほほえましく映った。
「やっぱりここにいたんだね。最後に見たときは、大回廊でお偉方と話してたから、部屋に戻る途中なら、ここを通ると思ったんだ」
「おれを探してたのか?」
「少し時間ができたから、会えるかと思って」
「そうか、それならしばらく羽根を伸ばしていられるな」
「謁見のあいだ、おれは近衛兵の列にいたんだ。気づいた? さっきはどうなることかと思ったよ。さすがにマチアスも気を揉んだだろう?」
立場をわきまえ、普段は主人らの会話に積極的に参加しないマチアスも、話をふられてようやく口を開く。
「そうですね。けれど私以上に、ベルトラン殿のほうが気を揉まれていたと思いますよ」
そう言われて、カミーユはどこか遠慮気味に赤毛の騎士を見上げてから、すぐに視線をリオネルへ移した。
長身で口数が少なく、いかにも強そうなうえに、自分に対しても鋭い警戒心を向けてくるベルトランが、カミーユにとっては苦手なのだった。
だからカミーユは、ベルトランではなくリオネルに話しかける。
「謁見の際のリオネル様は、本当にかっこよかったです。ジェルヴェーズ王子を言い負かすなんて、リオネル様の他に今までいなかったんじゃないかな。だれもが怒りを買うことを恐れて、顔色をうかがってばかりいるから」
不満そうなカミーユに、リオネルは穏やかに告げた。
「殿下のあの様子ではしかたがないことだ。すぐに激することを承知のうえで、正直な意見はなかなか述べられない――彼はこの国の王子だ」
「リオネル様は? どうしてあんなふうに毅然としていられるんですか?」
まっすぐに質問をぶつけられて、リオネルはやや返答に迷う。
なぜと言われても、レオンの様子が気になったからとしか言いようがない。
けれどそれでは、少年が納得する答えにはならないだろうこともわかっていた。
「……従兄弟、だからかな?」
その回答にリオネル自身いささか腑に落ちなかったが、カミーユは少し納得したようである。それは実のところ、従兄弟のフィデールを思い出したからだった。
けれど、ディルクはすかさず口を挟む。
「こいつはだれの前でも変わらないよ。リオネル、おまえ、この世で怖いものがあるのか?」
「たくさんあるよ」
「たとえば?」
「たとえばか……そうだな」
リオネルは、しばし考えこんでから、
「ベルトランとか、アベルとか」
と、冗談めかして言うと、ディルクが盛大に笑う。
「家臣ばっかりじゃないか。しかも、だれよりも身近な」
「おれのどこが怖いんだ?」
不服そうなベルトランに、
「どう見ても怖いよ」
と、断言したのはカミーユ。
うっかり本音をこぼしてしまってカミーユは青ざめるが、ディルクが大爆笑していたので、少しほっとする。「怖い」と言われた当の本人は、仏頂面だったが。
「アベルという人も、こんなふうに怖いの?」
この際、遠慮なく聞くことにしたカミーユに、ディルクは首を横に振った。
「リオネルにとっては、別の意味で怖いんだろうね」
不思議そうな顔の少年に、リオネルは微笑する。
「まっすぐで一生懸命で、でも時折、消えてしまいそうに見えるから、とても怖い」
カミーユはリオネルを見ながら数回瞬きをし、それから、首をかしげた。
……まっすぐで一生懸命な人が、どうして怖いのかわからない。
「少しきみに似ているよ」
「私に?」
「まっすぐなところとか、屈託のない笑い方とかが……なんとなく」
「私は、リオネル様にとって怖い人間なのですか?」
その質問には、リオネルやディルクだけでなく、ベルトランやマチアスでさえ笑った。
真面目に聞いたのに、カミーユはなぜ笑われるのかわからない。
大人の世界はよくわからないが、けれど、ディルクやリオネルがいるその世界は、とてもかっこよくて眩しくて楽しい場所だった。
皆の笑いがおさまると、リオネルが思い出したように言う。
「――『様』はつけなくていい。ディルクのことは呼び捨てなんだろう? 『リオネル』でかまわない」
「でもトゥーサンから言われています。リオネル様はとても偉い方だから、けっして慣れ慣れしく話してはいけないと」
「では、それはトゥーサン殿の前だけとしよう」
いたずらっぽく言うリオネルに、カミーユは顔をほころばせた。
「王家の正しい血筋を引いている方と言われているのに、貴方は気さくなんですね」
「ついでに敬語もいらない。ディルクの友達なら、おれの友達でもあるのだから」
「なんだかディルクと友達で得した気分です。でも、やっぱり私は――」
そう言いかけたとき、カミーユはふと顔を上げた。
廊下の先に現れた人物と目が合う。
――フィデールだった。
その場の空気に、わずかな緊張感が走った。
「そんなところでなにをしているんだ、カミーユ?」
フィデールの声には苛立ちがにじんでいる。
この人がカミーユのまえで、苛立ちを露わにするのは、珍しいことだった。
けれどカミーユはその理由を知っている。
それは自分が親しげに話している相手のせいだ。
ブレーズ家とは最大の政敵同士であるベルリオーズ家の嫡男リオネルや、その親友で王弟派のアベラール家の嫡男ディルクと、談笑していたからに他ならない。
カミーユにしてみれば、特にフィデールのほうが親しいとか、ディルクやリオネルのほうが好きとか、そういった考えは一切ない。フィデールは尊敬する従兄弟であり、ディルクやリオネルは憧れの騎士である。
だがフィデールは、そう単純には捉えることができないようだった。
かつかつと靴音を響かせて、フィデールはカミーユの近くまで歩み寄ると、
「ノエル殿のもとへ戻りなさい」
と低い声で命じた。
感情では納得がいかなかったが、心のどこかでは、「家」を背負う者としてそうすることが本来ならば正しいのだということも知っていた。
カミーユにも、「感情」と「現実」の区別くらいはついているのだ。
はい、と小さく返事をして足を一歩踏み出してから、なにかを確かめるようにカミーユはディルクを見上げた。
柔らかい茶色の瞳が、カミーユを温かく見守っている。
「休憩の時間が終わるまで、ゆっくりしていたらいい」
その言葉に、かすかに笑って見せてから、カミーユは皆へ向けて一礼して廊下を歩み去っていった。
少年の後ろ姿が完全に見えなくなった瞬間にフィデールも歩き出したので、そのまま立ち去るかと思いきや、一同の脇を通りすぎる直前に足が止まる。
すでに大回廊において、リオネルたちとフィデールは挨拶を交わしていた。
けれど、それは大勢の貴族が集まるなかでのことだったため、ほとんど一瞬といっていいほどの表面的な挨拶だけである。
足を止めたフィデールは、冷ややかにディルクを一瞥した。
「死んだ婚約者の弟を手なずけて、どのような気分ですか? ディルク・アベラール殿」
ブレーズ家の嫡男フィデールは、亡き婚約者シャンティの従兄弟である。政敵だとか、敵対する派閥に属しているとかいう以前に、ディルクには償いきれぬほどの負い目があった。
「貴方の従姉妹殿には、心から申し訳なく思っています」
悪意に満ちた言葉に対して憤る様子は微塵もなく、ディルクは真摯に謝罪した。
けれど今更、謝罪がなんの役にも立たぬことも、ディルクは知っている。
「それは、本心ですか?」
棘のある問いにも、返す言葉はない。
「本当はどうでもよかったのでしょう? ブレーズ家の血を引く女が、どうなろうと」
けれどこのようにフィデールから挑発されたとき、ディルクは真実を告げずにはおれなかった。
「ブレーズ家の血を引くからどうこうなど、私は思ったことはありません。シャンティ殿は、私にとって大切な婚約者でした」
「大切だったのなら、なぜ婚約を破棄したのです?」
「それは――」
「次はカミーユを手なずけ、そしてシャンティ殿にしたと同じように裏切り、傷つけ、死に追いやるつもりですか?」
ディルクは言葉を呑んだ。
反論したい気持ちは小さくなかったが、親族を失った者の心を思えば、このように残酷なことを言われることもしかたがないとディルクは思う。
……これは、罰だ。当然の報い受けているに過ぎない。
報いであるなら、それはまだ到底足りない。
「優しそうな顔をして、随分と冷酷な心をお持ちのようで――シャンティ殿が自ら命を絶ち、晴れやかなお気持ちでしょう?」
唇を噛む。
晴れやかな――晴れやかな気持ちとは、どのようなものだろう。
ディルクは心臓を握りつぶされるような痛みを感じた。
主人の動揺に、マチアスは気がついていた。けれどブレーズ家の嫡男に対して、マチアスが意見すれば出すぎた行為も甚だしい。
マチアスが己の非力さに歯がみした、そのとき。
「シャンティ殿が自ら命を絶ったと、なぜ断言できるのですか?」
静かな怒りを秘めた声は、リオネルだった。
「だれもシャンティ嬢が池で亡くなったところを見てはいないのでしょう? ディルクのせいでご令嬢が亡くなられたという確たる根拠はありません」
「リオネル、いいんだ」
ディルクは制したが、リオネルはやめなかった。
「それから貴方は、ディルク・アベラールのいったいなにを知ったうえで、そのような言葉を口にされるのでしょう。ご親族を失くされた痛みは察するに余りありますが、その死がすべてディルクのせいだと決めつけることについては、理解に苦しみます」
言い終えたリオネルを、フィデールは一切の笑みを消し去った顔で見やる。
カミーユと同じ青灰色の瞳には、敵意とも憎悪ともつかぬ、ジェルヴェーズ以上に底知れない感情が宿っていた。
「ずいぶんと手厳しいのですね、リオネル・ベルリオーズ殿」
「貴方には及びません、フィデール殿」
冷ややかな声音でリオネルは応じる。
ベルリオーズ家とブレーズ家――、敵対している家の嫡男同士が静かに睨みあった。
けれど、リオネルが穏やかならぬ態度を示したのは、政敵だからとか、国王派だからとかいう理由ではない。
――心の底から怒りを覚えていたからだ。
幼馴染みであるディルクが、温かい心の持ち主であることをリオネルはだれよりも知っている。いかなる理由であれ、この人の心を切り裂こうとする者を、黙って見逃すことはできない。
すると、フィデールは感情のうかがいしれぬ表情を冷笑に変え、二人から目を逸らして歩き出した。
「リオネル殿のおっしゃるとおり、私はすべてを知っているわけではありません。ですが、シャンティ殿のことは少しばかり知っています」
リオネルは軽く眉根を寄せる。
「彼女はディルク殿に心から焦がれ、ディルク殿と結婚して幸せになることを夢見ていたそうです」
「…………」
フィデールは立ち去っていった。
残されたのは重い沈黙と、だれにとっても、やり切れぬ思い。
無言のまま、ディルクはかたく拳を握っていた。




