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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
191/513

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「旅の疲れ……?」


 形のよい眉を寄せてディルクはつぶやく。


「そう聞いたよ。宮殿に着いた日から一度も姿を見ていないし、当分だれも面会できないらしい」

「ここへ着いた日には見かけたのか?」

「遠くからは」

「どんな様子だった?」

「遠かったからなあ……でも、それほど体調が悪いようには見えなかったけど」


 眉を寄せたまま、ディルクは考えこむ。


 ――レオンの身に、なにかが起きたのだろうか。

 当分だれも面会できないとなると、余計に気になる。


 けれど、だからといって今すぐに単独で動くわけにはいかない。リオネルの到着を待ち、相談したうえでレオンの周辺を探るべきだろう。


 迂闊な行動をとれば、敵につけいる隙を与えかねない。

 もしレオンが、実は旅の疲れではなかったとしたら、その背後にいる人物はひとりしか考えられないのだから。


「おれ、戻らなくちゃならないんだ」


 残念そうにカミーユが言う。


「叔父上にはすぐに戻ると言って、練習を抜けてきたから」

「近衛騎士隊副隊長殿に叱られたら大変だな」


 軽く冗談を言ってカミーユを笑わせつつも、


「忙しいのに、話しに来てくれてありがとう」


 と、ディルクはカミーユの頭に手を置く。


 くすぐったそうな表情をしてから、カミーユは扉口へと向かう。

 話しているうちに、荷物の運び入れはとっくに終わっていた。


 扉の前でカミーユは振り返る。


「また来るよ。宮殿のどこかですれ違ったら、声をかけてね」

「もちろん」


 片手を上げて、ディルクは義弟になるはずだった少年を見送る。


「マチアスもまたね」


 アベラール家の従者は、デュノア家の嫡男に深く一礼した。


 彼が本当に弟であればよかったのにと、ディルクは思わずにはおれない。シャンティが死んだ今、もうその可能性はないのだが。


「素直で優しい方ですね」


 扉が閉まったあと、マチアスがつぶやいた。


「そうだね――」


 ディルクは瞼を伏せる。

 室内が静かになると、懐かしい宮殿の匂いが意識に登った。


 ……あのころに戻ることができれば、彼女を救うことができたのだろうか。


「――あんなひどいことをしたおれに、カミーユは陰りのない笑顔を向けてくれる」

「姉君を慕っていらっしゃるからこそでしょう」

「なにをやっても、後悔だけはしない生き方をしたいと思っていた」


 シャルム宮殿を包む空が、蒼の濃さを増している。次第に闇に呑まれ、数刻後にはすべての色が失われるだろう。


 闇のなかにいれば、それはそれで心安いものである。

 刻々と色が失われていくこの曖昧なときこそ、一日のうちでもっとも胸が締めつけられるような時間帯だった。


「けれど、おれは後悔している。どう足掻いても取り返しのつかないほど、大きな後悔だ」

「…………」

「おれが失ったものは大きい」

「……取り返せばよろしいではありませんか」


 従者の言葉の真意が掴めず、ディルクは眉をひそめる。


「生きたまま天国にでも行けというのか? それとも、この場で死ねというわけではないだろうな」

「お気づきにならないのであれば、このままでよいのかもしれませんね」

「……おまえの言うことはさっぱりわからない」

「私にも」


 マチアスは言葉を切った。


「よくわからないのです」

「なにが?」

「あるべき形がです」

「…………」

「今の形が崩れれば、多くの不幸が生まれます。けれどこのままでは、貴方をはじめ多くの人が苦しみ続けることになります。ただ……」


 まったく話についていけぬ主人をひとり残して、マチアスは己の考えのみに沈み込む。


「ただ、一番苦しんでいるのはあの方自身に違いありません。あの方がこれ以上苦しまずにすむ形が――」


 つまり、今の形が――。


「――続くことが最も望ましいのかもしれません」

「マチアス、おまえの言うことは、ベネデットの哲学以上に意味不明だ」

「それが、続きうるなら……という条件つきですが」

「人の話を聞いてないだろう」


 王族や宮殿にいる貴族たちに正式に挨拶をするのは、リオネルが到着してからである。

 明日までは、自室でのんびり過ごすことになるだろう。


「もしカミーユに時間があれば、今夜にでもまた話せればいいんだけど」

「トゥーサン殿なら、空いているのでは?」


 親切な従者の提案に、ディルクは白けた視線を向けた。


「暇で暇でどうしようもなくて、だれでもいいから話したいというわけじゃない。おれはカミーユと話したいんだ」

「トゥーサン殿ではいけませんか?」

「……おまえ、主人をおちょくってるのか?」


 苦笑したディルクに、マチアスは真剣な様子で答えた。


「あの方から、ゆっくりシャンティ様のお話を伺ってみたいと思いまして」


 シャンティという名を耳にしたディルクの顔から、たちまち笑みが消えていく。

 黙っているディルクに対し、マチアスは小さく頭を下げた。


「申しわけございません。私のような立場で、余計なことを口にいたしました」


 いや……、とだけ無愛想に返し、ディルクは床に広がっていく深い影を見つめている。


 日が陰ると、途端に寒くなる。


「暖炉に火を入れましょうか」

「……かまわない」


 言葉少なになってしまった主人を、マチアスは気遣いと反省の入り混じった表情で見やる。

 トゥーサンからシャンティのことを聞きたいと思ったのは、本当のことだ。けれど、ディルクの心情への配慮を怠ったことはたしかだった。


 マチアスにしては珍しい失敗である。

 それも、シャンティが生きており、それが「アベル」なのではないかと疑っているからこその失敗だ。亡くなったという認識でいれば、先程のような台詞は口につかなかっただろう。


 気がつけば部屋は闇に染まっており、そのかわり中庭の篝火が大きな窓に淡い光を映していた。


 燭台にひとつずつ火を灯していく。

 点火してまもない炎は安定せず、大きく火影を揺らした。











「アベルは元気にしていますか」


 遠慮がちに問いかけたのは、エレンだった。

 彼女が居間に戻ってきたことに気がつき、眺めていた本から視線を外して顔を上げたのは、気品漂う青年である。


「イシャスはもう寝たのか?」

「ええ、なかなか寝付かなかったのですが、ようやく」


 居間の扉は開け放してあった。先程からイシャスが出たり入ったり走り回っていたからだ。


「リオネル様がいらして、嬉しかったのでしょうね」

「覚えていてくれていたかどうか、おれにはよくわからなかったけど」


 本を傍らの小さな木机に置くと、リオネルは微笑する。


「覚えていたと思います。ああ見えても、初対面の人に対してはけっこう人見知りをするのですよ」

「そうなのか」

「母親と同じですね」


 様子をうかがうようなエレンの言葉に、リオネルは愛しい人を思い浮かべ、柔らかい表情を浮かべた。


 先程から、リオネルはエレンの質問に答えてはいない。

 アベルは元気でいるのか、という問いに対して。


 つまり――そういうことなのだ。


「イシャスは人見知りをするのか、かわいいものだな。今ではすっかりエレンを母親だと信じているのだろう?」

「ええ……そうなんです」


 リオネルは笑った。

 笑ったが、やや複雑な笑みでもあった。

 イシャスの母親はアベルだ。様々な思いがあるだろう。けれど、アベルの思いをリオネルには察することができない。


「……話せる言葉がだいぶ増えたな。おれたちはこの半年でなにも変わっていないのに、子供の成長の速さには驚かされる」


 会話に入ってきたのは、リオネルと同様、居間の肘掛椅子に腰かけて寛いでいるベルトランだ。

 馬上か、貴族の館でずっと過ごしてきたので、こうしてベルリオーズ家別邸にいると、無双の剣士であるこの男とて心身が休まる。


 ……けれど明日からはまた宮殿での生活がはじまるのだ。


「ベルトランも子供を持つ気になったか?」


 リオネルの冷やかしに、ベルトランはわずかに眉を動かした。


「おれは、おまえの身辺を警護することにすべての神経を使っている。妻子のために費やす余力はない」

「おれのせいで結婚できなかったと、あとになって文句を言わないでくれよ」


 やや迷惑そうな顔でリオネルが言うと、ベルトランは仏頂面になり、どうしてもこらえきれなくなったエレンは口元をハンカチで押さえ、小さく咳をして笑い声をごまかした。


「イシャスはアベルのことを覚えているだろうか」

「きっとそのはずです。子供は心の奥底に、産んでくれた母親の姿を刻みつけているのではないでしょうか」

「そうか」


 遠くを見るような眼差しで、リオネルは卓の上にある葡萄酒の杯を、眺めるともなく眺める。


「……早く会わせてやりたい」

「アベルは無事なのでしょうか?」


 このとき、エレンは意を決して再びアベルの安否を確かめた。

 山賊討伐にアベルが参加していたことは知っている。けれど、今回なぜリオネルのそばにアベルがいないのか、なぜリオネルはアベルのことを語ろうとしないのか、エレンはどうしても気になった。アベルを案じる者として、そして、イシャスの育ての親として……。


 質問を受けて、リオネルは小さくうなずく。

 エレンに心配をかけぬため黙っていたが、彼女には聞く権利があることも確かだったからだ。だが、うなずきに続く言葉は明るいものではなかった。


「今は、ほとんど回復している」

「回復……ですか?」

「討伐のときに、怪我を負ったんだ」


 答えるリオネルの声音は低かった。


「怪我……」


 心配そうにエレンは言葉を繰り返す。


「長いこと意識がなかった」


 エレンが口に手を当てる。


「ほかにも危険な目に幾度もさらしてしまった。だから今回は、どうしてもここへ連れてきたくなかった。危険がない場所で、ゆっくり身体を休めていてもらいたくて」


 主人の話を聞くエレンが、ハンカチで目元を押さえた。


「リオネル様のお話を聞いておりましたら、涙が出てきました……まだ十五歳の、あんなに頼りない女の子が、そんな目に遭ったなんて……」

「すまない、エレン」


 涙を拭うエレンよりも鎮痛な面持ちになったのはリオネルだ。


「おれが彼女を守りきれなかったんだ」


 エレンは首を横に振る。


「いいえ、リオネル様のせいではございません。あの子はきっとリオネル様のお役に立ちたくてがんばっていたのですね」

「…………」


 黙したリオネルの代わりに、ベルトランが穏やかな声音で言う。


「アベルは、こちらが驚くほどに芯が強い。いつだって、あの細い身体が粉々になってしまうのではないかと思うくらいがんばり、そしてそこから立ち直る」


 アベルの師匠であるベルトランは、しみじみとした表情である。


「出会ったころから、強情でしたから」


 涙声でエレンが言うと、リオネルとベルトランがおかしそうに苦笑した。


「館に残してくるのにも、ずいぶん苦労したよ」


 そう呟くリオネルは、すでにアベルが王都にいることを露とも知らない。


「あのときの子猫は、まだ手なずけられていないようだな、リオネル」


 そうだね、とリオネルは微笑しつつ答えた。


 それから間もなくエレンが居間を辞すと、若者二人の話題は、明日から赴く王宮のこと、国王エルネストやジェルヴェーズのこと、二つの派閥に分かれている貴族たちのことなどへ移り、何本もの蝋燭がその間に取り換えられることとなった。






+++






 その朝、宮殿内外は、不思議な興奮と緊張に包まれていた。


 ベルリオーズ家嫡男であり、本来であれば「王子」と呼ばれるべき立場にあった青年が、このシャルム宮殿に到着したのだ。


 彼は半年前までひっそりと王宮内の騎士館で修業していたが、今回は、そのときとはまったく意味合いが違う。

 宮殿へ続く二重の門のうち、内側にある正門――王族と賓客のみが使用することを許されている「菖蒲イリス門」をくぐり、はじめてこの宮殿へ足を踏み入れるのである。


 ――正しき血統の者が、正しき場所に戻った。


 だれもがそう思わずにはいられない瞬間だった。


「イシャス、イシャス、見て見て! あれがリオネル様だよ、ここからだとお顔はよく見えないけど……背が高くて、立ち姿がすごく綺麗だ!」


「菖蒲門」の内側にある前庭には、数え切れぬほどの近衛兵が整然と立ち並んでいる。

 彼らが見守る中心に、ベルリオーズ家の紋章を掲げた馬車が停まっており、なかからリオネルが姿を現した。


 王族であり、王が招待した相手でもあるリオネルに何事かあってはならないため、近衛兵たちは緊張した様子でリオネルの周囲を守っている。


 そんな中庭の様子を、高い宮殿の屋根から見下ろしているのは、煙突掃除の少年二人である。


「すぐ脇の馬に乗ってる赤毛の騎士は強そうだなあ。睨まれたら、おれなんて逃げ出しちゃいそうだ」


 馬上から周囲に鋭く目を光らせているのがベルトランだということに、アベルはひと目で気がつく。


「強そうですね……」


 当たり障りのない所見を述べつつも、けっしてリオネルやベルトランに自分の存在を悟られぬよう、アベルは煙突の影に身をひそめていた。


「イシャス、そんなに隠れなくても大丈夫だよ。向こうからは、こんな高いところ、見えやしないって」


 このようにジェレミーは言ったが、アベルが気を緩めることはない。


 相手は、あのリオネルと、あのベルトランだ。

 雲の上から石ころを落としたとしても、二人は即座に気がつくだろう。

 敵意を抱いていないぶんアベルの存在に気づく可能性は低いが、けれど、彼らの勘の鋭さはけっして侮れない。


 アベルやジェレミーがいる位置からだと、中庭の景色全体が見渡すことができた。


 リオネルの命を狙う者がいないか、アベルは屋根の上から下方を見下ろし警戒する。

 むろん、リオネルが宮殿にいるあいだ、常にこのようにしてアベルが彼の周囲を警戒することは不可能だ。宮殿内部で、リオネルの周りをうろうろするわけにはいかないのだから。


 自分の力で、できることはやる。あとのことはベルトランに任せ、リオネルの身になにも起こっていないことさえ近くで確認できていれば、それだけでアベルがここに侵入した意味は充分にあるのだった。


 かつて感じた胸騒ぎが、ただの思い過ごしであれば、それでいい。


 ……ただの思い過ごしであってほしいと、願ってやまなかった。


「あ、宮殿へ入っていくよ。赤毛の騎士も馬から降りた」


 臆することなく、颯爽とリオネルは宮殿へ向かっていく。

 その姿は、アベルのよく知るリオネルでありながら、手の届かぬ遠い存在にも感じられる。


 一週間ほどしか離れていないのに、今、彼の優しい笑顔が懐かしく思い出されて、なぜだか少し切なかった。


 よみがえるのは、優しい声音。


 ――アベルを案内したかったんだ。

 ――いっしょに祝いたかった、この街に訪れた春を。


 あのとき、なぜリオネルはあんなことを言ったのだろうか。

 自分も同じ気持ちだと伝えたとき、次のようにも言った。


 ――アベルのその言葉だけで、おれはがんばることができる。

 と。


 気丈に見えるリオネルの心のうちにも、本当は、切れそうな細い糸があるのだろうか。

 仮にそうだとしても、アベルの言葉などで、リオネルを励ますことができるとは到底思えない。リオネルの言ったことの真意も、そしてなぜ最後に軽く引き寄せられたのかも、未だにわからない。


 あの優しい主人は、わからないことばかりだ。


「今夜は晩餐会かな? おいしいものがたくさんでるんだろうね。エシャロットのスープもあるかな?」


 完全にベルリオーズ家の一行が宮殿に入ると、ジェレミーは内部の様子や宴の風景を思い浮かべ、うっとりと空を見上げる。


「シャサーヌのエシャロットスープのほうが、きっとおいしいですよ」


 アベルはジェレミーに笑いかけた。


 そう答えたのは本心だ。

 窮屈な宮殿内で、難しい顔をした貴族たちと共に食べる馳走よりも、開放的な空の下で、大好きな人たちと食べるエシャロットスープのほうが、おいしいに決まっている。


「そうだね! 楽しみだなあ」


 元気のよいジェレミーの返事が、透けるような青空に吸い込まれていく。


「その日のためにも、今日の仕事を早く終わらせて、機嫌のいい親方から駄賃をいただくとしましょうか」

「賛成っ」


 二人は軽く手を打ち合わせ、仕事に戻った。


 シャルム宮殿の上空を、二羽の鳥が翼を広げて飛んでいく。

 目指す先はいずこ――やがて二羽は大きく旋回し、ちょうど太陽を背景にしたときに、その姿は黒い影と化す。

 直後、二羽は二手に分かれ、それぞれの方角へ別々に去っていった。









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