18
夕食には、予定通りの麦粥が二杯。
アベルは他の少年らと共にそれをすすり、とりあえず空腹を満たす。
けれど粥のほとんどは水分なので、すぐにまたお腹は空くだろう。
成長期にある少年らにとって、これではあまりにも物足りない食事である。
夕食時は、こんなに多くの子供たちがいるというのに、驚くべき静けさであった。だれも会話を交わさない。
腹を満たすことに一生懸命だというのもあるだろうが、ボドワン親方のことをよほど恐れてもいるのだろう。
親方は、家にひとつだけある一人掛けの椅子に座り、浴びるように酒を飲んでいた。今夜、彼の機嫌はいい。黙って食べていれば、怒鳴られる心配はまずないだろう。
食事中、時折ジェレミーが視線だけをアベルへ寄こした。目が合うと二人は密かに口元をほころばせる。それだけが、この時間における人間らしいやり取りだった。
あとは、ボドワンの妻が、「早く食べな! 机を汚したら承知しないからね」とわめき散らしているだけだったが、彼女はアベルを見ると、なぜか胡散臭そうな顔で黙りこんだ。
食事が終わると、アベルはジェレミーと共に梯子を登り屋根裏へ向かう。
ここにいる子供たちは、皆十四歳から十六歳ほどであるが、その年齢にしては身体が小さい。それもそのはず、この食事ではとても大きくはなれないだろう。
それでも一定の年齢になった少年らは、十二歳のジェレミーやアベルよりは体格がよく、宮殿の煙突には入れない。
ジェレミーの話によると、幼い者、小柄な者は、体力がないのにもかかわらず重用されるため、病や事故などですぐに死んでしまうのだそうだ。
屋根裏部屋では他の少年らとも一言二言会話を交わすが、やはり最も親しいのはジェレミーで、隣り合って布団にくるまり小声で話をした。
自分は死なない――そうジェレミーは言う。
せっかく生まれてきたんだ、なにをしてでも生き抜いてやる、と。
「ねえ、イシャスが住んでいた場所の話を聞かせてよ。おれは、故郷のマノと、サン・オーヴァン以外には行ったことがないから、他の場所のことを知らないんだ」
そうせがまれて、アベルは一度しか訪れたことのないシャサーヌの街のことを語ったが、むろん詳しいわけではないのでジェレミーにうまく伝わったかわからない。
街並みの美しさ、市場の賑わい、近くにを流れる川、息を呑むほど華麗なベルリオーズ邸、エシャロットスープとパンのおいしさ……。
黙ってアベルの話を聞いていたジェレミーは、
「行ってみたいな」
とつぶやいた。
「おれにはまだ見たこともない場所がいっぱいあるんだね」
少年の声は、広い世界を夢見ている。
「おれもここを飛び出して、エシャロットスープとパンを食べたい……きっと食べてみせるよ」
そっとアベルはほほえむ。
自分の立場や身分をしばし忘れ、この少年をシャサーヌに連れていってあげたいと思った。
「あなたならきっとできると思います」
春の星が、ジェレミーの活き活きとした表情を浮かびあがらせる。
「そのときは、イシャスといっしょに食べれたらいいな」
「そのときは、苺の砂糖漬けも食べましょう」
二人は布団のなかで笑いあった。
「今夜は幸せな夢が見れそうだよ。楽しい話を聞かせてくれてありがとう、イシャス」
いずれ五月祭が終わったら、この少年を置いてサン・オーヴァンを立ち去らなければならない日が来る。そのことが、アベルの心に小さな陰を落とした。
「……おやすみなさい、ジェレミー」
「おやすみ」
サン・オーヴァンの街を支配する夜が、静かに更けていく。
幾多の人が見る夢を、夜はなにも語らずに包みこんでいた。
+++
春の花々が咲き乱れる、中庭の花壇。
花壇の脇に伸びる人口池に沿った道を悠然と歩む人物は、王者の風格を備えている。
その斜め後ろには、体格のよい騎士がひとり従っており、しきりと恐縮した様子であった。
「一切の手がかりが掴めないか」
責めるようではない口調だが、騎士にとっては心苦しい以外のなにものでもない。
「申しわけございません」
「そなたはよくやっている、謝る必要はない」
「は……」
さらに騎士は恐縮して、幅の広い肩をすくめた。
「それだけ相手が上手だったということだ。あの少年、思った以上に頭が切れるようだ」
ベルリオーズ公爵クレティアンは、大きく息を吸い込む。
定期的に、ラザールが捜査した結果の報告は受けていた。
シャサーヌ中の宿屋にもいない、食堂や酒場で見掛けた者もない……となると、もはやこのあたりにはいないのだろう。しかし馬も入手していないようだから、さて、徒歩でどこへ行くのやら。
あるいは、と公爵は思う。
自分たちの目にとまらぬなんらかの方法でアベルは馬を入手し、どこか遠くへ行ってしまったのではないか。
――どこか遠く。
それがどこなのかは、皆目見当がつかない。
周辺の領地か、王都サン・オーヴァンか、もしくは国外か。
ラザールの言ったとおり「へそを曲げて」、気ままな旅にでも出てしまったのかもしれない……。
しかし、彼の忠誠心が並々ならぬものであることを、クレティアンはよく知っている。
そう考えると、主人が心配なあまり、リオネルの命に背いてサン・オーヴァンへ行ったとも考えられる。
もしそうなら事態は余計に厄介だ。
そろそろリオネルは王都に到着する頃である。
そこにアベルが居るかもしれぬなどとリオネルが知れば、彼は是が非でも探し出そうとするだろう。そしてアベルを、ベルリオーズ家別邸にでも閉じこめておくかもしれない。
閉じこめておくことの是非はともかく、それまでが大変だ。もしすぐに探し出すことができなければ、リオネルは五月祭どころではなくなってしまう。
「王都にいるリオネル様に、知らせに参りましょう」
はっきりとした口調で、ラザールがクレティアンに進言した。
ラザールは、アベルがいないとわかった時点で、リオネルにその旨を知らせたかったのだ。
リオネルから「図書館の整理」をアベルと共に任されたということは、「アベルを頼む」という意味である。それなのに、初日からアベルを見失うという結果になってしまった。
こうなってしまったからには、血眼でアベルを探すしかないし、主人であるリオネルに早急に知らせることが、ラザールの忠義であったからだ。
けれど、このときも再びそれを妨げたのは、ベルリオーズ公爵であった。
「まだ早い」
「…………」
「五月祭が終わるまでは、知らせてはならぬ」
「公爵様。僭越ながら申しあげます。お知らせせぬままでいて、アベルの身になにかあれば、私はリオネル様に申し開きができません」
「ならば、知らせを受けたリオネルが心を乱し、五月祭の折りに常ならせぬ失態を犯せば、そなたはどう申し開きをするのだ?」
「それは……」
ラザールは口ごもった。
公爵が指摘したとおりである。だが――。
すべてわかってはいるが、それでも知らせたほうがよいと、ラザールは思うのだ。けれど、それがなぜなのかは己自身でもはっきりせず、立場の上でもこれ以上は強く言うことができなかった。
「今、リオネルがどのような状況に置かれているのか、考えてみなさい。王宮は、天国でも楽園でもない――」
そこまで言って、クレティアンは言葉を止める。
ならば王宮はどのような場所であるか――それを、彼はあえて口にしなかった。
「アベルが心配ではないというわけではない。だが、彼のことでリオネルになにかあれば、本末転倒だろう。そのような結末を望んで、アベルがここを出たわけではないはずだ」
ラザールはうつむく。
先程から公爵の言葉は、すべて的を射ている。
文句のつけようのないほど、正しいことなのだ。
けれど、割り切れない気持ちが残るのは、なぜなのか……。
最後に公爵は悠然とした歩みを止めて、ラザールを振り返った。
「リオネルが、どれほど――」
なんと穏やかな日だろう。
ベルリオーズ邸の庭園は、花の甘い香りで包まれていた。
「――どれほどあの従騎士の少年を大事にしているか、私もわかっているつもりだ」
その言葉にラザールは返事もせず、ただ公爵を見つめ返す。
そして己のなかで無理矢理なにかを消化すると、深く一礼した。
「公爵様の御意のままに」
+++
かような経緯により、なにも知らされず、アベルが安全な場所にいるものと信じるリオネルが王都のベルリオーズ家別邸に到着したのは、その日の夕暮れ時であった。
本邸にいる者たちが考えるより時間がかかったのは、途中でカルノー伯爵邸に立ち寄ったからである。
ベルリオーズ家別邸の者たちから熱烈な歓迎を受けたことは言うまでもないが、ここまでの道程においても、馬車に掲げられたベルリオーズ家の紋章を目にした人々からは、盛大な歓声を浴びせかけられた。
――山賊討伐を成し遂げた、若き正統な王子。
直轄領に住む王弟派の民衆は、歓呼でリオネルを迎えた。
それをリオネルは淡々と受け止めていたが、懐かしいベルリオーズ家別邸に到着すると、気持ちはどこかほっとした。
久しぶりに会う別邸の人々、そして元気なイシャスの姿は、リオネルの心を和ませる。
けれど、イシャスの存在は否が応でもアベルを思い起こさせ、そしてリオネルを切ない気持ちにもさせた。
一方、ディルクとマチアス、そしてアベラール家の騎士たちは、直轄領に入ってしばらくのちにリオネルらと別れていた。彼らはいったんアベラール家別邸に向かうためである。
再び彼らがリオネルたちと合流するのは、王宮においてだ。
ディルクとマチアスは別邸で長居をせず、リオネルたちよりひと足先に宮殿へ入った。
その報はいち早くカミーユの耳に入り、彼はディルクが滞在する客室に駆けつけたのだった。
「ディルク!」
宮殿に仕える使用人らが荷物を運び入れているところへ、カミーユは蝶のように飛び込んできた。
夕陽の差し込むその部屋の豪華なこと。
これでも最上級の部屋ではないのだから、この真上にある王族や賓客の寝室はどれほどのものなのだろう。
マチアスと言葉を交わしていたディルクが、話を中断して扉口を振り返る。
「カミーユ」
ディルクの顔にも自然と笑みが広がった。
そのディルクに、カミーユは抱きつかんばかりの勢いで駆けよる。
「こんなところでディルクに会えるなんて、すごく嬉しいよ! それにずっとずっと言いたかったんだ。――おめでとう、ディルク! 山賊討伐で大成功を収めるなんてすごいよ!」
「ああ、ありがとう」
出し抜けに色々と言われ、ディルクはとりあえず礼を述べた。
「けれど討伐で中心になって動いたのはリオネルで、おれはたいしたことしていないよ」
ディルクの言葉を謙遜と受け取ったのか、カミーユはにこにこしている。
彼にはわかっているのだ。ディルクが活躍しないわけがないし、自分の功績をひけらかすこともないことを。
カミーユが嬉しそうなので、ディルクの気持ちも明るくなってくる。
「それにしても、元気そうでよかった。おれも、ここでカミーユに会えるのは嬉しいよ」
そう言ってからふと考える顔つきになり、カミーユの顔をまじまじと見つめる。
「……少し痩せたか?」
問われたカミーユは、困ったように笑った。
「まだ慣れなくて」
「そうか……」
ディルクが心配そうな表情になると、カミーユははぐらかすように弁解した。
「おれが未熟なだけなんだ。恵まれた環境だし、ノエル叔父上は優しいし、なにも文句はないよ」
そう言って笑ってみせるカミーユに、ディルクは「がんばってるんだな」とほほえんでから、相手の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「でも、がんばりすぎる必要はない。どこにいたって、おまえらしくやっていればそれで充分だ」
こくんとうなずくと、カミーユは不思議と肩から力が抜けていくのを感じる。
自分がどれほどこの青年を慕い、尊敬し、そして頼っているのか、カミーユはあらためて気づかされる。
この人が言う言葉だからこそ、こんなふうに心がほぐれるのだ。
義兄になるはずだった青年は、今や、実の兄のような存在となっていた。
励まされることは嬉しくもあり、だが気恥かしくもあり、カミーユは話題をもとに戻す。
「それにしても、すごいな、かっこいいな。山賊と戦ったんだろう?」
「うん、まあ」
ヴィートやブラーガ、そしてエラルドを思い出しながら、ディルクは曖昧に頷く。敵といえば敵ではあったが、よく相手を知れば存外彼らは愛すべき人々である。
「その討伐の中心となったリオネル様は、今どこにいるの?」
宮殿内は、リオネルの話題で持ちきりだった。
厳密に言えば、リオネルとジェルヴェーズの「対面」――もしくは「対立」の話題である。
けれど、国王派だとか、王弟派だとか、カミーユはそういうものが好きではなかったので、あえてリオネルが話題になっているということについては言及しなかった。
おそらくカミーユから聞かされずとも、ディルクは知っていただろうが。
「あいつは、今夜はベルリオーズ家の別邸に泊まって、明日宮殿に来る」
「ディルクはどうして先にこっちへ来たんだ?」
子供の質問とは、遠慮がないものである。「レオンのことが気にかかり、アベラール家別邸には立ち寄っただけで急ぎ宮殿へ赴いた」と大声で言えるほど、ディルクも「照れ」と無縁の人間ではない。
「ええっと……」
口ごもる主人を意味ありげにマチアスは一瞥したが、そのまま黙っていた。マチアスはディルクの考えをすべて見抜いているのだ。
察しがよいのか偶然なのか、
「そういえば、レオン王子は旅の疲れが出たらしく、部屋から出てこないんだ」
とカミーユが核心をつく。
ディルクは考えを見透かされたようでドキリとしたが、それ以上に、カミーユが口にした言葉のほうが気になった。
「旅の疲れ……?」




