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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
189/513

17








 自分の現在の立場も姿も忘れ、アベルは寝台へ駆け寄った。


「――大丈夫ですか」


 苦しそうなレオンの背中をさすってやる。


「……クリストフ……?」


 熱に浮かされた虚ろな瞳で、レオンはアベルを見上げると、


「……じゃないな」


 と、弱々しい声で言った。


「真黒だ……」


 彼に驚いた様子はない。


「そうか……百年以上前に、幼くして焼殺されたレオン王太子の……幽霊か」

「…………」


 真黒な少年がアベルだということに、レオンは気がついていないようだ。


「同じ名前だから、心配してくれたのか……?」


 口の周りを血に染め、焦点の定まらぬ眼差しで死にそうな顔をしているレオンのほうが、よほど幽霊のようだった。


「いったいどうなさったのですか? 医者は?」


 切迫した様子で尋ねるアベルの顔を、虚ろな目でしばらく見ていたレオンは、


「……ずいぶん、丁寧な口調の……王太子だ」


 とだけつぶやいて、寝台のうえで仰向けに倒れ込んだ。

 レオンの意識はだいぶ混濁しているように見受けられる。


 部屋にはだれもいない。

 シャルムの第二王子という立場にある人がこれほどの状態にあるというのに、周囲に看護にあたる者がいないという状況は異常である。王族であれば、数人の医者と看護人で世話をするのが当然だろう。


 レオンの身になにかが起きている。

 早く助けなければ命に関わると、アベルは咄嗟に悟る。


「わたしが幽霊なら、お助けできるかもしれません。なにがあったのか、教えてください」

「……幽霊に、なにができるんだ?」

「少なくとも、今のあなたよりはなにかできると思います」


 そう答えたとき、レオンが顔をしかめ、両手で頭を抱えた。


「どうなさいました」


 アベルはレオンの顔をのぞきこむ。


「頭が……っ、回る、気持ちが悪……っ……うう……」


 椅子のうえにあった盥を眼前に差しだすと、レオンはそのなかに血を吐く。


 その様子を見ていて、アベルの脳裏に暗い響きを持つ言葉が思い浮かんだ。

 病――にしては、尋常ではない。


「……毒、ですか?」


 煤で黒く染まった眉を深く寄せてアベルはつぶやいた。

 心ゆくまで吐きだしてから少し落ち着くと、レオンは目を閉じ、


「毒を飲まされた……」


 それだけ答え、再び寝台のうえに身を投げ出すよう横になる。


 ――毒を飲まされた。


 アベルはなにか強い感情が湧きあがるのを感じた。

 いかなる経緯で毒を飲んだのかわからないが、今、この人を助けられるのは自分しかいない。


 リオネルの友人であり、自らもひとりの人間として慕うこの人を、アベルはけっして死なせてはならないと心から思う。


 さっと室内を見渡してから、


「紙は」


 凛とした声でアベルは言った。


「なにか書くものはありますか」

「…………」


 しばらく沈黙していたので意識を失ったのかと思ったが、レオンはようやく大儀そうに片腕を上げた。


「そこだ」


 レオンが指し示したのは、戸棚の一角である。通常なら書物机のうえに出してあるものだが、レオンは長いあいだ不在だったので、片付けられていたのだ。


 寝台を離れて戸棚から紙と羽根ペンを取りだすと、アベルはそれを机のうえに広げ、ひと息に文字を書きつづった。


 そのとき、背後の扉が開く。

 水差しと新しい盥を持ったクリストフが、アベルの姿をとらえて、すべての物を床に落とした。


「何者だ!」


 長剣を抜き放ち、アベルに襲いかかろうとする。


 その見知らぬ近衛兵に対し、アベルは鋭く一喝した。


「一刻を争います! レオン殿下をお助けしたいなら、剣を下ろしなさい!」


 頭の天辺から、足の先まで黒く染まった少年のその勢いに呑まれ、クリストフは剣の動きを止める。

 すると、レオンが苦しい呼吸のあいまに言葉をつむいだ。


「……クリストフ……だいじょうぶだ、この人は……レオン王太子、の……幽霊だ……」

「…………」


 熱に浮かされた主人のうわごとを真面目に聞く必要はないとしても、たしかに、目のまえの黒い人物から敵意は感じられない。


「おまえはだれだ」


 不審者に対する当然の質問であるが、それに答えたのは不審者ではなく、レオンだった。


「言っているだろう……レオン王太子、の、幽霊だ」


 クリストフが、仕える主人に対して苛立ちを覚えたことは、いたしかたのないことだった。


「……ごめんなさい。今は名乗ることができません。けれど信じてください。レオン殿下をお助けしたいのです」


 手短にアベルは弁解する。

 若い近衛兵は、なにかを判じようとするように眉を寄せてアベルを見た。


「弓はありますか?」

「弓?」


 いぶかるというよりは、驚いた顔でクリストフは聞き返す。


「どうする、そんなものを」

「あるのかないのか、それだけを教えてください」

「……ある」


 黒い少年のきっぱりとした態度に負け、渋々といった感じで、クリストフは答えた。


「貸してください」


 クリストフが返答に迷っていると、寝台で呻きながらレオンが寝返りをうつ。


「……貸してやれ、クリストフ」

「しかし」

「……レオン王太子の、ご要望だ……」


 束の間沈黙してから、クリストフは寝台に向けて軽く一礼した。


「は……」


 主人へ向けた返事は戸惑いを滲ませていたものの、きびきびとした足取りで寝台に歩み寄り、そして、いったいどこに隠す場所があったのか、寝台の下方から長弓を取り出した。

 いざというときの護身用であろう。


 気の進まぬ様子でそれを手渡すクリストフに礼を述べ、アベルは矢羽の下に今しがた文字を書きつづった紙をくくりつけた。


 弓矢を手に、迷いない足取りでアベルは窓際へ寄り、そして窓を開け放つ。

 矢尻を弦にかけ、中庭に向けて力の限りに弓柄を引いた。


「なにをする!」


 クリストフが慌てたのも無理はない。

 けれど、アベルは手を止めなかった。


 極限まで引かれた弓。

 あとは、風を読み、角度を定めるだけ。


 もはや正常な判断のできぬレオンも、反意を示さない。


「……クリストフ……幽霊殿の、やりたいようにさせればいい……。幽霊が放った矢など……人に、あたるはずがない」


 どういう理屈だろう。


「やめろ!」


 主人の意見を完全に無視してクリストフは叫んだが、ときはすでに遅かった。


 アベルが放った矢は、正騎士隊が演習を行っているその中心部へ向かっていく。

 そこにいたのは――。


 窓に駆け寄ったクリストフが絶望的な声をあげた。


「ああっ!」


 だが、アベルは冷静だった。


「大丈夫です」


 再びクリストフが叫ぶ。

 ――トゥールヴィル隊長、と。


 矢はまっすぐに正騎士隊の隊長へと向かっていった――ように見えた。

 だが、厳密には少し違った。







 飛びきたった矢に気がついた正騎士隊のうちに、動揺と、どよめきが巻き起こる。

 けれど、シュザンは平然とその矢を真っ二つに斬りおとし、


「騒ぐな」


 と、ひと声で騎士たちを黙らせた。


「この矢は私を狙ったものではない」


 きっぱりと断言し、シュザンは地面に落ちた矢を一瞥する。それから宮殿のほうを眺めやった。


「斬り落とさなくとも、この矢は私の目と鼻の先を掠めただけだ」

「相当な腕前ですな」


 同じく宮殿のほうを見やりながら、シメオンが驚嘆の声をもらす。


 矢は宮殿の一室から放たれた。

 そちらへ目を向けても、犯人の姿はもはや確認できない。けれど、宮殿からこの場所までは相当な距離がある。よほど練達者でなければ、ここまで矢を届かせることはできないだろう。そのうえ、この狙いの良さだ。


「なにかが付いているようですが」


 馬から降り、矢を拾いあげた騎士が、二つに折れたうちの矢羽のほうをシュザンに手渡す。

 そこには小さな紙がくくりつけてあった。


 シュザンは無言で矢から紙を外し、素早い手つきでそれを広げる。


 シュザンの目線が、紙に綴られた文字を追う。

 なにかを確認するように、いま一度読み返すと、シュザンは紙をもとの形に折りたたんで握りしめ、そして周囲の騎士たちに向けて言い放った。


「これは、今回の五月祭の余興だ。すべて当初の予定どおりだ。いいな」


 騎士たちは恭順の意を示す。

 シュザンの言葉の意味を理解しておらぬ者は、ひとりもいなかった。

 つまり、何事もなかったことにせよ、ということである。


「私は用事がある。演習の続きはシメオン殿が取り仕切る」


 引き続き励むようにと述べてから、シメオンに目配せし、シュザンは馬を駆って騎士館のほうへ走り去っていった。


 その速いこと。

 まるで春風が吹き抜けたかのようである。


 彼の馬術に見惚れていた騎士たちは、


「さあ、続行だ」


 というシメオンの声に我に返り、そして練習に戻った。





 馬を駆けながら、シュザンは考えていた。


 己の犯した失敗。なぜ気づけなかったのか。

 あまりに忙しく、冷静な判断力を失っていたのかと思うと、ひどく情けなくなる。


 の人の危機を知らせるために、矢は放たれた。

 シュザンに救いを求めたのだ。


 矢を射放ったのは、毒に苦しむレオン本人ではないだろう。

 では、いったいだれが……?


 あれほどの腕前を持つ者なら、シュザンの目にとまっているはずだ。

 それに――。


 綴られた文字は、女性らしい字体だった。

 しかし女性がこれほど巧みに弓を扱うとは思えない。


 ――考えても答えは出ないので、シュザンはいったん疑問を頭の隅に追いやり、騎士館に常駐する医師のもとへと急いだ。







 一方、宮殿にあるレオンの部屋では、クリストフがへなへなと壁にもたれかかっていた。

 敬愛してやまないトゥールヴィル隊長が死んでしまうと思ったからだ。


 未だに衝撃から立ち直れぬクリストフに弓を返上し、アベルは確かな足取りで寝台へ歩み寄った。

 その傍らにしゃがみ、ぐったりしているレオンの顔をのぞきこむ。


「大丈夫です。すぐに苦しみから解放されます」


 力なくアベルの瞳を見返し、レオンはかすかに顔を歪めた。


「……おれは、死ぬのか?」

「いいえ。生きて、必ずリオネル様やディルク様に会えますよ」

「…………」


 無言でアベルの瞳を眺めていた虚ろなレオンの眼差しが、そのとき束の間、はっきりとする。


「……透明な、水色だ……どこかで、見たことが……」

「気のせいですよ」

「……その声……どこかで……」

「わたしは、レオン王太子の幽霊です」


 そう言ってほほえんでから、アベルは踵を返して暖炉へと向かった。


 再び意識が朦朧として「そうか、やはり幽霊殿か」とつぶやくレオンと、力の抜け切ったクリストフの二人を残して、アベルは煙突を登る。


 煙突の上では、姿が見えなくなったことを心配していたジェレミーが待っており、アベルを見つけると涙目になって喜んだ。


「落ちちゃったのかと思ったよ。ずっと地面を見下ろして探していたんだ」

「ごめんなさい。違う煙突に入ってしまって……」


 彼に気を揉ませたことを、アベルは心から申し訳なく思った。


「心配したよ、でもなにもなくてよかった」


 いつもの明るい笑顔でジェレミーが笑う。


「さあ、行こう。あんまり道草してると、親方に気づかれるからね」


 その笑顔の屈託のなさに、アベルはつられて口元をゆるませた。


 思いがけぬ出来事に遭遇して気が張りつめていたアベルは、ようやくほっとした心地になる。


 シャルム王宮の中庭、それも正騎士隊の隊長に向けて矢を射放つなど、アベルとて勇気のいる行動だった。

 けれど、あのとき頼るこのできた相手は、リオネルと面影の似たその人しかいなかったのだ。彼を信じたのは直感だ。


 アベルは自らの仕事に戻った。

 レオンの身を案じながら……リオネルの叔父であるシュザンが、彼を救ってくれると信じながら。







 その日の夕方。

 シモンと交替し、クリストフが主人の部屋の警備に立っていたときだった。


 回廊を颯爽と歩く、ひとりの騎士の姿があった。

 ――正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルである。


 彼は立場上、頻繁にこのあたりを行き来するのだが……。


 しかし、そのときシュザンの姿を見て、クリストフはやや動揺する。

 昼間、シュザンに向けて射放たれた矢は、自分が黒い少年に貸したものだ。レオンの部屋から飛んでいたことに気づいていたら、なにか追求されるかもしれないと思った。

 黒い謎の少年が行ったことにどのような意味があったのか、クリストフには理解できていなかったからだ。


 レオンの部屋の前までくると、いつもは通り過ぎるシュザンが足を止めた。


 クリストフの鼓動は速まる。

 ……やはり隊長はなにか気づいている、と。


 しかし、シュザンが示したのは意外な反応だった。


「クリストフ、毎日よくレオン殿下の周辺を守っているな」


 言葉をかけられたクリストフは、目を丸くする。

 ――激励の言葉だ。


「これからも殿下を頼む」


 そう言ってシュザンは左手でクリストフの肩を叩くと、右手でなにかをそっとクリストフの手に持たせた。

 それがなにか確認するよりも早く、シュザンは念を押すような眼差しでクリストフを見やってから、再びこれまでと変わらぬ歩調で去っていく。


 手に持たされたものを、クリストフはこの場では確認しないことにした。

 ――自分の行動は監視されている。

 どこでだれが見ているかわからないのだ。


 しばらく後、早めにシモンと再び交替し、レオンの寝室において、シュザンから手渡されたものを確認した。


 薬の入った袋と、小さな手紙だった。

 手紙には次のように綴られていた。


『殿下の症状から、最も可能性の高いと考えられる毒の解毒薬を用意した。

 袋には、他にも解熱と吐き気止めの薬が入っている。もし解毒薬が効かなかったときは、これらを試してほしい。

 定期的に殿下の部屋のまえを通るつもりだ。そのときに、殿下のご容体を知らせてくれ。

 症状が改善しなかったときは、他の方法で殿下をお助けする』


 思わず目の奥が熱くなり、クリストフは眉根を押さえた。


 これで大切な主人は、苦しみから解放されるかもしれない。助けることができるかもしれない。

 シュザンが力になってくれるのであれば、これ以上に心強いことはなかった。


 深い安堵がクリストフを満たす。

 そして、思った。

 あの黒い少年は、本当にレオン王太子の幽霊だったのかもしれないと。


「殿下……殿下」


 一刻も早く主人をらくにしてさしあげたくて、クリストフは水と薬を持って寝台のレオンに歩み寄る。


 銀杯にそそがれる水の音が、心地よく部屋に響いた。






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