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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
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16





「依然として芳しくないご様子です」

「そうか」


 第二王子であるレオンは、フィデールにとって微妙な立場の人間だ。

 現王家の一族ではあるが、どういうわけかシュザンの従騎士となり、リオネル・ベルリオーズやディルク・アベラールと交流が深い。

 ……その背景に、リオネルと親しくなり、隙を突いて暗殺するよう命じたジェルヴェーズの存在があることまでは、フィデールにも知りえない。


 第二王子レオンは、「旅の疲れ」が出て休んでいるということになっている。

 けれど実際はそうではないことを、ジェルヴェーズからではなく、エフセイから教えられてフィデールは知っていた。


 エフセイは、他の者にはない能力を持ち合わせている。

 時代や場所によれば、それを魔術とか、魔力とか称するのかもしれないが、フィデールはそのような神がかったことを信じてはいない。


 場の空気を読むことが得意な者や、一定のことに対してよく気がつく者がいるが、それと同じことだ。

 エフセイは、その場所や周辺に漂う「気」のようなものが読める。レオンの状態が見えているわけではないが、部屋周辺の淀んだ気から「病は重い」ということを察することができるのだ。


「陛下の機嫌も、芳しくない」


 銀杯に口づけながら、フィデールは独り言のような口調でエフセイに語りかける。


 国王の機嫌については、エフセイの「力」によって見通したわけではなく、だれが見ても判然としていることだった。このところ、エルネスト王は神経質になっているように見受けられる。


「祭りの準備に忙しい時期だというのに、城内の者たちは、陛下やジェルヴェーズ殿下の機嫌の悪さのために疲れ果てている」

「国王陛下がお心を乱されているのは、レオン殿下が面会を拒否されているからでしょうか」

「さあ……子を案じる父親の心情というものはよくわからないが」


 フィデールが次の言葉を口にするまでに、わずかな間があった。エフセイは濃い色の瞳をひたと主人に向けている。


「……我が父の不在、リオネル殿の間近に迫った到着、北方の噂、それ以外にも様々な懸念がおありなのだろう」


 エフセイの疑問にフィデールはこのように漠然と答えてから、


「レオン殿下は、単なる旅の疲れであればいいのだが」


 と、特段レオンの安否を案じるようでもない淡々とした口調で付け加える。


 王宮に到着した日の夕方から、レオンは突如、部屋に引きこもった。直前に、彼がジェルヴェーズに挨拶したことは知っている。だが、それが偶然の経過であったのか、はたまた部屋でなにかが起きたのか、フィデールはジェルヴェーズから一切聞かされていなかった。


 ジェルヴェーズは、残虐だが、けっして「阿呆」ではない。

 気まぐれで衝動的な行動をとることもあるが、警戒心が強く、他人を容易には信用しないので、腹心や友人であるフィデールにも告げず、ひとりで判断し行動することは少なくないことだ。


 人を信じ過ぎればいつか仇となることを、彼は知っている。そういう意味では、父公爵が望むようにフィデールがジェルヴェーズを完全に制御することなど不可能なのだ。


 けれど、だからといってフィデールが頭を抱えることはなかった。

 そんなことは、実際どうでもいいことだった。


 ――父の思いどおりになど、なるつもりはない。


「旅の疲れで、あれほどの病状にはなりますまい」

「だろうな」


 演習が、終盤に近づいている。

 隊長であるシュザンが射た矢が春の日差しのなかに一瞬消える。その後どうなるのだろうと考える傍らで、エフセイの質問に気をとられ、矢を見失った。


「お助けしますか?」

「……いや」


 いつまでたっても矢は落ちてこない。

 フィデールは演習風景を眺めることをやめ、エフセイを振り返った。


「おまえらしい意見だが」


 淡い髪色とは対照的な濃い色の瞳が、フィデールにまっすぐ向けられている。……人より多くが見えるはずなのに、むしろなにも見えていないかのような、感情に欠ける眼差し。


 それを見返しながら、フィデールは冷然と言った。


「ジェルヴェーズ殿下が関与しているなら、なおさら手出しは不要だ」


 すぐに返事をしなかったエフセイだが、主人の言葉の意味を理解すると、小さくうなずく。


 ――ジェルヴェーズが仕組んだことであればこそ、レオンを死に至らしめるまではしないだろう。

 そういうことだ。


「それに」


 微かに、けれど愉快そうに、フィデールは笑った。


「もうすぐリオネル・ベルリオーズとディルク・アベラールが到着する」


 窓の外から歓声が聞こえる。シュザンが放った矢が、今頃戻ってきたのだろうか。

 けれど、フィデールはもはや庭のほうに関心を示さなかった。


「あの二人が、なにかを察してレオン殿下の周辺で動きを見せたらおもしろいではないか。ジェルヴェーズ殿下の逆鱗に触れれば、リオネル殿はともかく、ディルク殿くらいは容易に破滅への道を辿ることになる」

「…………」

「追いつめる方法は、いくらでもある。真綿でじわじわと首を絞めて苦しめるのも、罠にはめるのも愉快だが、放っておいた餌に食らいつかせるのも一興だ。そうだろう、エフセイ」


 無言のまま、エフセイは軽く頭を下げた。


 開け放たれた窓から流れこむ春の風が、なぜかエフセイの心を落ち着かなくさせる。

 なにかから……何者からか、責めたてられている気がする。


「さあ、時間だ。おれはジェルヴェーズ殿下のお部屋へ行く」


 足早に立ち去る主人に、エフセイは深く一礼した。


 気のせいだろうか、暖かだった風が、冷たさを帯びたように感じられる。

 あのときもそうだった。

 ――あの日から、心にこびりついて離れないなにかがある。






+++






 フィデールがいる部屋の並びの一室では、エフセイが見抜いたとおり、未だにレオンが毒薬に苦しんでいる。


 このとき、二人の近衛兵のうち、クリストフだけが看護にあたっており、シモンは部屋の外で警備に立っていた。


 クリストフに背中をさすられながら、レオンは焦点の定まらぬ思考のうちに思う。もうそろそろ、リオネルたちがサン・オーヴァンに着くころだろうかと。


 彼らに会いたいが、この状態では五月祭の当日までに治るかどうかもあやしい。……というよりも、生きていられる自信さえ失いはじめていた。


 レオンの胃にはもはや一切の内容物はなく、血の混じった液体を吐きだすだけである。

 身体は食べ物を受けつけず、しかし熱は高く、体力は限界に近づいていた。


 看病に当たるクリストフやシモンの表情に浮かぶ焦りの色を見ると、余計に気持ちは弱気になった。


 けれど、それをレオンはけっして表に出さない。

 あくまで「大丈夫」と言い張り、彼らが助けを呼びに行くのを禁止した。

 ――忠実な家臣を、兄の暴虐の刃に晒したくなかった。


 それと同様、今回のことでだれにも迷惑をかけたくない。特に、もうすぐ王宮に来るだろうリオネルとディルクに累が及ばないか気がかりであった。







 また別の部屋では、ジェルヴェーズが訪れることのなくなった空間を、さみしさとは違った感情で埋めつくしながら、クラリスが孤独に過ごしている。


 この場所を今すぐにでも抜け出し、自由な外の空気を吸いたいという衝動にかられるが、それは、束の間の安息しか生まないことをクラリスは知っていた。


 自分には帰る場所がない。

 逃げ出したところで、行きつく先は孤独な死である。


 それにクラリスには、ここから動けぬいまひとつの理由があった。


 窓から見える外の景色が眩しい。

 中庭で馬に跨る騎士たちが、輝かしく見えた。







 宮殿の内外では、使用人らが五月祭の準備に明けくれている。大きな荷車に乗せられ行き交う食料、滞在する貴族らのための寝具の用意、備品の組み立て、装飾品の準備……。


 そのなかで、一際ひときわ懸命に働く少年の姿があった。


 身体中を擦り傷と煤だらけにしながら、宮殿の上から下まで駆けまわっている。

 覚悟はしていたが、煙突掃除の仕事がこれほど厳しいとは、本人も想像していなかったことだ。


 へとへとになりながら、ボドワン親方と仕事仲間のジェレミーのあとに従う。


「次はここだ」


 親方が指示したのは、使用人らが共同で使用する部屋である。


 その日、最初の仕事は調理場で、広大なその場所の煙突はなんと二十ヶ所以上にものぼった。

 使用人たちの部屋については、何室あるかもわからない。アベルは気が遠くなった。これを、今日中にやらねばならぬというのだから。


 けれど、愚痴を言うわけにはいかない。アベルとジェレミーは顔を見合わせ、そして肩をすくめた。


「いいか、煙突を登ったら、すぐに下りて次の部屋に移るんだ。もたもたするなよ、今日中に終わらなければ、おまえら二人とも夕飯抜きだからな」


 夕飯抜き――それは、ぞっとする言葉だった。


 今朝の食事は、薄く溶いた麦粥一杯だけである。昼食はない。夕食は、朝と同じものが二杯出だけだという。


 けれど、昨夜もろくに食事をとっていなかったアベルは、これまでの重労働ですでにかなり空腹の状態だった。たとえ粗末な粥であっても、夕食にありつきたい。


 アベルとジェレミーは、早速、仕事にとりかかった。


 狭い煙突のなかをよじ登るのは、苦痛以外のなにものでもない。完全な闇のなかですべての感覚が麻痺してくるような錯覚に囚われるうえに、煤は目や口に入るし、手足の力を抜けば真下に落ちていくだけだ。運が悪ければ、そのまま神のもとへ召されることになる。


 多少の目の痛みも、擦り傷も我慢して、落下せずにどうにか上まで登りきることだけに集中しなければならない。


 けれど、長い長い暗闇を抜けると、優しい水色の空と、かつて目にしたこともないような景色が周囲に広がる。そこは宮殿の屋根だ。


 宮殿の最上部からこの世界を見渡すことができるのは、おそらく屋根の修理や掃除をする職人と、煙突掃除の少年だけだろう。

 この仕事における、希少な特権かもしれない。


 屋根からの眺めは、言葉に現しつくせぬ美しさだった。


 遮るもののない広々とした空と地平線、彼方に見える丘、丘の上の町、玩具のような家々の中心にある礼拝堂……視線を間近に移せば、王宮の前庭に停まる煌びやかな馬車や、そこから出てくる着飾った人々も眺めることができる。


 広大な中庭の形もひと目でわかり、そこで演習を行う正騎士隊の姿もことごとく確認できた。


「イシャス、さっきより黒くなったね! お化けみたいだ」


 先に登りきっていたジェレミーが、煙突から出て周囲を見渡すアベルの姿を見て笑う。


「あなたも、目と口しかないからすみたいです」


 アベルもやり返すと、二人は声を立てて笑った。


「綺麗だろう? ここからの景色」


 ひとしきり笑うと、ジェレミーも絶景に目を向ける。


「これを見ていると、生まれてきてよかったって思うんだ。おれの親は貧しくておれを売ったけど、それでも産んでくれたことは感謝してる」

「売った……?」


 信じられぬ言葉を耳にして、アベルは思わず聞き返す。

 実の親が、いくら貧困ゆえとはいえ子供を売るなどとは。


「おれは、八つのときに、親方に売られたんだ。銀貨一枚と引き換えにね」


 アベルは返す言葉を見つけられなかった。


 銀貨一枚――。

 それだけのものに、この少年の命と同等の価値などあるはずがないのに。


 哀しい顔をするアベルに、ジェレミーは困ったように笑った。


「おれの故郷は、サローヌ領にあるマノっていう小さな貧しい村でさ……食うや食わずだったうえに、うちにはまだ小さな妹や弟がいたんだ。爺ちゃんも病気だった」


 自分のことに置き替えて、今は名を借りているイシャスのことを思う。

 同じ状況に置かれたら、子供をお金に換えることができるだろうか――。


 他の家族を守るため、ひとりを犠牲にする。

 飢えと貧困の苦しさを、アベルは知っている。……それがどれほどみじめで哀しいことかを。


 イシャスは、自ら望んで産んだ子ではない。それでも、彼にこのような過酷な労働をさせるくらいなら、共に飢えて死にたいと思った。


 アベルはそう思うのだが、ジェレミーはそうではないようだった。


「皆が死んじゃうより、よかったと思ってるよ。それで弟や妹、爺ちゃんたちが助かったなら嬉しいし、こうしておれも生きてるし」


 この少年が持つ強さと優しさに、アベルは心打たれる。

 己の境遇を嘆くことなく、また自分を売った両親を恨んでもいないのだ。むしろ「産んでくれたことを感謝している」と言えるその心の清らかさ。

 自分ならそんなふうに思えるかどうか――アベルには自信がない。


 気持ちが晴れたわけではなかったが、ジェレミーのためにアベルはほほえんでみせた。

 アベルの心情を察したらしく、ジェレミーはあえて明るい表情をつくる。


「この話はもういいからさ」


 そんなジェレミーは、十二歳だというのに、どこか大人びて見えた。


「あそこ見てごらんよ。あれは正騎士隊っていって、国中の勇敢な騎士が集まっている政府軍なんだ」


 居並ぶ騎士らの中央あたりを、ジェレミーは指差す。


「あの黒い馬に乗っているのが、隊長のシュザン・トゥールヴィル様さ。この国で一番強い騎士だ」


 その名に興味を引かれ、ジェレミーに指し示されたほうへアベルは目を向ける。

 黒馬に跨った人物は、すぐに発見することができた。なぜなら、彼の風貌が、よく知る人に似通っていたからだ。


 シュザン・トゥールヴィル。

 リオネルの母方の叔父にあたり、リオネル、ディルク、レオンを叙勲した師でもある。


 彼の髪は、リオネルと同じ艶やかな濃い茶色で、整った目鼻立ちは知性と強い意志を感じさせた。


「素敵な方ですね」

「もちろんさ、美人で名高かったアンリエット様の弟だからね」

「なるほど……」

「もうすぐ、そのアンリエット様のお子であるリオネル様が来るんだ。ひと目でもいいから見たいなあ!」


 リオネルの名を聞き、アベルはなぜか心臓が跳ねた。


「……ジェレミーは、いろんなことを知っているのですね」

「まあね、いつも宮殿の煙突掃除はおれの仕事だから、政治の話は詳しいんだ」


 そう語るジェレミーは得意気である。これまでの話のどのあたりが「政治」なのか、アベルにはよくわからなかったが。


「イシャスは、ベルリオーズ領から来たんだろう? リオネル様を見たことがあるのか?」

「こ……こんなに話していて大丈夫なのでしょうか。もうそろそろ別の煙突に移ったほうがいいのでは」


 答えにくい質問を受けて、アベルは話を逸らす。


「あ、そうだね。でもイシャスは登ってきたばかりだから、まだここにいていいよ。外の景色でも眺めていなよ」

「でも、それではすべての煙突が今日中には……」

「いいのいいの。親方が、おれたちに夕飯を食べさせないわけないんだから。おれとイシャスが倒れたら、明日からここの煙突はだれが掃除するのさ?」


 なるほどと思ったが、それでは宮殿の仕事が終わったあとが怖そうだと、アベルは冷静に思った。


「それに、おれは仕事が早いのさ。疲れただろうし、イシャスは少し休んでなよ」


 やや強引にジェレミーはアベルを残して、再び煙突を下りていく。


 アベルはひとりになった。

 ひとりになると、余計に空も景色も広く見える。

 これが、この国の「中心」から見る空と風景なのだと、あらためて思う。


 この国は、なんと豊かで美しいのだろう。気候にも風土にも恵まれ、春になればこうしてあたたかな風が、シャルム中の花や草木を目覚めさせる。


 春に人々が撒いた種が、夏に育ち、秋には豊かな実りとなる。そんな穏やかな光景や生活を守るのが、きっとこの場所なのだ。

 だからこそ、この宮殿は国の中心に、これほどに高くそびえたっているに違いない。


 大きく息を吸い込んでみる。

 春を身体のなかにとりこんだような気がした。


 ゆっくりと息を吐きだすその途中、ふと屋根の最上部が目にとまった。

 そこは、平たくなっている。ここを歩いたら、シャルム国内でおそらく最も高い場所で春の風を全身に受けることができるはずだ。それは、さぞ気持ちがいいことだろうとアベルは思った。


 好奇心から、アベルは煙突をよじ登り、最上部に立って少しだけ歩いてみる。

 想像したとおりの心地よさだった。


 けれど不思議なことにも気がつく。

 煙突は、部屋の暖炉から煙も運ぶが、ときに人の声も運ぶのだ。


 特に、最上階にある部屋の煙突は当然屋根までの距離が近いので、声が漏れやすい。むろん会話が聞こえるはずもなく、音として耳に届くだけではあるが。


 この「音」がなければ、もっと心地よかったに違いない。

 雰囲気がわかったところで満足し、そろそろ下りようとアベルは思った。


 振り返る。


 居並ぶ無数の煙突。

 形はどれも同じ。

 …………。


 …………。


 ……どの煙突から登ってきたのか、わからなくなってしまった。


 アベルは慌てた。


 ――いや、落ち着け。

 自分に言い聞かせる。


 どれくらい歩いたか、その感覚を思い出して、その分を引き返せばいい。


 …………。


 わからない。ぼんやり歩いていたから。


 自分の感覚を信じてみるしかない。

 引き返して、このあたりだったと思う煙突を探しあてる。


 一か八かだ。

 アベルは一本の煙突を下りた。


 暗闇のなかを下りていく時間は、いつも途方もなく長く感じる。

 手足が擦れる痛みに耐えながら、闇のなかでただひたすら手足を動かしていくと、視界がぼんやりと明るくなる。


 もうすぐ着く。

 アベルの足が慎重に地面を探り、そして暖炉のなかに降り立った。

 そっと上半身をかがめて、自分がたどり着いた部屋を確認してみる。


 ――アベルは絶句した。


 たどり着いた室内……寝台から上半身だけを起こし、横に据えられた椅子の盥に向けて嘔吐している人物は、レオンだった。







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