15
古びた窓や扉、雨に打たれて色の変わった壁、突き出た二階部分の木は腐りはじめていたが、並びの家々に比べると、その一軒はまだ手入れがされているほうだった。
表からは、家のなかの様子も、裏にあるだろう庭の様子も見えない。ただ、窓の木枠が壊れていて、そこからわずかに光がもれているのだけが見えた。
家のまえに立ち、ひと呼吸すると、アベルは扉を叩く。
すぐにそれは開いた。
なかから出てきたのは、中年の女性である。肉付きはよいほうで、吊りあがった目とわずかに歪んだ口の形は、彼女の性格を体現しているようであった。
「あんたかい、うちで働きたいというのは」
アベルを見る彼女の目は、不信と侮蔑に満ちている。
「はい、親方にご了承をいただきました」
丁寧に答えると、奥から声が聞こえてくる。
「ナタリー、なにやっているんだ。早く入れろ」
女は胡散臭そうにアベルを見やってから、扉を大きく開いて訪問者を中へ通した。
貧しい家の造りはだいたいそうだが、扉をくぐれば、もうそこは居間と調理場である。
ここも例外ではなく、入ってすぐに食事用の大きな長机と長椅子、狭い調理場、そして部屋を暖める際や調理にも使用できる暖炉があった。
その部屋に、ボドワン親方、そして、ひとりの少年の姿がある。大柄なボドワンの脇に立つ少年は、とても小柄に見えた。
「お約束どおり参りました。お世話になります」
「よく来た、よく来た。約束を守ることは、いいことだ」
上機嫌のボドワンは、立って挨拶したアベルの肩に手を置き、長椅子まで連れていく。それからジェレミーを呼び、彼をアベルの隣に座らせた。
「こいつは、ジェレミー。明日からこいつと二人で働くことになる。仕事は難しくないが、少しばかりのコツがいる。仕事のやり方はすべてジェレミーから聞け。ここでの生活のことも、こいつが教える。わかったか?」
アベルは隣の少年をちらと見やる。
痩せており、顔や身体のあちこちは煤で黒くなっているが、活き活きと光る瞳が印象的な少年だった。
「よろしくお願いします、ジェレミー」
声をかけられて、ジェレミーはくすぐったそうな、けれど少しばかり得意げな顔になる。
「任せといてよ」
こちらを向いて笑った顔が幼くて愛らしい。弟のカミーユが思い起されて、アベルは胸がじんとなった。
けれど彼の笑顔は、親方の声ですぐに消えてしまう。
「ジェレミー、今夜のうちに新入りに仕事の内容を教えておけ。この家の決まりもだ。こいつが失敗すれば、おまえを『墓場』に連れていくぞ。わかったな」
うつむいてから、小さな声で「はい」と、ジェレミーは返事をする。
「じゃあ、さっさと上へあがれ。明日の朝、寝坊したらただじゃすまねえぞ」
「はい」
再び小さく返事をすると、ジェレミーは椅子から降り、アベルに手招きした。アベルは立ちあがり、ジェレミーに従って屋根裏への階段を上っていく。
その後ろ姿を、ボドワン夫妻は黙って見送った。
「あんた、あんな子、どこで見つけてきたのさ」
二人の姿が完全に見えなくなると、ナタリーは不審げに夫に尋ねた。
「あんな子って、どんなだっていうんだ? いつもの酒場にいたんだ、向こうから働きたいって言ってきたんだから、渡りに船だったわけさ」
眉を上げて、ナタリーは「ふうん」と答える。
「あの子の名前はなんていうんだい?」
「そういえば、聞いてねえな」
「だから、あんたはどうしようもないのさ。肝心なことは、なにも見ていないんだよ」
「名前は聞き忘れただけだ」
ボドワンは、腹立たしげに持っていた酒の杯を机に置く。
「さっきから、あいつのなにが気に入らねえんだ。これで城からたんまり報酬がもらえれば、それでいいじゃないか」
呆れたように、彼の妻は首を横に振った。
「それで済めばいいけどさ」
「なにか済まねえってのかい?」
「あの子、綺麗な顔をしているよ。それに、ものすごく言葉も物腰も上品だ。気づいたかい?」
「そんなことは、知らねえが、それがどうしたってんだ? 顔がよくて、なにか悪いことがあるか?」
ボドワンの妻は、突然会話するのをやめて、調理場の後片付けをはじめる。これ以上この男と話していても、自分の思っていることなど伝わるはずもないと思ったからだ。
「なんだってんだ、こんちくしょう!」
背後でボドワンが悪態をついていたが、ナタリーは無視した。
はじめから、あまりに都合よすぎる話だと感じたせいだろうか。ナタリーは、どうもあの少年を信用できない。
少年は、みすぼらしい身なりをしていたが、顔立ちは美しく、その瞳は浮浪児にはない強い意志のようなものを秘めていた。
だからどうというわけではない。
しっかり働いてくれればそれでよい。
けれど、宮殿内に、まだ知りあって間もなく、素性のわからぬ者を入れるということは、それなりの危険を伴うことだ。金に目がくらんで、杜撰なことをすれば、それは何倍にもなって我が身に返ってくるだろう。
根拠があるわけではないので、ナタリー自身もやもやとしたものを抱えており、それ以上は夫にあれこれ言うことはできなかったが、それでも、なんとなく不安な心地だけが残っていた。
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一方、ボドワンが聞き忘れたことを、屋根裏部屋でジェレミーは尋ねていた。
「名前はなんていうの?」
「ええっと……」
どう答えようか、アベルは束の間、逡巡する。
「アベル」という名を使うのは危険だ。万が一、なんらかの関係でアベルを知る者の耳にその名が伝われば、周囲に素性を知られるひとつの原因になりうる。
咄嗟に口に出たのは、アベル自身にとっても思いがけぬ名であった。
「イ……イシャスです」
「いい名前だね、だれがつけてくれたの?」
「ち……父です」
しどろもどろ答えるアベルに、ジェレミーは屈託なく笑った。
「そんなに緊張しなくてもいいよ、おれたち同じくらいの年だし、どっちが先にここにいたかなんて関係ないから、敬語なんて使わないでよ」
アベルの精彩を欠いた回答を、ジェレミーは緊張のせいだと考えたようだ。
「おれたちは、皆、親も兄弟もいない。ここで働く仲間が家族みたいなもんだ。イシャスも、そう思ってよ」
「ありがとう……ございます」
頑張ってはみたが、結局は敬語になってしまったアベルに、ジェレミーは笑う。
「まあ、無理する必要もないもんね。いいよ、好きなように話して」
アベルが敬語から離れられないのは、そうしなければ「男の子」の言葉で話す必要性に迫られるからだ。もともと貴族の女性であり、ましてや舞台演者でもないアベルにとっては、非常に難しいことだった。
「でもね、家族と思っていいのはあくまで、おれたち子供のあいだだけだ。ボドワン親方やナタリーやその一族を家族だなんて思っちゃだめだよ。あいつらは鬼だよ、鬼。ひどいもんだ、人間じゃない。おれたちの命なんて、命とも思っていない。ただの道具さ。使いもんにならないやつや、怪我や病気で働けなくなったやつは、すぐに捨てられる。たとえ、生きていてもね」
「…………」
「だからイシャス、気をつけて。ボドワン親方の命令は絶対だ。背いたら、殴り殺されると思ったほうがいい。一度命令されたら、なにがなんでもこなすんだ。そうしなければ、使いもんにならないと思われて、捨てられる。この家の裏にある『墓場』にね」
彼の言いぶりに驚き目をみはるアベルの顔を、ジェレミーはふとなにか気がついたようにじっと覗きこんだ。
屋根裏部屋では、アベルとジェレミーのほかに、四人の子供たちがおり、皆すでに眠っていた。寝台などはなく、床に毛布を敷いただけの寝床だ。
アベルとジェレミーも、隣り合って敷いた毛布にくるまって話している。そこを照らしているのは、屋根裏の天窓から降りそそぐ、春の星座の輝きだけであった。
けれど、ジェレミーには、はっきり見えていた。
「とっても綺麗な目の色だね」
魅入ったまま、つぶやく。
「水色の星屑を集めたみたいだ」
アベルは瞼を伏せた。
容姿を褒められるのは苦手である。それは、自分の瞳や髪の色が珍しいだけで、けっして美しくなどないとアベルは思うからだ。おそらく狭い社会で生きてきた少年にとり、水色の瞳は初めて見る色なのだろう。
なにを言ってよいかわからず、アベルは先程の話の続きを促した。
「え、その……『墓場』ってなんですか?」
思考を引き戻されたジェレミーは、アベルの瞳から視線を外し、先程と同じ調子で説明した。
「『墓場』はね、この家の裏庭にある、なんというかな……物置のような場所だよ。怪我や病気で働けなくなったやつを、そこに放置して、ただ死んでいくのを待つんだ」
アベルは整った眉をひそめる。
「ひどい……」
「そう、ひどいよ。床も屋根もない、ただ柵で区切られただけの土のうえさ。看病されないのはもちろん、食べ物も与えられずに、ひとりで死んでいく。――哀しい場所だ」
「助けてあげられないのですか?」
向けられた質問に、ジェレミーは苦しげな表情を浮かべた。
「助けたら、今度はおれが『墓場』行きだよ。そういう決まりなんだ」
「…………」
「そこで死んだやつは、他のごみと一緒に捨てられる。つまり、ごみさ。もう人間としても扱われない。『墓場』は、人間でいられる最後の場所でもあるんだ」
「親方はひどいことをするのですね」
これまでよく話していたジェレミーが、口を閉ざす。その表情は、なにかを回顧しているようでも、なにかの感情に耐えているようでもあった。
今までの幾人の「家族」と慕う仲間を見殺しにしてこなければならなかったのか。十二歳の少年の胸のうちに、どれほどの苦悩が渦巻いているのか、アベルには測り知ることができなかった。
「辛いことなのに、いろいろ教えてくれて、ありがとう」
アベルはそっとジェレミーにほほえみかける。あえて、このときだけは敬語を使わずに。
はっとした顔をして、ジェレミーは目をまたたかせた。
「なんか、急にイシャスが年上に見えたよ。泣きそうな気分だったのに、涙が引っ込んじゃった。おかしいなあ」
二人は小さく笑った。
けれどその気配を感じとったのか、眠っているひとりがうるさげに寝がえりを打つ。
「もう寝ようか、明日は早いし」
「仕事の内容は、聞いておかなくてもかまいませんか?」
「うん……」
仰向けになりかけたジェレミーは、視線を彷徨わせて言い淀んだ。
「あのね、おれたちの仕事っていうのは、なにかを『やる』わけじゃないんだ」
アベルは首を傾げる。
「狭い煙突を通り抜けることで、中に溜まった煤をこの身体にすりつけて綺麗にするってだけだ。いちおう、掃除用の布切れは持っていくよ。でもそれはあまり役に立たない」
「……なんというか、画期的な方法ですね」
皮肉の混じったアベルの感想に、ジェレミーは真面目に答えた。
「大人じゃ、あの狭い煙突には入れない。民家の煙突は造りが雑だから、それなりに身体の大きなやつでも入れるけど、王宮の煙突は繊細に造ってあって、おれたちみたいな細いやつじゃないと無理なんだ」
「王宮には、煙突掃除人がいないのですか?」
「いるよ、でも、ここの法律じゃ十五歳以下の煙突掃除夫は禁止されてる。王様の住む場所で、法律に反することをするわけにはいかないだろう? だから、ボドワン親方なんかのところに依頼してくるのさ――自分たちが法律違反した罪に問われないためにね。どっちにしろ、おれたちのような子供を使ってるんだから、結果は同じなのに。偽善と責任逃ればっかりで、城にいる役人っていうのはせこいやつらだよ」
「そうなんですね」
アベルの声は沈んでいった。
その様子を気にして、ジェレミーは明るい声を出す。
「でもね、いいこともあるよ。お城の仕事をきちんと終わらせれば、少しだけお小遣いがもらえる。滅多にない機会だよ」
少年の気遣いに、アベルはそっとほほえむ。
「ジェレミーは、優しいんですね」
「えっ?」
意外な反応が返ってきたので、ジェレミーは戸惑った。
「いや、別に、そんなことはないけど……」
「それでは、また明日。おやすみなさい」
戸惑ったままのジェレミーにかまわず、アベルは布団に仰向けになる。ジェレミーもすぐに調子を取り戻し、布団にもぐりこんで「おやすみ」と言った。
背中に当たる床が硬い。
久しぶりに感じるその感覚に、アベルは、普段どれだけリオネルに守られて暮らしていたのかを、あらためて知る。
日々、あたたかい寝床を――なに不自由ない生活を、与えてくれているのはリオネルなのだ。
けれどそれだけではない。
生きる意味さえも、彼は与えてくれている。
どれほどのものを彼から受けとっているのか、それをどのようにして返せばよいのか――返す力が自分にはあるのか、アベルはあらためて考えさせられるのだった。
そして。
この家に住む少年らのこと。
ジェレミーのこと。
明日からの仕事のこと。
様々なことに思いを巡らせ、アベルは眠りについた。
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ここからは、正騎士隊が五月祭に向けての演習をする光景がよく見える。
実際に当日行うのと同じ場所で、正騎士隊が模擬演習を行っているのだ。
中庭にある楕円形の噴水池を囲い、騎乗し池を挟んで向かい合った騎士たちが、互いの上空に向けて高く放つ弓矢が、華やかな噴水のあいだをくぐりぬけ、水と陽光を弾いて美しい光を放ちながら背後の的に命中する。
さすがにシュザン・トゥールヴィルが指揮する正騎士隊は、完璧なまでに統制がとれており、またひとりひとりの技術も見事だ。
優れた武芸の腕を持つフィデールも、騎馬隊と弓矢が織りなす水と光の幻想的な光景には、感服せずにはおれない。
と同時に、シュザン・トゥールヴィルという存在がいかに手強いか、また、彼の甥で長年従騎士として腕を磨いてきたリオネルも同様に厄介であろうことを、考えさせられずにはおれなかった。
銀杯の中身が残りわずかになると、
「別のものをお持ちしましょうか」
と、エフセイが気を利かせる。
王族の私室と同じ並びにあるこの一室は賓客室であり、父であるブレーズ公爵が王宮に留まる際に使用する私室である。ブレーズ公爵は半月ほど前に自領に戻ったので、息子であるフィデールがその部屋を引き継ぐこととなった。
ブレーズ公爵が領地に戻った表向きの理由は、それまでフィデールが担ってきたブレーズ領の政務を、自ら仕切るためである。
けれどそれは、フィデールからすれば単なる口実としか思えない。
今、ブレーズ領内においては、信用のおける家臣らがいる。彼らは、ブレーズ家の縁戚にあたる貴族で、古くから仕えている者たちだ。政務については彼らに任せることができるので、公爵とフィデールが同時期に不在であっても、なんの不都合もない。
けれど父公爵は、カミーユが王宮に到着し、甥との対面を喜ぶとすぐに王宮を離れてしまったのだ。
父親の感じている疲労感を、フィデールは敏感に察知していた。
彼はおそらく、休みたかったのだろう。そして自らの領地で久しぶりに五月祭でも過ごしたかったのかもしれない。
長年、自領での仕事より王宮において国政に携わってきた彼は、息子のフィデールと一旦交替し、一時的に「暇」をとったのだ。
勝手なものだと思わなくもないが、それよりも、意外に思う気持ちのほうがフィデールとしては強かった。考えていた以上に、父公爵は息子である自分を信頼しているのだろうかと思ったからだ。
そう考えると、フィデールの形のよい唇に、皮肉めいた微笑がひらめく。
窓からは、あたたかい風。
エフセイが女中に命じて持ってこさせた酒を受けとり、引き続き正騎士隊の演習を見るともなく見る。
春の穏やかな陽気とは裏腹に、葡萄酒を満たした銀杯は冷たく、それを持つフィデールの手もまた同じ温度だった。
「レオン殿下の具合は、よくならないか」
不意に問いかけたのは、背後に控えるエフセイに対してである。




