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旅人が己の選択を後悔した直後、ひとりの大柄な客が小さな戸口をくぐり、空いていたアベルの隣席に座った。
男はアベルの存在に気がついていないのかのように、太い手足を遠慮なく広げ、それから耳が痛くなるほどの大声で店の奥へ酒の注文をする。
店主が来るまで待てないほど急いでいるのだろうかと、アベルは心のなかでひとりごちた。
けれど、よくよく見ると、男の身なりは整っており、髪も髭も形良く刈られているし、身につけている服も清潔である。身なりだけからすれば、どこかよい場所に出入りしているようにも感じられた。
「おっ、だれかと思えば、ボドワンじゃねえか! いい格好して『ナルシス・ド・リュン』にでも行ってきたのか?」
長机の男たちが、いっせいに笑う。
高級娼館「ナルシス・ド・リュン」。ここいらでは知らぬ者はないその場所は、男たちにとって一生に一度は訪れてみたい聖地であり、だが貧しい労働者である彼らは、十回あの世の門をくぐって生まれ変わらなければ、足を踏み入れられぬ場所である。そのころに、果たしてこの娼館がまだ残っているかどうか……。
知人の客から冷やかされ、ボドワンと呼ばれた男は、卑屈な笑みを浮かべた。
「そこに近い場所だ。おまえらには一生、行けやしねえ」
彼はここの常連客のようである。近くの男たちが彼の周りに集まり、話を始めた。
「もったいぶりやがって、立ち寄ったとしたら、どうせ安い売春宿だろう? 大方、金持ちのふりして、ツケで遊んできたってところに決まってら」
再び笑いが巻き起こると、ボドワンは苛立ったように大声を張り上げた。
「城だ! 天下のシャルム宮殿に行ってきたんだ。驚いたか」
しかし、ボドワンの期待に反し、男たちはさして驚かなかった。
「城に出入りするだけなら、下水溝の掃除人だってできるぜ」
「そういえば、ボドワン閣下も似たようなお職業でいらっしゃいました」
酔っぱらって好き放題言う男たちに苛立ち、ボドワンは運ばれてきた麦酒をいっきにあおる。
「いい飲みっぷりだね、親方!」
ひとりが茶化したが、ボドワンは片頬を吊り上げただけで、次の酒を注文した。
「それで、城から仕事の依頼かい? けっこうなことじゃないか。おまえのところは景気がいいね」
「そう、うまいこと行くかよ。こっちは途方に暮れて、すっかり参っちまってる」
男たちの話を、アベルは耳をそばだてて聞いていた。
ボドワンと呼ばれている男の職業はわからないが、城への出入りが許されているようだ。うまくすれば、宮殿に入るための足がかりになるかもしれない。
それに、男たちが引き合いに出していた「下水溝の掃除人」というのも、今まで考えつかなかったひとつの可能性である。
「城で働けば、報酬はどっさり、しかも確実にもらえるんだろう? どうして途方に暮れる必要があるんだ」
問われたボドワンは、せっかく整えられていた髪を、片手でぐしゃぐしゃに掻きまわし、もう片方の手で、アベルが食べ残した硬いパンを無断で引っ掴んで口へ入れる。
どのみち、もう食べる予定もなかったので、アベルはなにも言わなかった。
「どうもこうもねえさ。仕事をすれば、報酬はもらえるが、仕事をするやつがなにせ足りない」
「仕事をするやつって、おまえの家で飼っている子供どものことか?」
「おまえんとこには、鼠のようにたくさん小僧がいるじゃねえか」
新たに運ばれてきた麦酒を、今度は半分ほど飲みほして、ボドワンは手のひらで口を拭う。
「最近の子供は、腰抜けばかりでしょうがねえや。すぐに弱音は吐く、怠ける、病気にかかる。しまいには失敗して、あの世行きだ。ついこのあいだまで八人いたガキどもが、今じゃ五人しかいねえ」
「そりゃずいぶん殺したな、親方さんよ」
ボドワンの話に、ひとりがやや非難めいた声音を放った。
「『殺した』とは人聞きが悪い言い方じゃねえか。おれは、なにもしちゃいねえ。あいつらが、軟弱すぎるだけのことだ。仕事を増やせば、すぐに身体を壊すし、ちょっと熱を出したくらいで、『働けない』などとほざきやがるとくりゃあ、まったくおれたちは、孤児に飯を食わせてやってる慈善団体のようなもんだ」
随分と独善的なボドワンの意見に対する周囲の反応はまちまちで、幾人かは「それもそうだ」と笑っていたし、幾人かは冷めた様子で酒を口に運んでいる。
「それにしても、おまえんとこには、まだ五人いるんだろう? 全員を城の仕事に充てればいいだけじゃねえか」
「無理だ、無理だ。残っているやつらは、身体だけは成長して大きいのばかりで、王宮の、迷路のように精緻で狭い煙突に入れるのは、ジェレミーくらいしかいない。年齢の低いやつらは、みんなすぐ死んじまう。そのへんの子供を拾って使うにも、あまりに痩せこけて薄汚くて、王宮に連れちゃいけねえ」
彼の話からすると、真っ先に死んでいくのはまだ幼い少年や、小柄で「煙突で働かせやすい」者たちなのだろう。残酷なことである。
けれど、アベルはこれしかないと思った。
どうやら、男の職業は煙突掃除夫らしい。それも、王宮で働かせる少年が足りなくて困っているという。
これ以上の好機は他にない。想像もできなかったほどの幸運だ。
「街外れの酒屋」は、確かにアベルに必要なものを与えてくれた。
アベルの静かな喜びに気づくはずもない周囲の者たちは、話を続けている。
「ボドワン、おまえ、そんな状況でどうして引き受けたんだ?」
「そりゃ、おめえ、断れるわけないだろう。天下のシャルム宮殿からの依頼だ、断れば、煙突掃除という生業を始めた天国の親父に申しわけが立たねえ」
「ようするに、金に目がくらんだってわけだな」
「いや、宮殿の担当者にいい顔がしたかったんだろう」
「断れば次の依頼が来ないからさ」
「それで、どうするつもりだ? 引き受けておいて、いい加減な仕事をしたら、おまえの首が飛ぶぞ」
わかりきったことを親切に教えてくれる知人に、ボドワンは唾を吐きかけながら怒鳴った。
「だから焦ってるんじゃねえか! せめてあと一人、使いもんになるガキがいればなあ」
やけになってボドワンが二杯目の麦酒を飲み干そうとしたとき、唐突にその声はした。
「わたしを雇ってください」
なにか人ならぬ声が聞こえたかのように、皆が会話をやめて耳を澄ましたので、その場に静寂が訪れる。
だれもが、アベルがそこにいることを忘れていたので、旅の少年が名乗りをあげたとき、彼がなにを口走ったのかすぐには理解できなかったのだ。
「は?」
ボドワンは、口をあんぐりと開ける。
「わたしを雇ってください」
もう一度アベルは同じ言葉を繰り返した。
そこでようやく、ボドワンや周囲の客はアベルへ視線を向ける。
「だれだ、おまえは? いつからここにいた?」
「わたしはずっとここにいました」
ここにあったパンを勝手に食べていたではないかとアベルは思ったが、今はそれを追及するときではない。必死で、貧しい子供を演じる。
「働く場所を探しています、どうかわたしに、お城の煙突掃除をさせてください」
奇妙なものを見るように、ボドワンはアベルの顔を覗き込んだ。
周囲の客たちも興味深げにアベルを見やる。
外套を羽織ったまま食事をしていた少年は、身体の線は細く、一見そこらの浮浪児かとも思えるが、清潔感と品があった。
「なかなか綺麗な顔立ちの小僧じゃないか、ボドワン。これなら、宮殿に入れても大丈夫なんじゃないか?」
「細いから、宮殿の高貴な煙突にも入るだろうよ」
「働きたいっていうんだから、働かせてやったらどうだ? 今度は、死なせないように気をつけてな」
周りから適当なことをあれこれ言われていたが、ボドワンはそれを気にせず、アベルを眺めながら考え込んでいる。
ようやく声を発したとき、彼は質問を放った。
「歳はいくつだ、小僧」
「十二歳です」
ボドワンは口端を歪める。もう少し年長にも見えたが、十二歳なら歓迎すべき年齢だ。
自分に反抗する力はまだないが、この仕事がどれほど配慮を必要とするものか理解できるくらいの年齢である。
気になるのは、素性だ。
おかしな者を王宮に入れて、盗みや、問題ある行動でもされれば、ボドワンは牢獄行だ。
「どこから来た」
「ベルリオーズ領です」
「親はどうした」
「わたしは捨て子でした」
「ベルリオーズではどうやって暮らしていた」
「田舎町の小さな孤児養育院に住んでいましたが、火事で施設が焼け、住む場所を失いました」
しばらくのあいだ、しきりと顎鬚を引っ張っていたが、ついにボドワンは決意したようだった。
「よし、おまえを雇おう」
少年には気品さえ感じられ、とても盗みをしそうには見えない。
「お給料は、ちゃんといただけるのですか?」
アベルの質問に面倒くさそうな色を浮かべたが、ボドワンはすぐに表情を改め、作り笑いを浮かべた。
「もちろんだ。しっかり働けば、それなりに払おう」
ここでまずいことを言って、運よく手に入れた労働力を失うのは、もったいない。
ボドワンの返事に、周囲の男たちはにやにやしたり、はたまた、眉を寄せたりしていたが、声を発する者はいない。下手に口を挟んで、ボドワンが金の卵を失ったら、面倒なことになるからだ。
ボドワンの家がある場所を聞き、今夜中にそこへ向かうとアベルは約束した。宿へ戻って女将に宿泊を断らなければならなかったし、着ている服を、もう少し薄汚いものにする必要があった。今アベルが外套の下に身に着けている服は、浮浪児にしては立派で清潔すぎる。
「うちに着いたら、扉を三回叩け。女房が開けるだろう。約束したからには、必ず来るんだぞ」
幾度もうなずき、ボドワンを安心させてから、アベルは酒場を後にした。
このままうまくやれば、王宮に入りこむことができるかもしれない。宿屋への道を急ぎながら、アベルはミーシャの予言に深く感謝した。彼女の言葉がなかったら、この足がかりをつかむことはできなかっただろう。
煮込みや固いパンは半分以上食べ残したが、お腹は空いていない。
けれど食事を残したことは、のちに彼女のひとつの後悔となった。
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鍋の麦粥が、ぐつぐつと煮えたっている。
味気のない料理だが、腹が空けばおいしく感じるものだ。食事が待ち遠しくてならなかった。
子供たちは、行儀よく長椅子に座っている。行儀よくしていなければ、ボドワンが帰ってきたときになにをされるかわからない。
その夜、ボドワンは上機嫌で家に帰ってきた。
普段より遅めの食事をはじめていた少年らは、彼の様子をうかがいつつも、黙って食事を続ける。ボドワンより先に食事をとったことで、叱られるかもしれない。ならば、それまでになんとしてでも、自分に与えられた分は食べきっておきたい。
皆が、食べること――生きることで必死だった。
「あんた、遅かったじゃないか。いつ戻るかわからなかったから、子供たちに先にご飯を食べさしちまったよ」
「かまやしねえよ」
「城の仕事を断ってきたんだろう? いやに機嫌がよさそうじゃないか。王宮の庭で銅貨でも拾ったのかい?」
ボドワンの妻が、帰宅した夫に尋ねる。そして返事より先に、さらに質問を重ねた。
「ああ、酒臭い。どうせここでもまた飲みなおすんだろう? 無駄な尿をつくる金があれば、雨漏りする窓枠の修理に充ててもらいたいものだよ」
「ああ、五月祭が終われば、修理を頼もう」
夫の返事を頭のなかで咀嚼すると、ボドワンの妻は、信じられぬという顔をした。
「まさか、あんた、宮殿の煙突掃除を引き受けたんじゃないだろうね」
「引き受けたさ」
「まさか、まさか、どうするつもりさ。宮殿の煙突に入れる子は、ジェレミーしか残っていないよ。ひとりじゃ、仕事にならないだろう。ついにあんたもとち狂っちまったか、うちはもう終わりだよ」
嘆く妻に、ボドワンは「うだうだと、うるせえやつだな」と、悪態をつきながら一張羅の上等な服を脱ぎはじめた。
「できない仕事を引き受けて、あんたって人は本当に無責任な男だね」
「できないと決めつけなくてもいいじゃねえか。頼まれたのは王宮のほんの一画の掃除だ」
「できないに決まっているだろう、子供が足りないんだから」
「ひとり、今夜から増やすことにした」
夫の返答に、妻は一瞬ぽかんとしてから、
「そうなのかい?」
と、これまでの責める口調を改め、一段階やわらかな声を出した。
「今回の仕事にもってこいの、小柄で品のあるやつだ。約束したから、今に扉を叩くだろう。一度入ったら、逃げださねえように目を光らせておけ」
「そんなうまい話があるのかね。酔っぱらって、夢でも見たんじゃないのかい」
二人がそんな話しをしているうちに、子供たちは食事を終え、自分たちの寝場所に戻ろうとする。
そこへ、ボドワンは、ひとりの少年の名を呼んだ。
「ジェレミー」
これまでの二人の会話の流れから、自分に声がかかるだろうことを、ジェレミーは予測していた。
「はい、親方」
「おまえは、寝ないでここにいろ。もうすぐ、おまえと明日から宮殿で働くやつが来る」
ジェレミーは、うなずくと見せかけてうつむく。なにも知らずにここで働かされることになる少年のことを、気の毒に思いながら。




