13
久しぶりに訪れた王都サン・オーヴァンは、以前にも増して活気に溢れているような気がした。
サン・オーヴァンを発ったのは半年前だが、街中へ足を踏み入れたのはそれ以前――いつか思い出せないほど前のことである。
なぜなら、ここに住んでいた数年の間、アベルはほとんどベルリオーズ家別邸から出なかったからだ。
外に出たくなかったわけではない。リオネルから、街に近づかぬよう「外出禁止令」に近いものを言い渡されていたからである。
はじめて二人が出会ったとき、アベルはサン・オーヴァンの街中で、病を患った身体に暴行を加えられて瀕死の状態だった。イシャスを産んでから街へ失踪したときは、肉屋の店主に重労働を強いられたあげくに川のなかで再会した。
――危険なことばかりが起こるこの街に、リオネルがアベルを近づけたいはずがなかった。
けれど、アベルはこの街が嫌いではない。
デュノア邸を出てから、まっすぐに目指した場所である。
ただひとつの目的地だった。
華やかで、賑やかで、歓びと哀しみが混在する街。
なにより、ここはリオネルと出会った場所である。
大切なものに出会わせてくれた街だった。
王都のベルリオーズ家別邸にいたころは、リオネルの意向に背いてまで街でなにかやりたいことがあったわけではなかったし、別邸で忙しく過ごしていたので、アベルはおとなしくリオネルの「外出禁止令」に従った。
そんなアベルへのご褒美だったのか、もしくは気分転換にと配慮してくれたのか、それは数えるほどであったが、リオネルは王宮から別邸へ戻ると時折、ベルトランと共に街へ連れていってくれた。
そのときは決まって、アベルの食べたいもの、行きたい場所に連れていってくれる。それだけで、アベルは充分だった。
ここへひとりきりで来るのは、それこそリオネルに命を救われた日以来である。
サン・オーヴァンの街に、アベルがひとりで訪れること。それは、リオネルが最も心配していたことだった。アベル自身も、警戒していないわけではない。
望むと望まざるにかかわらず、二度死にかけたのだ。
二度あることは三度という。
それに加えて、ミーシャの予言だ。
嫌な予感がしないといえば嘘になる。
だが、それがリオネルを守ることへの代償であるなら、安いものだ。
日の高いうちに、アベルはサン・オーヴァンの検問所を通ることができたので、その日の宿を確保してから、早速、当初の計画にとりかかった。
正確には、計画にとりかかるための「手掛かり」を探しにいったというべきだろう。
むろん、ベルリオーズ家別邸には寄らない。
別邸には息子のイシャス、それにエレンやドニがいるが、彼らの顔を見に行けば、必ずリオネルに自分の行動を知られることになるだろう。そうなれば、ベルリオーズ領に送還されるか、別邸の一室に監視付きで押し込められるかの、どちらかだ。
「なぜ回復したばかりのそんな身体で、無理をするんだ。アベルは、もっと自分の身体を大事にするべきだ」
そんなリオネルの声が聞こえてきそうだ。そう思いながら、アベルは苦笑する。
けれど、苦笑のなかに、ほのかにくすぐったいような色が混ざっている。
心配してくれることは、嬉しくないわけではない。
それは確かだ。
心配してくれている気持ちを裏切り、彼を失望させることは、怖い。
それも、確かだ。
けれどすべてを投げうっても、リオネルのために生き、そして死にたい。
リオネルが五月祭に招待されたと知ったときから感じている胸騒ぎ――恐怖にも似た昏い予感――。それが拭いきれぬかぎり、アベルは行動するしかないのだ。
彼を守るためには、まず宮殿に入りこまねばならなかった。
シャルム王宮の警備は、厳重に厳重を重ねたものに違いない。夜中に忍び込もうとして、取り押さえられて牢に入れられたりしては、目も当てられない。
どうにかして、「正式に」宮殿内に立ち入る方法を見つけだす必要がある。そのためにかかる時間を考慮して、アベルはリオネルよりも早く王都へ到着すべく道を急いでいたのだ。
かくして無事に彼らより先にサン・オーヴァンに辿りつくことができたが、しかしいかにして宮殿に入る方法を探せばよいのか。
旅の間中、ずっと考えていたが妙案は浮かばなかった。
自分で考えてもわからないなら、聞いてみるよりほかにない。
まずは、宿屋の女将にさりげなく尋ねた。
「五月祭に、王宮の様子をひとめ見てみたいのです。どうにかして城内に入る方法はないでしょうか?」
「はあ、あんたも五月祭のためにここへ来たのかい」
この季節は、祭りを目当てに訪れる客が多いらしい。女将は、驚いた様子もなく答える。
「宮殿内の様子を見てみたいというお客さんはたくさんいるよ。ただし、だれひとりとして本気で言っちゃいないさ。お客さん、あんたはどこか遠くから旅をしてきたんだろう? このへんじゃまともな人は皆知っているよ。シャルムの王宮に、われわれのような平民が入れるわけない、そんなこと常識さ」
「たとえば、祭りで使われる食材や備品を運び入れる手伝いとか、城内で宴に出すパンや菓子を焼く仕事とか、そういった形でもよいのです」
重ねてアベルが問うと、女将は呆れた顔つきになる。
「あんた、気は確かかい? つまらない好奇心から下手なことすれば、首を斬られるよ。なんでも先王のお血筋であられるベルリオーズ家のご嫡男様をお招きしているとかで、王弟派の騎士たちがぴりぴりしてるということだ。おとなしく、街の祭りで満足しておきよ」
宿屋の女将からは有益な情報が得られなかったので、アベルは街へ出て、酒や食材を扱う店に立ち寄り、さりげなく同じ質問をしてみた。
けれど、首尾はけっしてよくなかった。
「城に酒を届けている店なんて、サン・オーヴァンにはないんじゃねえか? お城には、産地から直接届ける経路があるって聞いたことがあるぜ。それにもしこの街にあっても、それは明かさないだろうよ。酒に毒でも盛られたら、大変なことだからな」
「城でパンを焼く手伝いがしたいだって? パン焼き職人が不足しているかどうか、おれが知るわけないじゃないか。他を当たりな」
「城の五月祭が見たいなんて、贅沢なことを言うもんだね。四十年以上ここで暮らしてきたわたしだって、一度も見たことないよ。そんなことができるなら、他でもないこのわたしに教えてもらいたいもんだ」
アベルは途方に暮れる。
想像した以上に宮殿に入ることは難しそうだ。
ベルリオーズ家に仕える者であることを証明する、家紋入りの身分証を提示すれば、可能かもしれない。けれど、アベルはそれをベルリオーズ邸に置いてきていた。
主人の命に背いて館を出てきたのだ。胸を張って、その身分証を持ち歩くことができる立場にないし、ベルリオーズ家の権威に頼るつもりはなかった。
ちなみに、今アベルが持っている身分証は、ベルリオーズの領民であるということを証明するだけのものである。
己の意地や決意もよいが、なんの取り柄も、なんの伝手もないアベルは、このままでは王宮に入りこめそうもない。これでは、ここへ来た意味がないではないか。
数日のうちに、リオネルも到着してしまうだろう。
そうこう悩んでいるうちに日は暮れ、夕飯の時間になる。
お腹は空いていたので、とりあえず食事をとることにした。
街には、飲食店が数え切れぬほどあった。煮込み料理や、串焼きの専門店から、地方の名物料理を出す店、異国の者が営む料理屋、居酒屋、大衆食堂……。
さて、どこで食べようかと悩みはじめたとき、ふと、旅の途中で出会ったミーシャの言葉が頭に浮かんだ。
――困ったときは、街外れにある酒場に行ってみてください。
彼女は確かにそう言っていた。アベルが夕飯の場所に迷うことを、ミーシャは見こしていたのだろうか……。アベルは首を傾げる。
王宮に入るための手がかりを探しているときに、彼女の助言を思いださなかったのは、両者が結び付かなかったから――というのもひとつの理由ではあるが、自力で解決しようという意志が強くあったせいもあった。
それにしても、「街外れにある酒場」とは、ずいぶん漠然とした表現である。
けれど、とりあえずミーシャの助言通り、繁華街から少し外れてみることにする。彼女の言葉に従えば、なにか特別おいしい料理に出会えるかもしれない、などと呑気なことを考えながら。
サン・オーヴァンの街は広く、木組みの建物は永遠に続くかのように思われる。豊かさや、賑わいはともかく、規模だけでいえば、ベルリオーズ領の中心都市シャサーヌよりもはるかに上をいくだろう。まず、住んでいる人の数が違う。
こうなってくると、「街外れ」の定義が曖昧になってくる。
どこまで行っても人がいる。どこまで行っても、店がある。
「街外れ」とは、どのあたりを指すのか。
宿からかなり遠ざかってしまったと思ったころ、周囲の雰囲気が少しずつ変わってきた。
人も店も変わらず多いが、行き交う人の様相が違ってきたのだ。
整った身なりの紳士や、着飾った貴婦人、騎士、裕福な家の子供、若い女性、そういった人々がいなくなり、代わりに、うす汚れた身なりの労働者――人によっては浮浪者にも近い者が多く見受けられるようになった。
出稼ぎや、日雇いの労働者などが集まる貧民街だろう。
フードを目深にかぶりなおし、アベルは先へ進んだ。
あたりは次第に埃っぽさが増し、路上にはごみや汚物が溢れ、乞食が道の端に座り込んでいる。浮浪児が、ごみのなかから食料をあさっており、酔っぱらった労働者風情の男たちが、右へ左へと道をふらふらしている。
重労働者を終えた者たちが集う街は、貧困と、生きる哀しみの匂いがした。
大通りに面した路上で、アベルはだれかに外套の裾を引っぱられて、足元に視線を落とした。
そこには、赤ん坊を抱えた女がひとり、地面に這いつくばるようにしながら、片手でアベルの外套をつかんでいる。
「子供が死にかけています。どうかお恵みを……」
女は濃い紫色の瞳をしていた。痩せこけた顔のなかで、大きく見開かれたその瞳だけが、生々しいほどの「生命」を感じさせる。
彼女の瞳の色から、アベルは優しい主人を思い出した。
外套を掴んでいた彼女の手を優しくはがすと、アベルはその手に銀貨を一枚握らせる。自らの手にあるものを確認すると、女は手を震わせて銀貨を額にすり合わせた。
「神様……ありがとうございます。ありがとうございます」
アベルはなにも語らなかった。
語ることはない。
いや、語れないのだ。
リオネルに救われなければ、自分もこの女性と同じ場所にいたはずだった。
彼女と自分のあいだに、大きな違いがあったわけではない。それなのに、リオネルの庇護のもと、何不自由ない暮らしをしている自分を――救いをもとめている人にお金を与えることしかできない自分を――アベルは少なからず恥じた。
弱々しく赤ん坊が呼吸を繰りかえす様子に、胸が締め付けられるような気がしながら、アベルはその場を離れた。心のなかで、だれにともなく赦しを請いながら。
次にさしかかった角で、アベルは大通りから脇道に入る。
なにかから逃れたかったのかもしれない。
脇道を入ったそこには、暗い小道に、あたたかい光を落とす一軒の居酒屋があった。
アベルは吸い寄せられるように、店へ入った。
小さな扉を押して、中へ足を踏み入れると、酒や料理の匂いに混じって、汗の匂いや汚れた体臭がする。狭い店内は、大勢の客でごった返し、アベルひとりが座る場所さえないように思われた。
店に漂う匂いも後押しして、思わず踵を返して店を出ようとしたところへ、だれかの声が降りかかる。
「小僧、あっちの席なら空いてるぜ。払える金があるなら、座りな」
声の方を振り返れば、常連客らしい男が、机に足を投げ出して椅子に腰かけている。
汚れた服に、伸び放題の髭。爪は垢で黒ずみ、靴には穴が空いている。
普段はどのような仕事をして、食いぶちをつないでいるのだろう。養う家族はいるのだろうか。余計な疑問が湧きあがる。
空席があると言われてしまえば、あえて店を出るのも気まずい。
気は進まなかったが、アベルは一応、男の親切に対し礼を述べて、再び店の奥へと向かった。
男が教えてくれたのは、店内の中央に据えられた長机の一席である。
アベルがそこへ座ると同時に、隣にいた二人連れの男が席を立ったので、幸いにも横は空席になった。
幸いにも……というのは、男たちが近くにいると、強烈な匂いがするからだ。
匂いにも雰囲気にも慣れず、アベルは食欲さえ減退していくような心地で、とりあえず注文を取りにきた店主に蜂蜜酒を頼む。けれど、返ってきたのは、冷ややかな視線と、嘲るような返答だった。
「そんな洒落たものがうちにあるわけないだろう、お嬢ちゃん」
店主の言葉に、周囲の男たちが笑う。
客は中年の層が多く、アベルほど若い者はいない。実際の年齢は十五のアベルであるが、男装していれば十を超えたばかりにも見えるだろう。そのような少年が、ひとりで酒場にいるのだ。客の男たちは、小馬鹿にした態度であった。
彼らの態度に腹が立たないわけではないが、ここで騒ぎを起こすのも馬鹿馬鹿しい。
「洒落た店だったので、蜂蜜酒があるのかと思いました」
と、軽く嫌味を言うと、今度は店主が意外な反撃にあって目を丸くし、周囲の男たちは笑声を上げた。
「おもしろい小僧だ。店主が一本取られたぞ!」
酔っぱらった男たちは、些細なことでも大騒ぎである。
騒ぎを大きくするまえに、アベルは店内の客の多が飲んでいる麦酒と、どこにでもありそうな料理を二品ほど注文する。周囲の客の関心は、またたくまに見知らぬ少年から遠ざかっていった。
さほど待たされずに料理は出てきたが、けっして美味とは言えなかった。
肉と野菜の煮込みは、なにが入っているのかわからないほど混然としていて不気味だし、パンは塩気がなく、硬い。
「街外れの酒屋」とは、この店のことではなかったのだと、アベルは確信する。
けれど、その確信が大きな間違いであったことに気がつくまで、長い時間はかからなかった。




