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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
184/513

12








 宮殿の一室には、惨状と呼ぶべき光景が広がっていた。


 シャルム王国の第二王子が王宮へ帰還したのは、昨日正午ごろである。彼は父母である国王夫妻や兄ジェルヴェーズに挨拶を済ませ、自室で過ごしていた。

 しかし、無事に到着したはずの彼が、なんと突然、重篤な病にかかったかのような症状に見舞われたのだ。


 第二王子の寝室では、近衛兵のシモンとクリストフが蒼白な顔で主人の世話にあたっている。


 高熱と激しい嘔吐、そして身体の痙攣。

 昨夜からレオンは、自分の力で起きあがることすらできぬ状態にあった。


 彼の右頬は赤く腫れ、夜着の襟や袖から見える首筋や腕には、青痣や切り傷が垣間見える。激しい暴行を加えられた痕だった。

 まともに食べてなどおらず、胃は空のはずだが、レオンは絶えず盥に吐き続けている。

 近衛兵らの顔には、焦りの色が浮かんでいた。


 手を震わせながら、シモンがつぶやく。


「……あの人を赦せません」


 クリストフは唇を噛みしめただけで、なにも答えなかった。怒りの言葉を口にすれば、感情を抑えられそうになかったからである。



 第二王子レオンの異変は、昨日夕方に兄ジェルヴェーズと対面した直後に生じた。

 ジェルヴェーズの私室において行われた帰還の挨拶であったが、シモンとクリストフは入室を許されず扉の外で待たされていた。なにかが壁に叩きつけられるような、激しい物音が聞こえてきたのは、それからすぐのことである。


 主人の安否を確かめるため部屋に入ろうとする二人を、ジェルヴェーズ付きの近衛兵が押し止めた。入室しようとする者と、それを阻止しようとする者のあいだで小競り合いを続けているうちに扉が開く。


 ジェルヴェーズは、気を失うまで手ひどく殴りつけた弟の身体を、面倒くさそうにシモンへ放りつけた。


『レオン殿下……!』


 その姿に驚愕したシモンへ、ジェルヴェーズは言い放つ。


『旅の疲れが出たようだ。部屋で寝かせてやれ。あとで医者を行かせるから、その者に診せろ。医者以外はレオンの部屋に入れるな。おまえらも例外ではない』


 悪魔を見るように睨み上げてくるレオン付きの近衛兵クリストフを、ジェルヴェーズは殴り倒した。


『なんだその目は』


 威圧的な声だった。


『私に逆らえば、どうなるかわかっているのか。家族が大事なら賢明になることだ』


 拳を握りしめ、クリストフは必死に憤りを抑える。

 シモンはうろたえた様子で、レオンの名を呼んでいた。


『殿下、殿下……!』


 そのシモンの背中を、ジェルヴェーズは蹴りつける。


『そいつを連れて、早く失せろ』


 寝室に運ばれてから早々にレオンが目覚めたのは、身体の痛みだけではない、異常なまでの苦痛を覚えたからだろう。

 起きあがったと見る間に、彼の身体は痙攣し、幾度も嘔吐した。


 けれども、ジェルヴェーズに命じられてレオンを診察した医者は、「旅の疲れでしょう」とだけ診断を下し、なんの処置もせずに立ち去った――看護人も一切不要であると言い置いて。


 この状況に、医者以外は部屋に入ってはならないというジェルヴェーズの命に背き、シモンとクリストフは周囲の目を盗んでレオンの世話にあたった。


 なにがあったのかと嘆く近衛兵らに対し、レオンは苦しい呼吸のあいまに「心配いらない」とだけ繰り返す。

 けれど真夜中、熱に浮かされほとんど朦朧とした状態のなか、レオンは一度だけ真実を語った。


 ――兄上に、なにかの薬を飲まされた。

 と。


 見当はついていたものの、シモンとクリストフが激昂したことは言うまでもない。

 ジェルヴェーズは、実の弟であるレオンに容赦ない暴力を加え、さらには身体に不調をきたすような毒薬を無理矢理飲ませたのだ。――人間のすることとは思えなかった。


 近衛兵の二人には、なぜジェルヴェーズがそのような暴挙に出たのかまったく見当がつかなかったが、レオンはよくわかっていた。

 ……リオネルを殺すことができなかったことへの、罰である。

 想像していたよりも、ひどい仕打ちであったが。


「もう我慢なりません。陛下に真実を伝え、医者を呼んで参ります」


 いきりたってシモンが立ちあがる。

 すると、あらゆる痛みに耐えながらレオンは言うのだ。


「だめだ。おまえの行動は監視されている。下手に動けば、おまえは殺される」

「けれど、殿下。このままでは貴方様が死んでしまいます」


 するとレオンは、この言葉を繰り返した。

 ――おれのことは心配いらない、と。


「殿下、私は耐えられません。このようにお苦しみになる姿を、ただ見ていなければならないなど」

「兄上は私を殺しはしない。時間が経てば解決する。悪いが耐えてくれ」


 奥歯を噛みしめるシモン。

 会話を聞いていたクリストフの目には、悔し涙が浮かんでいた。


 かくして、シモンとクリストフは、通常どおりレオンの寝室の警護をしながら、立ち入ろうとする者を追い返し、周囲にだれもいなくなると自分たちは密かに主人の看病をした。


 もしかしたら、ジェルヴェーズは二人が看病していることに気づいているのかもしれない。なぜなら二人の行動をジェルヴェーズが予測できぬはずはなく、また、監視の目は光っていたはずだからだ。

 だが、そのことを咎め立てしなかったのは、やはり弟を「殺す」気にはなれなかったからだろうか。


 シモンとクリストフが悔しさと自らの非力、そして主人を失うのではないかという不安に胸を締めつけられているころ、レオンはなにも考えることができぬほど具合が悪かった。


 殴られたところがあちこち痛み、熱が高く思考は朦朧とし、吐き気は眩暈を起こさせ、痙攣する手足は満足に動かすことすらできない。

 臣下には「心配するな」と答えたが、本当はレオン自身が、本当に自分はこのまま死んでいくのではないかと絶えず考えていた。


 吐くものはなにもないのに、わずかな液体を胃から出すと、束の間の安息が訪れる。

 そんなときに思い浮かぶのは、師匠と友の顔だった。


 ……シュザン、リオネル、ディルク、ベルトラン、マチアス、そしてアベル。


 彼らが皆、自分のそばで談笑し、「レオン、大丈夫だよ」と言ってくれているような気がした。

 すると、たちまち肩から力が抜け、気持ちは安らかになる。


 だが、それも泡沫の夢のようなものである。

 すぐさま再び苦痛に襲われ、なにも考えられなくなる。盥に胃の中身を吐きだしながら、いっそ気を失ってしまったほうがらくなのではないかという気さえした。







「レオン殿下がご病気だと?」


 シュザンは眉を寄せる。

 弟子でもあるレオンの帰還を知り面会を願い出たが、「第二王子は病床にあらせられるため、日を改めるように」と言われたのである。


 その返事を携えてきた正騎士隊に所属する騎士は、次のように説明した。


「旅の疲れが出て、体調を崩されたそうです」

「昨日はそのような話を聞かなかったが」

「昨夜から、とのことです」


 腑に落ちぬ顔で、歩きながらシュザンは腕を組む。

 騎士館の長い回廊には、春の日差しが差し込んでいた。


「医者はついているのか?」


 正騎士隊隊長の質問に、騎士は目を丸くする。


「王子殿下が体調を崩されているというのに、医師がついておらぬなどということがありえるのでしょうか?」


 騎士の疑問は当然のものである。

 本来なら、そのような状況は起こりえない。

 ―――ジェルヴェーズが一枚噛んでいるのでなければ。


 小さく溜息をつきながら、けれど速度を落とさずにシュザンは廊下を歩みつづけた。


 五月祭が間近だ。

 王宮には周辺諸国の王族やシャルム貴族が集い、盛大な祭典となる。

 そこでの最大の催しは、シャルム正騎士隊による弓術の披露だ。ちなみに、王の誕生祭には剣術の披露、建国祭には祝賀行進など、平和な時期であればそれぞれの祭りにおいて、正騎士隊は日頃の練習を披露する機会――言葉を変えれば「義務」が課せられていた。


 けれど、ただ日頃の訓練を披露すればよいというわけではない。観客に見せるための工夫も必要なのだ。

 今は五月祭に向けて、本格的な準備に取り掛かりはじめたところである。


 そのとき、廊下の前方から別の騎士が現れ、シュザンの前で一礼した。


「バザン男爵が、五月祭の件で隊長に目通りを願い出ております」


 シュザンはうなずく。

 祭りは、自らの力をシャルム国王に認めてもらう絶好の機会であるため、正騎士隊の催しへの参加を願い出る諸侯が数多くいるのだ。この時期は、訓練の合間に彼らの対応にも追われることになる。


 さらにこうしているあいだも、シャルムの国境地帯には正騎士隊の一部や辺境部隊が隣国と小競り合いを繰り広げている地域があり、その状況も見守っていなければならない。


 先に話していたほうの騎士へ、


「レオン殿下の容体を、定期的に私に報告してくれ。それと、もし周辺で不可解な動きがあれば、すぐに連絡を」


 とだけ命じ、シュザンは別の騎士へ新たな指示を与えた。

 レオンのことが頭の片隅で気になりつつも、仕事に忙殺され、シュザンは自身の足を宮殿に向ける機会を逸することになった。





+++





 夜になり、ようやくカミーユは疲れた身体を、自室の寝台に横たえることができた。


 日中の仕事や訓練が嫌なわけではない。

 剣の稽古はやりがいがあるし、近衛の仕事も貴重な経験の場だった。


 けれど、この城の「現実」は、田舎で純粋に育てられてきたカミーユにとって、厳しく残酷なものであった。

 辺境の城とは違い、宮殿においては身分や立場の違いがはっきりしており、それは絶対的なものだった。貴族とそうでない者はもちろんのこと、貴族同士においても、出身家の優劣や爵位のあるなしによって、容赦なく立場が決まる。

 下に位置づけられた者は、けっして上の者に逆らってはならない。


 さらに底辺はひどいものである。

 宮殿で働く者のなかでも、侍女や女中、使用人、掃除夫、洗濯夫、料理人……それぞれの職種によって上下関係があり、さらに同一の職種のなかにも立場がある。

 末端においては、家畜以下の扱いを受けている者がいるということも知った。


 ……デュノア邸では、皆どのような仕事に就いていても、互いに優劣をつけることなどなく平和に働いていたのに。


 すべての者の頂点にいるのが、王家であり、そのうちのひとりであるジェルヴェーズの暴虐ぶりはひどいものだ。城の住人が彼から理不尽な仕打ちを受ける現場を、幾度目にしたことだろう。


 そんなとき、カミーユはできるだけ自分を抑えた。

 けれど、黙って見過ごすことには耐えられないものがある。信念に基づき、己の正義のために行動しそうになるたび、ノエルに諭された。


「きみの母上のために、我慢しなさい」

 と。


 ――自分はすでに、姉のシャンティに顔向けできないほど、薄情な人間になってしまったのではないか。

 近頃カミーユは、頻繁にそう思うようになっていた。


 毎晩、自室に戻りトゥーサンに会うたびに、カミーユは自分の悩みを打ち明けた。

 その時間だけが、自分が自分らしく戻れる時間のように感じられた。


 ときに憤慨しながら、ときに哀しみながら、己の葛藤を吐露するカミーユに、トゥーサンは毎晩、根気よくつきあってくれる。

 じっと話を聞き、そして黙ってうなずいてくれる。


 シャンティが生きていたときは、いつもこうして彼の悩みや苦しみを聞いてくれていたのはシャンティだった。トゥーサンなりに、シャンティの代わりにカミーユの痛みを受け止めてやりたいと考えていたのかもしれない。


「そのお気持ちを忘れないでいることが、なにより大切なことではないでしょうか」


 トゥーサンは言った。


「ご自身の立場をわきまえ、ノエル様やフィデール様にご迷惑をかけないよう、さらにはデュノア領にいる伯爵様並びに奥方様を哀しませないよう、カミーユ様は行動なされているのです。だれに恥じることもありませんよ」

「ありがとう、トゥーサン」


 気持ちは少し軽くなる。けれど、疑問は湧きあがる。


「もしさ、もし、姉さんが同じ立場だったらどうしたかな?」


 トゥーサンは即答できなかった。

 わからなかった。

 あのまっすぐな心を持つ少女が、カミーユと同じ立場だったら……。


 なにかを守ろうとすれば、他を失う。

 なにを守るかは、それぞれの選択である。


 シャンティがなにを守り、なにを捨てるか――それは彼女自身さえ、直面してみなければわからないものかもしれない。


 返答に窮してトゥーサンは答えた。


「なぜそのようなことをお気にかけられます? カミーユ様は、カミーユ様ご自身の信じるように、行動なさいませ」

「わかっているよ。けどさ、迷ったときには指標が必要だろう? おれにとっては姉さんが道標みちしるべなんだ」

「そうですか」


 トゥーサンは微笑する。

 手の届かぬ場所にいってしまった姉を求め続けるカミーユの姿は、哀しくも、ほほえましかった。


「では、私も共に考えましょう。シャンティ様なら、どうなさるか」


 嬉しそうに、カミーユは笑った。


「さあ、明日も早いからもうお休みください」

「そうだね」





 ……天空には、春の星座。


 懐かしい姉を思いながら、少年が疲れた心を横たえるころ。

 同じ星座の下、緊張を強いる旅で疲労した四肢を、一夜限りの粗末な寝台に横たえるアベル。


 ――疲れ果てて眠る夜には、辛い夢も見ないですむ。


 それだけは彼女にとって幸いなことだった。タマラの家に泊まった一夜だけは、不思議な夢を見たが……。






 さらに西方、貴族の館の露台――深い紫色の瞳が、様々な想いを秘めて星空を見つめる。


「リオネル、風邪を引くぞ」


 ベルトランの声に、青年は振り向かずに答えた。


「ああ、すぐに入る」


 従兄弟ジェルヴェーズとの対面、はじめて赴く宮殿――それは敵の城でもあり、けれど、祖父や父の生まれた場所でもあり。

 複雑な思いを、そっと星空に預け、


「すぐに帰るから――アベル」


 と、ここにはいない人へつぶやき、リオネルは部屋へ戻る。

 ……どこへ赴こうとも、帰る場所はただひとつだ。





 隣室では、ディルクが就寝前に、短剣を枕の下に差しいれていた。

 命を守る短剣。

 宮殿に向かうということは、敵地に飛び込むことだ。

 一日、一日、その日が近づいている。

 この先、自分は大切なものを守りきれるだろうか。

 いや、守らなければならない。


 静かな覚悟を胸に、ディルクは短剣を隠した枕に頭を乗せる。


「おやすみなさい」


 マチアスの普段と変わらぬ声が、妙に落ち着く。




 ――春の星座は、すべての人のうえに、平等に輝いていた。









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