11
春の香り。
暖かさを帯びた風。
馬車は、光に満ちた田園風景のなかを、乾いた砂音をたてて横切っていく。
時折、陽光を反射してきらりと光る車体が、遠くからでも眩しく美しい。
穏やかな昼時である。
休憩の時間になるころ、優美な馬車は小さな町の外れに停車し、なかから若い貴族らが姿を現す。
これまでは貴族の館でしか休息をとってこなかったが、「息抜きをしたい」という主人らの要望により、この名も知らぬ町で昼食をとることになったのだ。
けれど、騎士たちが大人数で店に入れば、客や店主を驚かせることになる。そのため、彼らは分かれて行動しなければならない。
騎士たちは三、四人ずつに分かれ、領主の子弟らはいつもの面々――リオネル、ディルク、ベルトラン、そしてマチアスという四人組で町の食堂へ向かった。
いつかこんなふうに旅の途中に町の食堂で食事をしたことがあったが、あのときに比べて、ひとり足りない……従騎士のアベルが。
皆が、その違和感にも似た物足りなさを、感じていた。
小さな町だ。
繁華街という繁華街はなく、礼拝堂に続く大通りに面して、料理屋や宿屋、商店が並んでいる。時間帯によっては通りに市が出るのかもしれないが、今は道が広々としている。
店を選んだのはリオネルで、それは通りの入り口あたりにある一軒だった。
こぢんまりした店内に入ると、ディルクは注文するよりも先に、ベルトランに問いかけた。
「昨夜は、よくリオネルと彼女が二人きりなることを許したね、ベルトラン。ジャンヌ嬢の思惑に気づいていたんだろう? おれは、聞かされるまで気づかなかったけど」
カルノー邸を出発してからというもの、ベルトランは常に騎士らと共に馬車の外でリオネルらの警護をしていた。そのため、ディルクは今までベルトランと話をすることができなかったのだ。
「しかたないだろう、リオネルが承諾したからには、あの場でおれが従わないという選択肢はなかった。従うふりをして守るという方法を選ぶしかなかった」
壁に書かれた品書きから視線をディルクに移動させて、ベルトランは答える。
「でも少し状況を甘く見ていたんじゃないのか? あと少しで、リオネルは刺されるところだった」
ベルトランが無言になったのは、痛いところを突かれたからだ。
剣を握ったことのない娘に、リオネルを殺せるはずがないという過信があった。それはリオネルも同様だったかもしれない。
リオネルは、ベルトランの代わりに次のように語った。
「おれも間合いを見計ることができなかった。あんな状況で、いつ相手が刃物を振りかざすかなど予測できなかった」
「経験していないことには、落とし穴があるということか。怖ろしいね」
口端を歪めてディルクは笑う。
「それにしては、ジャンヌ殿のドレスを脱がす手際がよかったけど」
と、余分な一言をつけ足して。
「経験より要領だよ」
友人の揶揄をさらりといなして、リオネルは給仕の娘を呼ぶ。
「はい、お待たせしました」
「とりあえず、葡萄酒を四つ」
注文したのは、マチアスである。給仕の娘が去っていくと、その後ろ姿を見送りながら、ディルクは懐かしむように目を細める。
「あの子がいれば、もうひとつ、蜂蜜酒を頼むんだけどね」
「王都から戻る途中では、大騒ぎだったな」
ラトゥイの田舎町の食堂でアベルが起こした騒ぎを思い出し、ベルトランが苦笑する。
あのときは、給仕の娘にちょっかいを出した男を相手に、小柄なアベルが大乱闘を繰り拡げたのだ。
口元をほころばせながら、マチアスが頷く。
「アベル殿らしい出来事でした」
「見ているこちらは、冷や冷やしたけど」
リオネルは苦い表情だ。
「今頃はラザールと、おとなしく本の整理をしているかな?」
ディルクがつぶやくと、リオネルは否が応でも愛しい人に想いを馳せずにはいられなかった。昼寝でもしていてくれればいいと思う。
遥か遠くに馳せていた思考を引き戻したのは、親友の声だった。
「それでさっきの話だけど、おまえはよくあんなぎりぎりの間合いでジャンヌ嬢の攻撃をかわせたな」
「ああ――なんだか、声が聞こえた気がして、咄嗟に避けたんだ」
意味がわからないという顔で、ディルクはリオネルを見やる。訝る視線を受けて、リオネルはこれ以上説明することをやめた。
「……いや、なんでもない」
けれど、ディルクは思いのほか真剣な様子で尋ねてきた。
「どんな声だ?」
「……『逃げたほうがいい』と叫ぶ声だった」
「へえ、だれの?」
「それは、教えられない」
意味ありげな返答に、ディルクはさらに探るような視線をリオネルに向けるが、リオネルは平然としていた。
「……まあ、おまえの耳に聞こえたんなら、多分本当に聞えたんだろうね」
窓からふわりと心地よい風が店内へ流れ込み、リオネルの髪を揺らす。
「昨日、おれはジャンヌ嬢の陰謀に気がつかなかったけど、ただ単に気づかなかったわけじゃないと思う」
ディルクは真面目な口調で言った。
どういう意味だと、目で問うリオネル。ベルトランとマチアスも、興味を引かれて耳を傾けている。
「はじめて彼女に会ったとき、おまえの後におれが彼女と挨拶しただろう? ジャンヌは顔を赤くしていたし、手も震えていた。それだけなら、殺そうと考えている相手を前に、緊張していたとか、怒りを覚えていたとか説明ができるけど、それに加えて、彼女の手はかなり温かかった。熱かったくらいだ。緊張していただけなら、手は冷たくなるはずだ」
「ジャンヌ殿が、本当にリオネルに惚れていたと?」
ベルトランが尋ねると、ディルクは首を小さく傾げる。
「さあ、そこまで断言はしないけど……。本人でも気がついていないような感情があったのかもしれない、ということだよ」
瞼を伏せただけで、リオネルはなにも語らない。無言のリオネルに代わり、意見を言う者もなかった。
「それはそうと、リオネル。ずっと聞こうと思っていたんだけど、おまえ昨日の夜、どさくさにまぎれて、『自分には愛する人がいる』とティエリー殿に言っただろう。おれは忘れてないぞ。さあ、白状しろ。だれのことだ?」
「あれは、ティエリー殿に納得してもらうための方便だ」
今までは口をつぐんでいたというのに、ディルクの追求に対するリオネルの返答は早かった。
「うまいこと誤魔化すなあ」
「誤魔化すもなにも、真実だ」
「『恋の前では無力で臆病な』リオネル殿は、いらっしゃらないのかい?」
「……おれはそこまで言っていない」
二人の会話を聞いていたマチアスは、己の主人がなにか無礼なことを言いださないかと落ち着かない様子でいたが、ベルトランには、ディルクの追求の仕方がおかしくて笑う余裕があった。
「ベルトランおまえ、にやにやして、なにか知っているんだろう?」
「いや、なにも」
これも即答である。
「ああ、きみたちと親しい友人だと思っていたのは、おれひとりの思い込みだったのか」
おおげさに落胆し、肩を落とすディルクに、ベルトランは困って頭をかき、リオネルはすまなそうな顔になる。
「おれは、ディルクのことをかけがえのない友人だと思っているよ」
「なぐさめはいらない。どうせ、肝心なことはなにも話してくれないんだ。信用されない友人なんて、いないほうがましだ」
「ディルクのことは、だれよりも信用している」
「どうせ口だけだろう?」
わかりやすいほど子供じみた芝居を打つディルクを、マチアスは厳しい眼差しで見やる。けれど、彼の親友はそうではなかった。
「本当にあれは方便だったんだ」
あくまで真摯に対応するリオネル。
すると突然、ディルクはそれまでの芝居じみた態度を一変し、真剣な眼差しでリオネルに向きなおる。
「フェリシエじゃないんだろう?」
「…………」
「おれの知っている人か?」
完全にリオネルが返答に窮したとき、
「いいかげんになさいませ」
マチアスの鋭い一声が、ディルクを制した。
一瞬の沈黙の後、
「お待たせしました!」
絶妙の間合いで給仕の娘が、葡萄酒を運んでくる。
木製の杯が、小気味よい音を立てて、次々と四人の前に置かれていく。
「お食事はお決まりですか?」
空気の読めぬ娘のようだ、四人は黙りこくる。注文する品をまったく決めていなかったからだ。
けれど、
「鮭のキッシュと茸のポタージュを四つずつ、それと、新鮮なチーズはありますか?」
「ございますよ」
「ではそれを適当に」
「かしこまりました」
さっさと注文を済ませてしまったのはマチアスだった。
「すみません、勝手に頼んでしまいましたが、よろしかったでしょうか」
ディルクはおもしろくなさそうな顔をしていたが、リオネルは二度ほど首肯する。
悠長に休憩しているわけにはいかなかった。今夜の目的地へ日が暮れるまでに到着したいし、手短に昼食を済ませて待機しているだろう騎士らを、長らく待たせたくはない。
早々に注文したのは、マチアスの賢明な判断だ。
「ありがとう、マチアス」
リオネルは礼を言った。
ちらと己の従者を見やり、ディルクは小さく息を吐く。
もう少しだったのだ。
あと一押しで、リオネルから真実を引き出せそうだったのに。
「ディルク」
親友に呼ばれて、ディルクは顔を上げる。
「ん?」
「すまない」
「…………」
今度はディルクが困った顔になり、そして、視線をそらして葡萄酒を口に運んだ。
「冗談だよ、さっきの言葉は」
かすかにほほえみ、リオネルは木杯を持ち上げる。
「友情に、乾杯」
ディルクは苦笑しつつ木杯を掲げた。
完全に相手の調子に乗せられことが悔しくもあり、けれど、けっして不愉快ではなかった。
リオネルにはけっして勝てないと思う。
幼いころから変わらず、どこまでも真摯に、そして優しく接してくるリオネル。この人に勝てるわけがないのだ。
素直な言葉を向けられれば、頑なな気持ちなど吹き飛び、なにもかもを許してしまう。
いつだって真剣に話を聞いてくれ、共に喜び、哀しみ、怒り、ときには冷静な視点から気がつかなかったことに気づかせてくれる。
リオネルはディルクにとって、そういう存在だった。
そのリオネルにとり、自分も他に代えがたい存在であればいいとディルクは思う。
「鮭じゃなくて、野菜のキッシュがよかったな」
自分の子供っぽい追及が今更ながらに照れくさくなり、そこまでしたのに途中で邪魔されたことへの小さな仕返しと、そして小さな本音を織り交ぜて、ディルクは従者に八つ当たりした。
「それは申しわけございませんでした」
呆れたような声で謝罪が返ってくる。
「悪いと思っていないだろう、マチアス」
「そうしたら、次回は野菜のキッシュにしよう。これで、明日もどこかの田舎町で昼食をとる口実ができる」
マチアスをかばったのはリオネルだ。
「騎士たちに、『ディルク・アベラールが、野菜のキッシュを食べたいから、町に寄る』と説明するのか?」
「立派な口実じゃないか」
どこまで本気で言っているかわからぬリオネルに、ディルクは顔を引きつらせた。
「優しそうに見えて、あいかわらず底意地の悪いやつだな」
そう言いつつも、ディルクはどこか嬉しそうだった。
料理が運ばれてくる。
四人は、鮭のキッシュをありがたく口に運んだ。




