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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
182/513

10






 

 アベルはどこかぼんやりした気持ちで、朝食を食べていた。


 小さな窓からは、白く靄のかかった木立の風景と、登りはじめた太陽の薄暗い陽光が見える。

 早朝である。


 ベルリオーズ邸を出た日から、アベルは慣れない早起きを続けている。むろん自分の力だけで毎朝起きられるわけはなく、宿屋の小間使いなどに頼んで起こしてもらっていた。


 今朝も、アベルを起こしてくれたのはタマラである。

 だがアベルがぼんやりしていたのは、連日の早起きのせいだけではなかった。


 夢を見たのである。


 いつもの嵐の日の出来事や、溺れる夢などでなかったことは幸いというべきだが、それにしてもおかしな夢だった。……人に語ることが、はばかられるほどに。


 悪夢、といえば悪夢かもしれない。

 あのような夢、見たくもなかったのだから。

 いや、見ること自体、無礼に当たることだ。


 主な登場人物は、アベルの主人であるリオネルだった。

 しかしその状況が普通ではない。

 赤味がかった茶色の髪の、美しい貴婦人とリオネルが、ひとつの寝台に入るという夢だったのだ。


 寝台のうえでリオネルが彼女の服を脱がせ、薄布の下着一枚にしたところで、アベルは咄嗟に恐怖に囚われ、叫んだ。


『リオネル様、お逃げください』

 ――と。


 叫んだ自分の声で、アベルは真夜中に目が覚めた。


「夢だ、夢なのだから、落ち着きなさい」と自分をなだめ、それから時間をかけて再び眠りについたが、朝になった今でも不思議なほど鮮明にその夢を覚えている。


 夢の続きなど見たくもないが、けれど、たかが夢と知りつつ、リオネルに何事もなかったかということだけはひどく気になる。

 ……なぜ自分があのときリオネルの身に危険が迫っていると感じたのか、それはまったくわからないのだが。夢のなかでも「直感」などというものが存在しうるならば、そういった類のものだったのかもしれない。



 朝食は、昨夜の残りものである。

 キャベツのスープのなかに、硬くなったパンの切れ端を入れて煮込んだ「パン粥」。

 質素な食事だが、優しい味がした。


 優しい味がするのは、これを作ったミーシャの気持ちがこもっているからだろうか。

 昨夜、涙を流せたことが彼女の心を少し軽くしたのか、今朝のミーシャは心なしか明るい表情であれこれと仕事をしていた。

 特にアベルに対しては素直な笑顔を向けてくる。

 そのことが、アベルにはくすぐったいような気もしたし、けれど、なんだか無性に嬉しくもある。


 デュノア領から出たことのなかったアベルは、今まで自分と同年代の女友達がいなかった。

 ミーシャの笑顔を見ていると、勝手な幻想かもしれないが友人ができたような気持ちになるのだ。


「わたしも、アベルさんの美しい金色の髪を見てみたかったわ」


 パン粥を食べながら、ミーシャはにこにこしながら話しかけてくる。けれど、女友達がいなかっただけに、このように親しげに話しかけられるとアベルはわずかに戸惑ってしまう。


「シャルムでは珍しいというだけの髪色です。美しくなんてありませんよ」


 もっと打ち解けた雰囲気で話がしたいのに、どこかそっけなく答えてしまう自分に、アベルは困惑した。

 けれどミーシャは、アベルの戸惑いなどまったく気にしていない様子だ。


「アベルさんらしいですね、そういう言い方」


 そう言いながら、ミーシャはふふふと笑う。


「五月祭までここにいらしてくださったら、いっしょにドレスを来て街の祭りに行けたのに、残念です」

「わたしは、ドレスなど着ません」

「どうして?」


 不思議そうにミーシャは首を傾げた。


「とても似合うと思うのに」


 アベルが無言になると、代わりにタマラが口を開いた。


「それは、旅の方が、『生きる』という道を選んだ結果さ。それ以上聞くのはおやめなさい」

「生きる、という道?」


 祖母の説明が理解しきれずにミーシャは聞き返すが、タマラはさらりと無視した。


「さあ、早くあんたは粥を食べておしまい。旅の方を玄関に見送りに行けなくなるよ、この方は先を急がれるのだから」


 ミーシャはアベルを見やる。すると突然、驚いたようにミーシャは瞳を大きく見開いた。

 自分の顔にパンのくずでもついているのかと思い、アベルは頬に手を置くが、なにも付着してなさそうだ。

 ミーシャはまるでアベルの瞳の向こう側になにかが見えているかのように、水色の瞳を凝視していたが、しばらくすると苦しそうに胸を押さえた。


「気分がすぐれないのですか?」


 その様子を心配してアベルが気遣うと、ミーシャはうつむきかぶりを振る。けれど、大丈夫だとは答えずに、無言で再びパン粥を口に運んだ。


 しばらくその様子を見守っていたが、食欲はあるようだしなにも語りそうになかったので、アベルはそれ以上の追及は避けた。


 食事を終えてからアベルは支度にかかり、出立の準備が整うと、「泊めてもらった礼」という名目でいくらかのお金を二人に手渡した。ミーシャは受け取ることを拒否したが、タマラは素直に受け取る。まるで、アベルが頑固で決して引き下がらないことを知っていたかのように。


「見てのとおり、このような生活だ。大変助かるよ」


 タマラは深く頭を下げた。


「おばあさま! こんなお金、受け取れないわ、お返ししましょう」


 言い募るミーシャに、アベルは告げる。


「ミーシャさん、これは一晩泊めていただいたお礼です。もっと違う形でお礼ができたらよかったのですが、このようなことしかできないことを許してください」


 その声に断固とした響きがあったので、ミーシャは思わず言葉を呑んでしまう。それからなにか言いかけたが、すぐにタマラに諭された。


「ほら、ミーシャ。旅の方をこれ以上お引き留めしてはいけないよ」


 小さな声で、ミーシャは銀貨の礼を述べる。けれど本当は、ミーシャが最後に言いかけたことは、お金のことなどではなかった。


 家の外へ出てから、繋いであった馬を引いてアベルがいったん戸口へ戻ると、タマラが言葉を噛みしめるように告げた。


「旅の方、あんたに神の御加護がありますように」


 アベルは再度礼を述べ、


「お二人にも御加護がありますように」


 とほほえみ、馬に跨ろうとしたそのとき、アベルの手をミーシャが掴んだ。

 馬に跨るのをやめ、アベルはミーシャを振り返る。


「どうしましたか?」

「行かないでください……」


 突然向けられたのは、思いがけない言葉だった。

 先程からミーシャがなにか言いたそうな雰囲気を漂わせていたことを、アベルは思い出す。


 ――行かないで。


 これが、彼女が告げようとしていた言葉だったのだろうか。


「なぜです?」


 落ち着いた声音でアベルは尋ねる。


「わかりません」


 アベルにしてみればミーシャの言いたいことが、わからない。水色の瞳をまたたいて相手を見返すと、ミーシャはもどかしげに言葉を続けた。


「……わからないのですが、感じたのです」

「感じた?」


 なにかを伝えようと、ミーシャは必至に説明する。


「とても恐ろしいものを、感じました。このまま旅立たれたら、アベルさんは……遠くない未来に、アベルさんは死んでしまうかもしれません」

「…………」

「どうお伝えすればよいかわかりません。苦痛とか、恐怖とか、哀しみとか……本当になんと言っていいのかわからないのですが、さっきあなたを見たときに、この先よくないことが起こると感じました」


 昨夜、タマラは自分だけではなく、自分の子供たちも特殊な力を持っていたと言っていた。ならば孫娘であるミーシャにも、なにかしらの能力が受け継がれているのかもしれないとアベルは思った。

 ――なんの能力もなく、また今までそういったものを目にしたこともないアベルにとっては、信じられないような、まったく不可思議な世界ではあるが。


 タマラは黙っていた。


「お願いです。行かないでください」


 ミーシャは泣きそうな顔でアベルの手を握りしめ、懇願する。けれどアベルはうなずくわけにはいかない。


「どのような未来が待っていても、わたしは行きます」

「たとえ命を失っても?」


 問いつめるような聞き方だった。

 アベルはほほえむ。


「とっくに失ったはずの命です。大切なものを守るために死ねるなら、本望です」

「……わたしには、あなたが死ぬことをどこかで望んでいるように見えます」


 自分の声が相手に聞き入れられないと悟り、ミーシャは哀しげに言った。


「そんなことはありません。叶うことなら、大切な人のそばで生きていきたいと願っています」


 ミーシャは、淡い色の瞳をまっすぐにアベルに向ける。


「わたしにはアベルさんを止めることはできないのですね」

「…………」

「王都……に向かわれるのですね……?」


 一言も旅の目的など語っていないのに、ミーシャが赴く先を言い当てたので、アベルは少なからず驚いた。

 これが、彼女の持つ「力」というものなのだろうか。


「……困ったときは、街外れにある酒場に行ってみてください。解決の糸口が見つかるかもしれません」


 そう告げたミーシャは、苦い表情をしていた。


「酒場……そうですか。心にとめておきます」


 不思議な心地でアベルは礼を述べた。

 信じないわけではないが、信じ切るにはあまりにも現実離れしている。ミーシャ自身もそうだったのかもしれない。だからこそミーシャは先に「王都に行くのか」と、己の感じとったことを自信なさげにアベルに確認したのかもしれない。


「いろいろありがとうございました。このご恩は忘れません」

「こちらこそ。あんたには本当に助けられたよ」


 互いに再び礼を述べ、それからアベルは今度こそ馬に跨る。


「お元気で」


 アベルは馬の腹を蹴った。



 タマラは手を振ったが、ミーシャは泣きそうな顔で、まだなにか言いたそうにしている。

 けれど結局なにも言えず、雑木林のなかに消えていく後ろ姿にようやく言葉を投げかけたときには、もう相手に聞えているかどうかさえわからなかった。


 肩を落とすミーシャに、タマラは優しい眼差しを向ける。


「その声は聞こえてなくとも、あんたのその気持ちは、充分に伝わっていたはずさ」

「……おばあさま」


 ミーシャがタマラの肩にひたいを寄せると、タマラはそっと孫の背中をさすった。


「大丈夫さ、神様が旅の方を守ってくださる」

「神様なんていないわ」

「おまえには見えたのだろう? あの人の未来が」

「なにも見えなかった……ただ一瞬、強くなにかを感じただけ。自分でも混乱してしまって、なにをアベルさんに伝えたいのかわからなかったわ」


 どこか哀しげにタマラはほほえんだ。


「それが、神様がくださった力さ。必ずあの人の役に立つよ」


 祖母に寄りかかったまま、ミーシャは黙りこむ。

 相手にとって必要なことを伝えたつもりだが、それは逆に、その人の身を危険にさらすことでもあった。

 自分が正しいことをしたのか、ミーシャにはわからなかった。


 最後にアベルに投げかけた言葉が、届いていればいいと切に思う。




『――いつか一緒にお祭りに行きましょう』









+++








 窓の外で馬車が走り去っていく音は、彼女の意識を覚醒させなかった。


 もしくは、よくよく考えてみれば、夢か現かわからない場所でその音を聞いていたかもしれない。けれど手足は重く感じられ、頭の一部はしびれたようで、それがなんの音なのか考えることもできなかった。


 重く感じられる身体を動かすことができるようになったのは、昼近くになってからである。

 目覚めてすぐ、侍女から知らせを受けた兄のティエリーが、部屋を訪れた。



 兄の顔を見ることができず、寝台のなかで顔を背けたジャンヌに、ティエリーは穏やかな声で告げた。


「リオネル様は、今朝、旅立たれた」

「…………」

「おまえの犯した罪を、すべて赦してくださったよ」


 布団のなかで、ジャンヌの身体が震える。


「優しい方だ、私が信じていた以上に」


 ジャンヌはなにも語らない。ただ、息を殺すようにして、身体を横たえていただけだった。


「けれど、私は一生をかけて償うつもりだよ、おまえが犯した罪を」


 窓から差し込む光が、窓際の絨毯に明るい陽だまりを作っている。

 昨夜の出来事が幻だったかのような、穏やかな日であった。


「今まで以上に、あの方に忠義を尽くすつもりだ」


 いつもの自分の部屋。

 けれど、春の日差しに包まれたその空間は、息を呑むほど美しい。


 その美しさにジャンヌは感動し、兄の声さえ遠くに聞えるような感覚に囚われる。

 見えるもののすべてが、ジャンヌの心を震わせる。


 ―――「今日」という日の、美しさ。


 もし、自分が彼の命を奪っていたら、あの優しい瞳をした青年は、二度とこの美しい日を迎えることがなかったのだ。

 そう思うと、ジャンヌは寒気がした。そして、おそらくそのときは、自分も美しいものを美しいと感じられなくなっていただろう。


 ジャンヌは気がつく。

 昨夜、自分は救われたのだということを。


 復讐に囚われ、生きながらにして「ジャンヌ」という人間が死んでいくところを、あの青年は救ってくれたのだ。

 父が死んだときから悪魔に憑かれたような心が、ようやく解放されていく。


 父が守り抜こうとした青年は、綺麗な紫色の瞳をしていた。

 初めて会った瞬間から、あの色に救いを求めていたのかもしれない。


「……リオネル様に、もうお会いできないのでしょうか」


 ジャンヌは、ようやく声を発した。

 小さな声だった。


 勝手なことを言っていることはわかっている。

 ――けれど。

 もう一度会いたいと思った。


「会ってどうするんだ?」


 意外そうなティエリーの声だった。

 しばらく沈黙が続いたのち、ジャンヌの消え入りそうな声が、布団から聞こえる。


「……ごめんなさい――ごめんなさい、ごめんなさい……」


 その声は、激しく震えていた。

 すすり泣く声が、暖かい部屋を湿らせる。


 ティエリーは目を細めて妹を見やる。

 自らの罪に気がついたとき、人はおそらくどうにもならないほどの後悔に苦しむのだ。


「謝罪したいんだね、ジャンヌ」


 幾度もジャンヌはうなずいた。

 妹をなだめるように、ティエリーはそっと頭を撫でてやる。


「その気持ちを忘れなければ、きっとまたいつか会える。そのときは、きちんと謝罪しなさい――もう誰かに復讐しようなんて考えてはいけないよ」


 最後に大きくジャンヌはうなずく。


 安堵したようにティエリーは息を吐き、肩を撫で下ろした。そして双眸を閉ざし、自分たち兄妹を見守ってくれるよう、天国の父に祈った。










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