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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第二部 ~男装の伯爵令嬢は、元婚約者の親友の用心棒になる~
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 しめやかに、雨が降り注ぐ。

 ゆるやかな丘が連なる風景は、細かい雨が重なりあい、紗がかかったように見えた。


 白んだ景色を、長く黒い影が一定の速度で横切っていった。目を凝らして見れば、それが騎兵の隊列であることがわかる。

 足場の悪い泥道であっても、列はまったく乱れることがない。


 その先頭にいるのは、一隊の統率者たち。雨外套のフードから垣間見える横顔は皆まだ年若く、だが端然とした態度の青年らであった。


 小高い丘の麓にさしかかると、ひとりの統率者の指示により、一隊は速度をゆるめ、やがて完全に止まった。

 あたりには林があり、雨を凌ぐことができるような大木が集まっているうえに、丘の入口には中規模の洞窟もある。


 長らく雨のなかを駆けてきた騎士たちは、久方ぶりの休憩に、緊張感と雨外套の紐とをゆるめる。だが、ときおり風が吹くと木の下にいても雨がかかるので、多くの者は雨外套を完全に脱ぎ去ろうとはしなかった。


 時刻は昼過ぎ。

 朝に宿営地を出てから一度も休憩をとっていなかったため、騎士たちは皆、疲労に重ねて空腹でもあった。休憩がこの時間になってしまった最大の理由は、雨が降っているので、休憩に適した場所が見つからなかったためである。


「今日の昼飯はなんだろう」


 体躯のよい騎士が、馬の手綱を傍らの木にくくりつけながら、これから配られる食事に思いを馳せる。


「こんなときに食べるものなど、決まっているだろう。なにかの干し肉となにかの豆の煮込み、なにかの野菜のスープ、あとはパンとなにかの果物だろう」

「その『なにか』っていうところを、想像するのが楽しいのではないか。羊の肉かもしれないし、豚かもしれない。レンズ豆かもしれないし、ひよこ豆かもしれない。アスパラガスのスープと、ポワローのスープでは味がまったく違うだろう? 重要なことだ」


 へえ、と仲間の騎士は適当に返事をする。


「祝勝会で出された馳走は美味だったな。あの地方の料理は、ベルリオーズでは滅多に食べられない」


 ラロシュ邸をあとにしたのは昨日の午後のことだった。つまり、毒が混入された晩の翌日には準備を整え、出発することができたのだ。


 夕方近くに出発しても、この季節は日が長くなってきているので、思いのほか長い距離を移動することができる。

 昨夜はラロシュ領内で野営し、翌日の午前中には新たな領地へと入り、今は小さな所領が続く一帯を進んでいる。もうすぐ、シャレット領だ。


 ちなみにシャレット男爵は、祝勝会の前夜にはすでに自領に向けてラロシュ邸をあとにしていた。もし彼が、これほど早くリオネルらも出立するとわかっていたなら、自領まで行動を共にしていたことだろう。


「リオネル様が、にわかにラロシュを離れるご決断をされた理由はなんだろう。祝勝会までは、なにも聞いていなかったが」

「それは我々が詮索するところではない。リオネル様のことだ、しかるべきお考えがおありなのであろう。我々はそれに従うだけだ」


 洞窟のなかでは火が熾され、食事の準備がはじまっている。

 従騎士や下端の騎士らが、忙しそうに働いていた。



 アベルは調理ではなく、食材の運搬や配膳を担当している。どちらかといえば体力を必要とするこの仕事を任されているのは、ジュストに押しつけられたからだったが、むしろアベルにとってはありがたいことでもあった。料理など作ったことがないからだ。


 調理は、宿営のために必要な知識であるが、教えてくれるはずの先輩従騎士は、あのジュストである。教えてくれるはずもないので、アベルは力仕事に徹した。


 たくさんの野菜が入った木箱は重い。明らかにアベルの細い身体では持ち上げることができぬものもある。大変そうにしている様子を見かねて、若い騎士たちがなんやかやとアベルの手助けをしてくれていた。

 そのうちのひとりであるラザールが、アベルの抱えていた木箱をひょいと奪い取る。


「お気持ちはありがたいのですが、わたしの仕事ですから」


 取り返そうと箱に手を触れようとするアベルに、ラザールは強引に背を向けた。


「おまえは体調が戻ったばかりなんだ、少し休んでいろ――というのは、おれの指示じゃないぞ。ナタル殿から伝えるよう言われたんだ。だからちゃんと従えよ、アベル」


 手が宙に浮いたままのアベルに片目をつむってみせて、ラザールはさっさと調理場へと歩み去っていった。


 とりつくしまもないので、周囲を見渡して、アベルはナタルの姿を探す。

 洞窟の脇の岩に寄りかかっている老雄を見つけ、ラザールが告げたことについて尋ねた。するとナタルは、雨で濡れた口髭をほころばせた。


「あの若造め、そのようなことを言ったのか。だが、まあいい。私の意見も同様だから、私の指示だったということにしておこう」


 困ったようにアベルは眉尻を下げる。


「従騎士のわたしが休み、騎士の皆さまを働かせるわけには――」

「その考えは立派だ。だが、きみが無理をすることなど、だれも望んでいない。山賊討伐で尽力し、そして傷ついたきみのことを、皆が案じているのだ。彼らの気持ちを、受け入れてやりなさい。身体が完全に体力を取り戻したときには、また皆のためにがんばるといい。その日のための、今日の休息だ」


 老練の騎士の言葉は、アベルにとってすんなりと受け入れることができるものだった。


「それにアベル、きみはいつもにまして顔が白い。火のそばであたたまってきなさい」


 素直に彼の指示に従い、アベルは洞窟に入る。だが、働く者の邪魔にならぬよう、火からやや離れた岩陰に腰を下ろした。

 心も身体も休めるのは、幾日かぶりのことである。


 あたたかい炎の熱が、アベルの頬や手を温めていく。

 ……祝勝会の夜から、慌ただしく過ごしてきたが、こうしていると様々なことが思い起こされるのだった。






『ヴィートは大丈夫だ。少し酒に酔っただけだから。それよりも、突然のことなのだが――』


 祝勝会が催された日、深夜に訪れたリオネルから、ヴィートの体調については心配いらないということ、そして早急にラロシュ邸を離れることを告げられた。


 驚くアベルに、リオネルはもうひとつ付け加えた。

 出立のまえに、ヴィートが二人きりで会いたいと言ってきている。彼の願いを、聞き入れてやってはくれないか――と。


『部屋に入るな』のあとは、『二人きりで会いたい』かと、アベルはヴィートの態度の変化を不可解に思う。

 けれど、彼がブラーガと共にラロシュ邸に残るということを知り、アベルは首を縦に振った。しばらく会えないのはアベル自身も寂しかったし、彼の申し出を断る理由もなかった。


 こうしてヴィートと二人で会ったのは、その翌朝の食事後だった。


 朝食前には青一色だった空に、ところどころ滲むように雲が広がりはじめていた。

 調理場の近くの回廊を歩いていたアベルは、庭に続く扉の前で立ちどまる。ここは、普段は使用人や女中らが利用する出入り口だ。

 ここまで案内してくれたリオネルを、アベルは振り返った。


『ヴィートは、花壇の向こうにある四阿あずまやで、きみを待っている』


 淡々と説明するリオネルを、もの問いたげな顔で見つめる。

 けれど返ってきたのは、優しい笑顔だけだった。


『行っておいで、アベル』


 なにも答えてくれそうになかったし、こちらからも尋ねることもできず、アベルはそのまま前へ向きなおり、小さな扉を開けた。


 花の香りが流れこむ。

 春の匂いだ。

 甘い香りに誘われながら庭園を奥へ。そして、四阿が見えてくる。


 ヴィートは簡素な長椅子に浅く腰かけていたが、アベルが声をかけるとすぐに顔を上げて立ちあがった。


『来てくれたのか』

『来ないと思ったのですか?』


 あえてアベルは追求するように尋ねた。

 二人で話したいなら、部屋に来ればよいではないか。なぜリオネルを介すなどという、まわりくどい方法で待ち合わせをし、そのうえ、わざわざ戸外で会う必要があるのだろう。

 昨夜の出来事についてなにも知らされていないアベルは、ヴィートとリオネル双方の行動が理解できなかった。


 ……薬は身体から抜けきっているとはいえ、昨夜は抑えきれぬほどの欲望をアベルに対して抱いたヴィートである。

 だからこそ、アベルと二人きりで話すためには、リオネルの了承を得なければならなかったし、一方、彼の願いを聞き入れたリオネルは、密室で彼らを二人きりにするわけにはいかなかった。

 こうした経緯が、アベルにとって理解しがたい状況を作り出していたのだ。


『いや、来ないとは思っていなかった』


 ヴィートの返事もまた、まわりくどいものだった。

 だれもなにも教えてくれないので、アベルはしかたなさそうに嘆息する。


『昨夜は、あなたの身になにも起こっていなかったと、リオネル様から伺いました』

『そのとおりだ。断じて、なにもなかった』


 元山賊の若者は、『断じて』の個所をやたらと強調した。

 思わず、ぷっとアベルは吹き出してしまう。


『なんで笑うんだ?』

『いえ……』


 ラロシュ邸に来てからというもの身だしなみを整えて貴公子然としているヴィートを見上げて、アベルは笑った。

 彼の内面は、出会ったころと少しも変わらない。


『嘘が下手なんですね』

『嘘!』


 動揺する様子が、隠し事ができぬ彼の素朴な性格を現していた。


『かまいませんよ。あなたとリオネル様が秘密にしておきたいなら、なにも尋ねません。特に身体の具合が悪いわけでもないようですし』

『そ、そうなんだ。体調はなんの問題もない』


 安堵した様子のヴィートに、含み笑いで尋ねる。


『よかったです。それで、今日はどうしたのですか?』

『今日はって? ああ……そうなんだ。いや、その』


 顔をうつむけたヴィートは、歯切れが悪かった。


『……おれが、しばらくここに残ることは聞いたか?』

『知っています。ブラーガが完治するまでは、そばにいるのだと』


 広がりはじめた雲に、太陽の姿が隠されては、再び現れる。

 そのたびに、あたりは暗くなり、また明るくなった。シャルム周辺の地域では、よく見られる空模様だ。

 四阿をすり抜ける風が、冷たさを帯びはじめる。


『寂しくなりますね』

『そう、思ってくれるかい?』

『もちろんです』


 嬉しい返事にヴィートはほのかに頬を染め、それから、ためらいがちに口を開いた。


『実は』


 言い淀み、両手をアベルの肩に添えた。


『情けないことだけど、自分で決めたことなのに、きみと離れることが辛くてしかたがないんだ。だから――だから別れる前に、一曲だけ今ここでおれと踊ってくれないか』

『踊る?』


 アベルは拍子抜けする。

 随分ためらったわりには、驚くほどの願いではない。ヴィートに踊りを教えることについては昨夜、承諾したばかりではないか。


『祝勝会で、きみにいつか踊りを教えてほしいと言ったけど、こんなに別れが早く訪れるとは思っていなかった。昨日は不純な気持ちもあったが、今はそうじゃない。一度だけ、騎士精神をもってきみと踊りたい』

『…………』

『やはり、だめか?』


 瞳を数回またたかせてから黙ったままでいるアベルに、ヴィートは不安げな眼差しを注ぐ。

 すると、さほど時間が経たぬうちにアベルは表情をゆるめた。


『一曲だけなら』


 教えると約束したからには、いずれ彼と踊ることになるのだ。彼の得意な「騎士精神」云々が伴っているか否かで、どのような違いが生じてくるのか、正直なところアベルにはよくわからなかった。


 一方、アベルの落ち着いた様子に比べて、ヴィートの喜びようは並々ならぬものだった。

 大きく口を開けたまま、彼はしばらく声も発せられずにいる。

 ようやく喜びの呪縛から解放されたとき、ヴィートはアベルの手を強く握りしめていた。


『ありがとう! アベル!』


 結婚を承諾してもらったかのような喜びように、アベルは不安になったほどである。


『あの、わたしが承諾したのは、一曲踊るということだけですよ?』

『もちろんだ!』


 元気のよい返事に、アベルはつい笑ってしまう。

 そしてそっと身体をヴィートの胸に預けた。


 ヴィートの心臓が、激しく早鐘を打ったことは言うまでもない。

 踊るためだとわかっていても、惚れた相手が自分に寄り添っていることが、たまらなく嬉しく、また緊張もした。


『そんなに硬くならないでください。力を抜いて、わたしに合わせてください』


 始めますよ、という言葉と共に、ゆっくりと足を踏みだしたアベル。それにつられて、ヴィートの身体もぎこちなく動きはじめる。


 引かれたアベルの右足、追いかけるヴィートの左足。

 少し離れては、また胸のなかに戻ってくるアベルの身体。

 すると、柔らかな旋律がヴィートの耳を打った。


 鈴が鳴るような歌声は、アベルの唇からつむぎだされている。それはヴィートが聞いたこともないほど美しく、そして哀しい歌だった。

 アベルの声と、その曲と歌詞は、不思議なほど調和していた。


 アベルの歌にあわせて、二人は踊った。

 最初はぎこちなかったヴィートの動きも、だんだんとなめらかになっていく。振り付けなどわからなかったが、そのようなことは重要ではなかった。


 アベルの歌と踊りで、どこか遠い世界へ誘われながら、ヴィートは目を閉じた。

 腕のなかの、小さく愛おしい存在に身をまかせながらも、彼女をかき抱き、リオネルのもとから奪い去ってしまいたい衝動にかきたてられる。

「騎士精神をもって」と約束していなければ、実際にそうしていたかもしれない。


 この時間が永遠に続けばいいと、ヴィートは叶わぬ祈りを、生まれてはじめて神に捧げた。


 終わってしまう――アベルが歌い終わってしまう。

 それは、感じたことのないほどの喪失感だった。

 アベルの声。

 胸を打つ旋律。

 切ないことばたち……。





 ……ひなげしがこの丘を埋めつくしたら


 どうか あなた

 わたしを迎えにきてください


 甘い言葉を 花束に添えて

 どうか あなた

 わたしを迎えにきてください


 とても長いこと

 それは 気が遠のくほど 長いこと

 あなたを待ちつづけているのですから


 風に揺れる 紅の火影

 震える胸を焼きつくす 無限の花弁


 深い眠りから

 どうか あなた

 わたしを目覚めさせてください


 覚めない夢なら いっそこのまま

 どうか あなた

 あなたの その手で

 この胸を貫いてください


 わたしを この世界の果てへと

 ひなげしの花も咲かぬ

 夢も 届かぬ

 遥か彼方へと

 どうか あなた

 連れていってください


 そして 夢の終焉

 どうか あなた

 永遠に絶ち切ってください……





 相手に身体を預け、歌を口ずさみながら、アベルは目を細めた。


 心はまっさらだった。

 なにかを考えていたわけではない。

 思い出していたわけでもない。

 けれども、この胸にたしかに存在しているのは、失われた過去と、封じた「幸せ」の残像。


 失ったものすべて――その残像でさえも、歌に乗せて静寂の彼方へ葬り、なにも見ることのできぬ漆黒の闇に姿を変えればいいと、アベルは思った。








「アベル?」


 声をかけられて、アベルは思考の淵から抜け出る。

 花の匂いも、口ずさんだ歌も、ヴィートの姿も、そこにはない。

 その代わりに、リオネルが深い紫色の瞳をひたとこちらへ向けていた。


 彼の瞳が秘める美しさをまえにして、アベルは胸の痛みを覚える。

 けっして姿形だけではない――この人の内面に宿るものが、なににも増して美しいのだ。


「近くにいらっしゃっていたことに気がつかず、すみません。なにかご用でしたか」


 即座に立ち上がろうとしたが、リオネルはそれを手で制した。


「違うんだ。身体が冷えただろうと思って、これ――」


 リオネルが差し出したのは、あたたかい葡萄酒が注がれた木杯だった。


「蜂蜜酒がなくて、すまない。けれど、とても甘くしてある。アベルの好きな味だといいのだけど」


 主人であり、ベルリオーズ家の跡取りともあろう者に飲みものを運ばせるなど、とんでもないことであるが、それは今に始まったことではなかった。

 これまでの経験からしても、遠慮や謝絶をすればリオネルは残念そうな顔をするに決まっている。それは本意ではない。だから、アベルはつべこべ言わずに、些細なことであれば彼の親切を受け入れることにしていた。


「いただいてよろしいのですか?」

「もちろん」

「ありがとうございます、リオネル様」


『とても甘くしてある』という言葉に興味をそそられて、アベルはそっと杯を口に運んだ。

 甘い。

 そして、柑橘類や、シナモンなどの香辛料の味も、ほんのりとした。









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