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そのとき、遠慮がちに扉を叩く音がして、リオネルは顔を上げる。
訪れたのは、医者と女中のエヴァを伴ったベルトランだった。主人のそばを長く離れていたくないベルトランは、リオネルに命じられる所用をこなしつつ、この部屋を頻繁に出入りしていた。
「診察の時間だそうだ」
「わかった」
短く返事をしたリオネルに、ベルトランはつけ足した。
「あと、フェリシエ嬢が到着したそうだ」
「…………」
なぜ彼女がこのようなところに来るのか、リオネルは訝るようにベルトランを見やる。
主人の思いを察したベルトランは、軽く肩をすくめた。
「おれにもわからない。シャルル殿が呼んだのではないそうだから、勝利を祝いに来たのか、もしくはそれにかこつけて、ただおまえに会いにきたのか……。彼女の到着で、諸侯たちは沸いている。近々、祝勝会も兼ねて宴が催されるようだ」
「アベルがこんな状態で、なにが祝勝会だ」
普段は心の奥に秘めておくような言葉も、リオネルはこの若者の前では口にする。
アベルの意識が戻らないのに、なにを祝えというのか。
宴などと言いだしたのは、リオネルの心境を知るラロシュ侯爵やブリアン子爵ではなく、ウスターシュをはじめとした国王派諸侯だろう。
「祝勝会といっても、開催されるのは実際いつになるかわからないし、もしそのときまでにアベルが回復していなければ、おまえは参加しなければいい」
「当然だ」
不機嫌に言い捨ててから、不意に、部屋の隅で広い肩を狭めるようにして立っている医者の存在をみとめ、リオネルは表情を和らげた。
「待たせてすまない。アベルを診てほしい」
医者は深々と頭を下げる。
彼は、ラロシュ邸に常駐する信用のおける医者で、アベルが女性であることを知っている。意識が戻らぬ彼女を、定期的に医者に診せないわけにはいかなかったため、知られてしまうのも、いたしかたのないことだった。
また、アベルの身体を拭き、着替えをさせているのは、ひととき首飾りを預かっていたエヴァである。
アベルが女性であることを聞いたとき、彼女はさほど驚かなかった。むしろ、あれほど美しい男性がいるということのほうが信じられなかったようで、真実を知って納得したようでもあった。
気がつけば、ラロシュ侯爵、ブリアン子爵に加えて、マチアスと医者、エヴァにまで秘密を知られてしまっている。もしそのことを知れば、アベルはどのような反応を示すだろう。戸惑うだろうか、それとも怒るだろうか。――果たして、知られたという事実を伝えることがアベルにとって幸せなことなのだろうか。
……考えなければならないことはたくさんあるが、今はアベルの意識が戻ることだけを願っている。
あとのことは、あとで考えればいい。
アベルが元気になってくれさえすれば、リオネルはいくらでも頑張れる気がした。
だから――。
部屋を出て寝室の扉を閉めたリオネルは、双眸を閉じる。
彼女が瞳を開けた瞬間、青空が見えるその一瞬を思い浮かべると、リオネルの胸は焦げつくように熱くなった。
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ベルトランを伴ってリオネルが向かった先は、到着したというフェリシエのもとではなく、フォール家嫡男セドリックの寝室である。
アベルの命を守ろうとして負傷したセドリックは、一命を取り留め、意識も回復している。彼は未だに意識が戻らぬアベルの身を案じており、あのとき救いきれなかったことを気に病んでいた。
そんなセドリックへの感謝と気遣いの気持ちから、リオネルは自ら定期的に彼を見舞い、同時にアベルの容体を伝えにいっていた。
「あのとき、アベルを――まだ十五歳の従騎士を、囮にしたことが正しかったのかどうか、時々わからなくなるのです」
寝台に横たわったセドリックは、訪れたリオネルにそう語る。
「もしあのままアベルが山賊に殺されていたら、私は生涯、後悔したでしょう。ですが、彼は無事にラロシュへ戻ってきてくれました。私を、後悔の苦しみと葛藤から救ってくれたのです。だからこそ、あの子を守らなければならないと心に決めていたのに、襲撃の夜、力及ばず助けることができませんでした――リオネル殿には、お詫びの言葉もありません」
するとリオネルは、
「あの夜、貴方は『騎士の間』へ駆けつけてくださいました。そして、賊の刃からアベルを救いました。――あの子を救えなかったのは私です。貴方には心から感謝しています」
と、セドリックが謝罪の言葉を述べるたびに、静かにこう答えるのだった。
こうしていつもどおりセドリックを見舞うと、リオネルはまた別の部屋へ向かう。やはり婚約者候補フェリシエのもとではなく、今度は、地上階にある騎士の寝室だった。
そこでは、ひとりの怪我人が養生している。
――ヴィートだ。
彼は、処置が早かったために命を繋ぎとめ、今は意識もはっきりしている。
医者に言わせれば、「驚異的な体力、見たこともないような回復力」であるらしい。
そもそもわずかに急所を外すように短剣は刺さっていたため、致命的な状態にはならなかったというのもある。このことに、ヴィートを失いたくないと願うアベルの気持ちが顕著に現れているかのようだった。
寝室の扉を叩くと、思いのほかしっかりした声が返ってくる。
リオネルが意識のあるヴィートと会話を交わすのは、初めてのことだった。これまでに幾度か訪れたが、彼は眠っていたからだ。
リオネルとベルトランが寝室に入ると、ヴィートは寝台に身体を起こして座っていた。
背後にもたれかからず、自分の力で上半身を支えているその姿は、すぐにでも立って歩けそうなほどしっかりしている。
無言で顔を向けたヴィートは、リオネルが自分のそばに近づいてくる様子を眺めていた。
リオネルが寝台から少し離れた場所で立ち止まると、二人はしばらく視線を交わす。けっして友好的とは言えぬ視線である。
それもそのはずだ。
ヴィートがアベルに刺される直前まで、二人は剣を交えていたのだから。片方は復讐を果たそうと本気でかかり、もう片方は命を奪われる寸前だったのだから。
「気分は、どうだ」
問われたヴィートは、リオネルから視線を外す。
……気分など問われても、答えようがなかった。
体調はどうかと問われれば、状況のわりに悪くはない。だが、生き残った気分は最悪である。
ブラーガもアベルも意識を取り戻さず、二人とも生死の境目を彷徨っているというのに、自分だけ生き残り、いったいこの先なにがあるというのだろう。
「どうして死なせてくれなかったんだ」
ぼそりとヴィートは声を発した。
質問というよりは、責めるような語調である。
「死んでアベルの心を持っていくつもりだったのか?」
冷ややかなリオネルの問いに、ヴィートは沈んだ声音を返した。
「持っていくもなにも、アベルの意識はもう何日も戻っていないんだろう。もしこのままアベルの意識が戻らなかったら、おれは、今度はどうやって死ねばいいんだ」
仲間と共に、他でもないアベルの手にかかって死にたかった。
そう言うヴィートへ、リオネルは迷惑そうに形のよい眉をひそめる。
「おまえはアベルの気持ちがわかっていて、本気でそんなことが言えるのか?」
「…………」
「アベルがおまえを殺すことを望んでいたと思うか」
「…………」
「おまえがおれを殺そうとしたことは赦しても、アベルにあんなことをさせたことは、赦さない」
ヴィートはうなだれた。
「アベルは死なせない。それに、あの子自身の手で、大切な人を殺させたりもしない」
もしあのままヴィートが死んでいたら、アベルはもし意識を回復したとしても、一生心に傷を負って生きていくことになっただろう。
自分を愛し、求婚した男を、その手にかけることになったのだから。
それに、もしかしたらアベルの心の片隅にはヴィートがいるのかもしれない。それならばなおさら、彼女の手で彼を殺させるわけにはいかなかった。
「もし、アベルが死んだら、おれはどうすればいいんだ」
自分より五歳も年上の男が、うち捨てられた子犬のように不安げに声を揺らす様子に、リオネルはやや呆れたような顔をした。
それは、自分が叫びたい台詞である。
アベルが死んだら、どうすればいいのか。
なにを恨み、だれに怒りと哀しみをぶつけ、どこに感情の矛先を向ければよいのか。
そして、この先、どう生きていけばよいのか――。
リオネルにこの男を慰める余裕などないはずだった。
それでもリオネルが次のようにヴィートに問いかけたのは、彼の優しさとしか言いようがない。
「おまえは、アベルにまだ謝ってないんじゃないか? 彼女の心を傷つけたことを、謝ると言っていただろう。このままでいいのか」
リオネルの言葉に、ヴィートは口を引き結び再びうなだれた。
――そのとおりである。
あの夜のことを、謝っていない。
アベルの心を傷つけたままなのである。
「それに、おまえはもうひとつ彼女に謝罪しなければならないことがある」
黙したまま、ヴィートは寝台の布団の一点を見つめている。
「これはおれも彼女に謝らなければならないことだが……アベルに、おまえへ剣を向けさせるような事態を招いてしまった」
――アベルに、あのような残酷なことをさせてしまった。
「彼女の手で死にたかったなどというのは、おまえの身勝手な考えだ。それがどれほど彼女を傷つけるか、冷静になればわかるはずだ」
もっともなことを指摘されて、ヴィートはさらにしおれたように肩を落とした。背が高く、細身だが筋肉質の二十三歳の男が落ち込む姿は、帰る場所を失った狼のようである。
恋敵に対して甘いとは知りつつも、リオネルは、そんなヴィートのことがどこか憎めないのだった。それは、彼と仲良くしていたラザールやダミアン、そしてなんだかんだいってヴィートを守ろうとするベルトランやディルクも同様なのではないだろうか。
「今、おまえがすべきことは、アベルの回復を信じて自分の怪我を治し、彼女の意識が戻ったとき元気な姿を見せてやることだ」
返事をしない若者をまえに、リオネルは言葉を続けた。
「それともうひとつ、おまえにはやることがある」
もうひとつやることがある、そう言われても、ヴィートはなんの反応も示さない。
己がやるべきことなど、見つからない。
ブラーガとアベルが回復するならばなんだってできるが、彼らのために今の自分ができることなど、なにひとつ思い浮かばない。
そんな気落ちしたヴィートの様子を、ベルトランは腕を組んで眺めている。
「山賊を根絶やしにすることはできない」
リオネルは言った。
生き残った山賊たちは五百人以上いる。彼らのうちの三割は負傷者であり、それ以外にも、山で共に暮らしていた女子供が数多くいるのだ。彼らは皆、一時的にラロシュ領の各所に存在する別邸および旧厩舎に収容されている。
彼らの世話に関することを全般的に引き受けてくれているのが、カザドシュ山を降りるときに案内を申し出たエラルドである。
「おまえたち以外にも、個別に行動する少数の集団がいくつもあると聞いた」
「……それがなんだっていうんだ」
「もしブラーガが回復したら、彼やエラルドと共にアンセルミ公国の末裔を束ね、他の賊からこの地を守ってほしい。そのために、仲間だった彼らを説得してくれないか」
そのとき、ようやくリオネルの言葉にヴィートが反応した。
視線こそ上げはしなかったが、彼の表情は一変している。
「なぜおれがそんなことを?」
彼の声には、先程まではなかった緊張感にも似た張りのようなものがある。どこかへ行ってしまっていた心が、このときは、たしかにここにあるかのような響きだった。
「今はどこのだれが暮らしていようと、ここはおまえたちの土地だろう? アンセルミ公国の領主の末裔なら、この地を荒らすのではなく、この地で働きながら、この場所を他の賊から守るべきなのではないか」
「…………」
「それと、アベルを苦しませた罪滅ぼしだ。おまえがアベルに背負わせようとした十字架の重さに比べれば、おまえが背負う役割など軽いものだろう」
夕暮れ時だというのに、窓の外に朱色の空は見えない。
厚い雲は、日差しを完全に遮り、重さと暗さだけを地上に落としている。
曇った上空には、まるで朝も昼も夕暮れもなく、ただ夜の闇とそれ以外という世界があるだけのようだった。
けれど、朝も昼も夕暮れもたしかに存在する。目に見えないだけで。青空は、雲の後ろに隠れている。その存在を信じられるかどうかは、自分次第なのである。
ヴィートは表情を隠すように、うなだれていた頭をさらに下げた。
「――あんたにはかなわないな」
リオネルとベルトランの目に彼の顔こそ見えなかったが、ヴィートの声はたしかに笑っていた。
「いろんな意味で、あんたはすごいよ――完敗だ」
騎士であろうとしたヴィートへ、愛する貴婦人を守ること以外に、成すべきことをリオネルは示したのである。
山賊をやめてまっとうに暮らしたいと思っていたヴィートにとって、畑を耕して暮らすというだけではなく、かつて己の先祖が守ってきた地を、自分の手で守る機会を与えられたことは願ってもみなかったことだった。
それと共に、リオネルの言葉、行動の全ての背後に、アベルへの愛を感じざるをえない。
あらゆる意味で、ヴィートはこの青年には勝てないと思った。
どんなに雨が降っていようと、リオネルは不安や哀しみにだけ埋没せず、晴れ間がのぞく瞬間を信じられるのだ。意識が戻らぬアベルのことも、これからどこへ行きなにをすればよいかわからぬ山賊らのことも、どこかに道があると信じて、自分の力でできうるかぎりのことをやっている。
ただ落ちこんでいるだけだった自分よりも、よほど立派だった。
ヴィートは顔を上げる。
それは、清々しいほどの表情だった。
「アベルのことは諦めないが、負けは認めるよ。あんたの言うとおり、この地を守ってみせる――ただし、アベルとブラーガが回復したら、という条件つきだ」
そうは言ったものの、たとえ二人になにかがあろうとも、ヴィートがこれから死を望むことはないのではないかと、リオネルとベルトランは思った。
アベルもそうだったが、人はどれほど落ちこみ、哀しみ、苦しんでいても、なにか己にしかできぬ役割といったものがあれば、そのために生きてみようと思うものだ。
二年前、アベルはリオネルを守るという使命を自らに課し、そして、ようやく生きる道を開いた。
ヴィートもまた、守るべきものを――彼らしく生きる道を見出したのである。
相手の返事に安心したリオネルは、わずかに表情をゆるめた。
アベルの容体に明るい兆しが見えたわけではないが、これでひとつ、物事が良い方向へ進みそうである。そのことが、暗い気持ちにほんの少し光を射した。
毅然としているようにみえて、リオネルもまた自分の力でなにかを前進させなければ、とてもこの精神的緊張に耐えられそうになかったのだ。
――アベルの意識が戻るかどうかわからぬという、重すぎる緊張状態に。
そのとき、扉が鳴って三人は背後を振り返った。
「どうぞ」
ヴィートが軽く返答したのは、来訪者は当然、同室を利用しているラザールかダミアンだと思ったからである。
だが、扉が空いた瞬間、突如漂ってきたのは薔薇の香りだった。
けっして男くさいラザールやダミアンがまとう匂いではない。
嗅ぎなれぬ香りにわずかに眉をひそめたのはヴィートで、内心では激しく眉を寄せたが、その感情を顔には出さなかったのはリオネルだった。




