15
翌日、王宮を見上げるサン・オーヴァンの街の片隅に、一人の少女がいた。
雪が舞っている。
生まれて初めて訪れた王都は、それは見たこともないほどに、華やかで、賑やかだった。
優美な衣装をまとった男女が腕を組んで歩き、豪奢な馬車が通り過ぎ、王都の憲兵が颯爽と街中を巡回する。
商店の木組みの建物は、マイエやコカールの街のものより高さがあり、立派だ。そこを大勢の人が出入りし、パン、肉や野菜、布、小道具などの生活用品から、宝飾品や家具などの高級品までさまざまな買い物をしている。
あちこちの食堂からは、暖かい料理の良い香りと、笑い声がこぼれてきた。
アベルは、閉まっている店の軒先で、膝を抱えてうずくまっていた。
そして、賑やかな街の光景を、行き買う人々を、ただぼんやり見ている。
体中の痛みも、寒さも、そして悲しみさえもが感覚を失い、透きとおった水色の瞳は、ただ、目の前にあるものだけを映していた。
あらゆる痛みは、限界を越えれば感じなくなる。
景色は次第に暗くなり、サン・オーヴァンの街には夜が訪れた。
地方の街とは違い、王都は夜も活気にあふれている。
雪は止む気配がない。
街灯の火に照らされ、きらきらと輝き、舞い落ちる。
無限に空から落ちてくるように思えた。
家々や商店の窓から、暖炉の光がこぼれて、雪の上を朱色に照らし出す。
家路を急ぐのか、駆け足で少年が過ぎ去っていく。酒を飲んで大声で歌う男たちも目の前を通り過ぎた。熟年の夫人が二人、楽しそうに立ち話をしている。
アベルは、コカールの安宿にいたときのように、たった一人、彼らとは違う世界にいるような気がした。ここには、アベルを外界と隔てる薄い壁一枚さえないのに。
あのときは、サミュエルが、アベルとこの世界を繋いでくれた。
けれど今はもう、アベルとこの世界をつなぐものはなにもない。
「カミーユ、エマ、トゥーサン……」
アベルはつぶやいた。
デュノア邸のみんなは、今頃どうしているだろうか、と思った。そんなことを思ったのは、とても久しぶりだ。コカールにいたころ以来かもしれない。それほどまでに、長い間、あらゆる感情を意識しないでいた。
今、ここで、懐かしい感情がよみがえったのは、アベルが「死」を意識したからかもしれない。ひとたび自らの感情に気づいてしまうのは、ひどく恐ろしいことだ。
ここですべての感情や感覚を取り戻したら、アベルは正気ではいられない。
だから、アベルは、抱えた膝に顔をうずめて、再び感情を押し殺した。
このとき、アベルを現実の世界に呼び戻したのは、中年の女の声。
「あんた、朝からここにいるようだけど、邪魔だよ! 店を開ける時間だからどきな!」
アベルが座り込んでいたのは娼館のまえだったようだ。女が店の窓を開ければ、煌びやかな色合いが、部屋の奥からのぞく。
「ほら、もう常連さんが来たよ。さっさとどきな!」
女に足先で小突かれて、アベルは自分を支えることもできずに、雪のなかに倒れこむ。
アベルの頬に、冷たい雪の感触が伝わった。
雪を踏みしめる音がして、視界に質のよさそうな靴が映りこむ。
「なんだ、こいつは」
男の威圧的な声がアベルの耳に降ってきた。
「ああ、邪魔だったから、今、ちょっとつっついたら、倒れちゃったんですよ。すいませんね。……さあ、あんたは早く立つんだよ。旦那様が入れないじゃないか」
中年の女が、雪に突っ伏したアベルに言う。
アベルは、感覚をなくした腕に力を入れて、上体を上げようとしたが、うまく動かせなかった。
「早くおし!」
女が怒鳴るのと、目の前の靴の男が、アベルの襟首をつかみあげるのが同時。
「おれが通る道を塞いで動かないとは、いい根性だ。たたきなおしてやろうか?」
アベルは半分ほどしか開かない目で、ぼんやりと男を見返す。
三十代ほどと思わしき、身なりの良い男だ。貴族らしきその男の目は、アベルの顔をまじまじと見てから、つかんだ襟元からのぞく白い首筋と鎖骨へ視線を移した。
「薄汚いガキだが、よく見ると綺麗な顔だな」
アベルには、男がなにを言っているのか分からない。
けれど次の一言にアベルの意識はわずかに覚醒する。
「本当に男か、この場で確かめてやる。なんなら、この店で働かせてやってもいいぞ」
アベルの襟元に男の手が伸びたとき、アベルは身体が反射的に動くのを感じた。
こんなに動けるほどの力が、自分のどこに残っていたのか分からない。
腰にあったナイフを探し当てると、男に向かってふり払った。
男が悲鳴をあげて、アベルの身体を地面に放り出す。男の頬と、顔をとっさにかばおうとして出した右手から、血が滴り、雪の上に赤い染みをつくる。
それを見た周囲の者から悲鳴が上がった。中年の女も、「ひゃっ」と声をあげて飛び退く。
「こ……このガキ! なにをするんだ!」
男は大声を張り上げた。
「憲兵を呼べ! こいつを牢にぶちこめ!」
この騒ぎに人だかりができる。
投げ出されて地面に伏しているアベルに、男はつかみかかった。頬を何度か張られたあと、アベルは雪のうえに抑え込まれ足で蹴られる。
アベルはとっさに、身体を丸めて衝撃に耐えた。
けれどもう痛みなど感じてはいない。
ただ、思っていた。
――ああ、神様、もしあなたが本当にいるのなら。
――神様、もう、わたしをこの苦しみから解放してください。
意識は、次第に薄れていった。
野次馬は数多いても、その男を止める者は一人としていない。人々はなにかを恐れるように、ただ彼の様子を見守っていた。
再びアベルはつかみ上げられる。
そのとき。
ざわめきが一瞬にして静まり返った。
「なにをしている?」
穏やかだがよく通る若者の声が、冬の凍った空気を震わせる。
一人の青年が人垣から現れ、ぼろぼろになった少年と、貴族の男のあいだに立った。
そこにいた全員が、その姿に釘づけになる。
この男に刃向かうなど、命が惜しくもないも同然のこと。
けれど青年は臆することなく、深い紫色の瞳をひたと男に向けている。瞳には、静かな怒りの色がたたえられていた。
その雰囲気に気圧され、寸時に言葉をだせずにいる貴族の男を、青年は牽制するようにひたと見据える。それから青年はゆっくりと振り返って地面に膝をつくと、雪の上に倒れている少年に手を伸ばした。
大丈夫か、と問いかけようとして、青年はその姿に息を呑む。
痩せた青白い顔。半分だけ開いた、焦点の合わない双眸。
まぶたの間からかすかに見えるその瞳は、涙の泉のような、透明な水色だった。
生気の感じられない少年の姿は、まるで蝋人形のように、青年の目には映る。
「どけ、坊主。そいつはおれが半殺しにしてから、憲兵に引き渡してやる」
ようやく言葉を発した男を、青年は振り返る。
「もう十分に暴力は振るったんじゃないのか」
その声には、ぞっとするような冷たい響きがあった。
男は一瞬ひるんだが、その感情をたちまち怒りに変える。
「先に斬りつけてきたのは、こいつだ。邪魔をするなら、おまえも同じ目に遭わせてやる」
男が、勢いをつけて青年に掴みかかろうとしたとき。
「――――!」
男の腕は背後から掴まれ、その大きな身体は雪の上にねじ伏せられた。
驚きと痛みで声を出せないまま、男が相手を見上げると、長身で赤毛の男が、虫を殺すかのような涼しい表情で男を見下ろしている。
「だれに手を出そうとしているか分かっているのか、フェリペ殿」
周囲の者たちは呆気にとられて、その様子を見ていた。
「だ……だれだ、おまえは!」
男は、赤毛の男を睨み上げる。
「だれだか知らないが、おれの名を知っていながら、非礼を働くからには、覚悟はできているのだろうな……!」
「おまえは、王宮の正騎士隊副隊長シオメン殿の…………孫だったな?」
「孫ではなく甥だ! 叔父上はそんな年ではない!」
「なんでもいい」
長身の男はそう言って、フェリペをつかんでいた手を離した。すると、その身体は雪の上に無様に落ちた。
「リオネル、ようやく見つけたと思ったら、こんな騒ぎに巻き込まれているとは。行こう。面倒事はこりごりだ」
リオネルに顔を向けて言ったベルトランは、視線を相手の腕のなかへと移す。
「……そいつを連れていくのか?」
「ベルトラン」
紫色の瞳の青年、リオネルは、少年を腕に抱き抱えていた。
「このままだと死んでしまうかもしれない」
「…………」
ベルトランは、少し眉を寄せて、ぼろぼろの少年を眺める。その目はすでに閉じられていた。
「おい、勝手なことをするな! そいつをよこせ」
二人が振り返ると、フェリペはすでに鞘から長剣を抜きはらっていた。
「……さもないと、斬るぞ」
「権力と武器に物言わせて威張っているやつは嫌いだ」
ベルトランも、剣の柄に手をかける。けれどリオネルはそれを手で制した。
「リオネル?」
彼が、やおら抱いていた少年の身体を預けてきたので、ベルトランは驚いてそれを受けとめた。
リオネルは、剣を構えるフェリペの目前までゆっくりと歩む。
剣も抜かずに近づいてくる青年に、フェリペはたじろぎつつ言った。
「な……なんだ? 抜刀しなければ、戦わずに許してもらえるとでも思っているのか? 甘いな!」
フェリペが長剣を振り上げたとき、ベルトランは舌打ちして、少年を左手で抱えたまま、右手で剣の柄をにぎった。
けれどベルトランがその剣を抜く前に、勝敗は決していた。
リオネルは、振りおろされた剣を瞬時に避け、フェリペの剣を握る腕を左手で掴む。
「なに……っ」
リオネルの動きを目で追うことができず、呆然としていると、リオネルの拳がその顔に叩きつけられた。フェリペの身体はよろめき、後方に倒れる。
「あれほど弱った少年が、理由もなくおまえなどに刃向かうものか」
リオネルは静かに言った。
「おまえが斬りつけられたのは、その少年では力で対抗できなかったからだろう。抵抗できない相手に暴力をふるうことができても、丸腰の相手にも勝てないようなら、シメオン殿もさぞかし悲しむだろうね」
フェリペは怒りに身を震わせた。
そして、立ち上がり、再び剣を構えてリオネルに襲いかかろうとしたとき、ベルトランが、腕に少年を抱えたまま、相手の腹に足蹴りをくらわす。
フェリペは雪の上に膝をつき、うめいた。
「行くぞ、リオネル。この子を助けるつもりなら、早くしないと危ないかもしれない」
リオネルはうなずき、少年を抱いたベルトランを従えて、人ごみの中へ消えていく。
雪の上に残されたフェリペは、怒りと屈辱に手を震わせていた。
「リオネル……ベルトランだと? 覚えておれ……」
「どけどけ、なにごととだ! フェリペ様! どうなさいましたッ!」
そこに、憲兵が駆け付けてきた。雪のうえで拳を握るフェリペを見て慌てる彼らに、フェリペは怒鳴り散らす。
「もう遅いわ! 役立たず!」
その日耳にした二つの名が、ベルリオーズ家に関わる者たちのものであると知ったのは、フェリペが屋敷に戻って数日後のことだ。