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彼が言う「父親」とは、アベル自身の父親ではないことなど、リオネルにもすぐにわかる。
……ヴィートが知りたいのは、アベルが産んだ「子供」の父親のことだろう。
「彼女から、イシャスのことを聞いたのか」
リオネルの問いかけに、苦い声音が答える。
「ああ、聞いた。――アベルの相手がだれなのか、知りたい」
「…………」
「おまえか、リオネル」
互いの表情をはっきり見ることはできないが、闇のなかの空気がわずかに張りつめる。
それは、ヴィートがリオネルに向けた視線の鋭さと、それに呼応するようにベルトランがまとう空気が緊迫したためだ。
だが、それは即座に返された答えによって、多少揺らぎを見せる。
「違う、おれじゃない」
はっきりと否定されて、ヴィートはたたみかけた。
「じゃあいったいだれなんだ」
「おれも知らない」
「知らない? まさか、あの子の主人であるおまえが知らないはずないだろう」
ヴィートの語調は、訝るようでもあり、憤っているようでもあった。
それに対して返答するリオネルの声は、少なくとも表面上は冷静である。
「おれたちがアベルに出会ったのは、彼女が十三歳のときだ。そのときにはすでに、お腹に子供がいた」
「…………」
出会ったときから少年の姿をしていたアベル。
王都サン・オーヴァンで救った瀕死の少年は、実は少女であり、腹の中には命を宿していた。その数ヶ月後、病気と衰弱から回復し、長時間に及ぶ陣痛という難産の末に男子を出産したが、その直後に失踪してしまった。どうにかして彼女を探し出し、紆余曲折を経て、アベルはリオネルに忠誠を誓うようになった。
リオネルは、アベルとの出会いから現在に至るまでの経緯、そして、息子のイシャスのことをヴィートに語った。
すべて聞き終わったヴィートは押し黙っている。
暗闇が、いかなる感情をも、その沈黙のなかに包み隠していた。
「父親がだれかつきとめて、どうするつもりだ」
リオネルの問いかけに対して、小さく首を横に振る動作が、闇の中から伝わる。
「……あんたは、子供がいることを――あの子が他のやつに抱かれたことを承知で、惚れたのか」
「そうだ」
返ってきたのは、きっぱりとした返答だった。
「逆に聞くが、そのことになんの意味がある? アベルがどんな過去を背負い、どんな状況にあっても、おれの気持ちは変わらない。――彼女はこの世でただひとりの愛しい女性だ」
ヴィートは沈黙した。
沈黙は長いこと続いた。
それは、闇のなかで、時間の経過を麻痺させるようだった。
続いた沈黙の末に、しかし突然ふっとヴィートは笑う。
「その……とおりだ」
つぶやきは、聞き漏らしそうなほど小さい。
けれどもう一度、今度は力を込めた声で「そのとおりだ」、とヴィートは繰り返した。
その言葉の意味に込められたヴィートの真意を測りかね、リオネルとベルトランは闇の向こう側にいる相手を見守る。
「あんたの言うとおりだ……我に返ったよ」
気がつけば、彼の声は力強さを取り戻していた。
「おれは、はじめてアベルを見たとき、心が洗われるような気がした。なにか神聖なものまで感じたんだ。だから――」
――だから、アベルから子供がいると聞いたとき、受け入れられなかった。
己にとって、果てしなく神聖であり、聖域に近いようなものが、何者かによってすでに踏み荒らされていたような気がした。
相手の男を知りたいと思ったのは、嫉妬というよりも、その事実への憎悪であったかもしれない。だが……。
「あんたのおかげで我に返ったよ。礼を言う。おれも同じ気持ちだ。子供の父親がだれだろうが、そんなことは関係ない――おれは、あの子が好きなんだ。子供のことだって愛せるはずだ」
なにやら自信を取り戻した様子で、恋敵である自分に対しこのような宣言をしてくるヴィートに、リオネルは苦笑し、ベルトランは呆れた。
だが、一瞬でも心に迷いを抱いたことを、ヴィートは後悔していた。少なくとも、それはアベルに伝わったに違いないからだ。
愛していると言ったにも関わらず、既に子どもがいるということだけで、彼女を今までとは違った目で見た。そのことがアベルの心を傷つけであろうことは、自分でもよくわかっている。
傷つけたことを謝りたいと思っていたが、先程まではどうしても「騎士の間」の扉を開けることができなかった。再び傷つけてしまいそうな気がしたから。
けれど今は違う。
迷いのない言葉と笑顔を、彼女へ向けられるだろう。
「おれは、館に戻るぞ」
己の用事が済んだらさっさと引き返してアベルに会いに行こうとするヴィートを、リオネルが呼びとめる。
「おれも話があると言ったはずだが」
「手短にしてくれ。早くアベルに会いに行きたい」
さすがにリオネルも、彼のその台詞には呆れずにはおれない。
さきほどから彼女の様子が気になってしかたがないのを我慢して、ヴィートの話につきあっていたのだ。「アベルに会いに行きたい」とはリオネルの台詞である。
「わかった。では単刀直入に聞くが、山賊の首長を知っているか」
思いもかけぬことを問われたのか、ヴィートの表情に影が差す。
「そいつがどうした」
「今回、戦った相手のなかに、首長らしき人物はいなかった。だが、捕らえた者はだれもその人物について語らない。……おれは、山賊の首長と会って話がしたい」
「なにを話すんだ」
元山賊の若者が示したのは、触れられたくないものに触れられるような反応だった。それでもリオネルは語調を変えることなく言葉を続ける。
「できれば和解したい」
「今更? これだけ互いに死者と負傷者を出して、和解なんてできると思うのか」
「それはきみの意見か? それとも、首長である人物が考えそうなことか」
降り落ちた沈黙のうちに、ヴィートはだれの顔を思い出し、なにを考えたのか。
「おれ個人の意見としては、あんたの意見は嫌いじゃない。むしろ賛成するけど――」
「首長を知っているのだな」
「……ああ、だが」
「わかっている。そのまえに、片付けなければならない問題が生じたようだ」
その台詞が終わるより早く、リオネルは長剣を鞘走らせた。
ベルトランも剣を構えると同時に、己の短剣をヴィートへ放る。山賊であった者に武器を携帯させるわけにはいかず、ヴィートは今までずっと丸腰だったからだ。
「おっと、いいのか、おれに剣を持たせて」
短剣を受けとりながら、ヴィートがベルトランに皮肉っぽく問う。
「おまえは自分自身を守ればいい。それで敵の数がひとりでも減れば、こちらも助かる」
三人の周りを、殺気が囲っている。
静寂のなかに無数の息遣いが潜んでいるが、暗闇にまぎれて相手の数はわからない。
けれど、山賊ではないことは明らかだ。なぜなら、その殺気のすべてが、ヴィートでもベルトランでもなく、ただひとり、リオネルに集中しているからだ。
――相手は、リオネルの命を狙う刺客である可能性が、かぎりなく高い。
「あんたも苦労するな」
かけられたヴィートの同情の声に、もはやリオネルは返答しなかったし、ヴィートもそれ以上の言葉を口にすることはなかった。
突如、三人の上に矢の雨が降りそそいだからである。
+
この暗闇のなかである。相手も狙いを定めることは難しいだろうが、矢を断ち切らねばならぬほうも極めて厳しい。
夜目のきくヴィートと、卓越した戦士であるリオネルとベルトランであったからこそ、この状況に対応できたというべきであろう。
背後から矢を受けぬよう、三人は背を向けあっている。
水のなかに沈んだ硝子の破片を探すように、すべての神経を集中させ、闇の中で反射するわずかな光と、一瞬の気配を探りとって矢を斬り落としていく。
矢による攻撃は止む気配を見せない。いったい幾人の刺客が潜んでおり、どれほどの武器を用意してきたのか。それだけでも襲撃の周到性がうかがえる。
おそらく、ずっとリオネルを狙う機会を見計らっていたのだ。
周囲にディルクやレオンなど仲間がおらず、人目につかず、かつ、山賊討伐がおおむね片付いたであろうこの頃合いを狙ったに違いない。姑息であることはわかっていたが、これほどまでくると、感嘆のため息さえ漏れ出るというものだ。
しかし彼らがそうしているあいだにも、ラロシュ邸においては異変が起きはじめていた。
矢の雨がいったんやんだとき、彼らが聞いたのは、館から上がる叫び声だった。
「山賊だ! 山賊が攻撃してきたぞ!」
地下牢のあるあたりから火の手があがる。
その瞬間、リオネルの心を支配したのは館にいるアベルのことだった。反射的に館のほうへ身体を向けたところを、ベルトランに腕を掴まれる。
「よそ見をするな! 隙を見せれば最後だ!」
三人に襲いかかってきたのは、今度こそ抜き身の剣だった。
激しい金属音が鳴り響き、暗闇のなかに火花が散る。
――こんなときに。
――こんなときに。
心の底から、リオネルは、自分の置かれた状況を呪った。
アベルは片足が使えない。
そして、今、彼女がいるのは、重傷を負った騎士と、剣を握らぬ医者と、幾人かの看護人がいる部屋。
だれが、アベルと彼らを守るというのだ。
十八歳の青年が振るう剣が、いくつもの血しぶきを吹きあがらせて、あたりには生温かい霧雨が降り注ぐ。ヴィートの剣さばきも、ベルトランの反撃も激しいものだったが、リオネルの剣技はすさまじいほどだった。
かたや、ヴィートのなかでは動揺が生じていた。
自分のかつての仲間が攻撃してきたのだとすれば、スーラ山やラナール山の者はすでに壊滅的な状況であるから、ここに来たのはカザドシュ山の者ということになる。
――ブラーガ。
心のなかで、その名をつぶやく。
自分は、アベルを助けるために崖から落ち、下山し、そのまま山賊から足を洗ってしまった。ブラーガにはなにも告げずに。
この館に来てから、彼やエラルドのことを思い出さなかったわけではない。
むしろ、貴族たちがスーラ山とラナール山の仲間に勝利した日から、彼らの存在を幾度も思い出すようになった。
幼いころの記憶。
最後に会ったときの顔。
ブラーガがここへ来たのだとすれば、その目的は仲間の救出か、あるいは――。
敵の剣先が、ヴィートの頬をかする。
集中しろと、己に言い聞かせる。
不安が胸によぎる。
館のなかでも、館のそとでも、剣と剣がぶつかり合う音と、悲鳴、様々な思いが交錯していた。
+
ただならぬ気配を察知して、ディルクとマチアスが目を覚ましたのは、漆黒の闇のなかだった。
そのときまだ館内は静かだった。
だが、浅い眠りのなかで、たしかにだれかの悲鳴を聞いた気がする。
ディルクは上着を羽織り、枕の下に隠してあった短剣と、寝台にたてかけてあった長剣とを手に取った。マチアスはベルトランと同様に日中と変わらぬ服装で休んでいたため、そのまま剣を携える。
館内は未だ寝静まっているが、二人は戦士としての勘から、なにかが起こったに違いないことを確信していた。
「アベルは『騎士の間』だ。おれはリオネルの部屋へ行く。おまえはレオンを呼んできてくれ」
声をひそめてディルクがマチアスに命じたとき、地上階のほうから再び悲鳴があがった。それから、三人目、四人目と悲鳴は続く。
「急げ」
二人はしばしのあいだ別れ、そして再び寝室のまえの廊下で落ち合う。
そのころには、すでに地上階から激しい物音や叫び声が聞こえてきていた。
マチアスは無事にレオンを寝室から連れ出したが、ディルクのそばにリオネルとベルトランの姿はない。
「何の騒ぎだ」
廊下に灯る燭台の炎が、レオンの顰め面を照らしだす。
「山賊が現れたのかもしれない。こんなときに、リオネルのやつどこへ行っているんだ」
「いないのか?」
「二人ともいない」
はっきりとしたディルクの返答を得ると、眠気を完全に払おうとするように、レオンは首を振った。
「マチアス、おまえはラロシュ侯爵のところへ行って状況を把握し、公爵夫人と子供たち、負傷しているブリアン子爵を守る体勢を整えろ。レオン、おまえはおれと一緒に来い」
王子に対し、従者に対するのと変わらぬ命令口調であるが、ディルクが言うと違和感がないのが不思議である。言われたレオンも、気にしている様子はない。
「『騎士の間』へは?」
主人に尋ねたのは、マチアスである。
「リオネルたちがいないなら、すでに向かったとしか考えられない」
「なるほど」
「とりあえずおまえは侯爵のもとへ」
事は一刻を争う。
マチアスが「かしこまりました」と一礼して去っていくと、ディルクも走りはじめる。
「おれたちはどこへ行くんだ?」
ついてくるレオンが尋ねた。
階下から聞こえてくる争いの音が、次第に大きくなってくると、レオンの表情も引き締まる。
「地下牢だ。もし襲ってきたのが山賊であれば、目的は女子供の誘拐と財宝の奪取、そしてなにより、仲間の救出だろう」
「マチアスに、おまえの向かう場所を伝えておかなくていいのか」
「わかっているよ、あいつは」
二人は長い廊下を駆ける。
「山賊だ! 山賊が攻撃してきたぞ!」
だれかの叫び声があがる。このとき、この館を襲撃してきたのが何者なのか、はっきりした。
夜通し負傷者の看病をしているアベルの安否については、ディルクはそのときほとんど心配していなかった。
というのも、リオネルとベルトランがこの時間に寝室にいないとすれば、行くところはアベルのもとくらいしかないと思っていたからだ。休まず働いているアベルのことを気にかけて様子を見にいったのだろう。
もしそうでなかったとしても、ヴィートがいる。あのヴィートなら、真っ先にアベルを守りにいくはずだ。
リオネル、ベルトラン、もしくはヴィートがアベルと共にいれば、「騎士の間」を守ることは困難なことではない。そう考えて、ディルクはアベルのもとへ人を向かわせなかった。
彼の勘は正しい。
寝室を出たリオネルとベルトランは、たしかに「騎士の間」へ向かったし、このような事態になれば、ヴィートはアベルを助けに行っただろう。
だが、扉の前でリオネルとベルトランがヴィートに会い、三人が今は館の外で数知れぬ刺客たちと戦っていることまでは、さすがにディルクにもわからなかった。
……かくして地上階にある「騎士の間」では、多勢に無勢、否、アベルひとりと山賊たちといっても過言ではない戦いが繰り広げられることとなった。




