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住む家も、食べるものも、手を温める蝋燭の一本さえない少女がいる一方で、贅沢に薪をくべた暖炉のある部屋で、豪勢な食卓を連日のように囲んでいる者たちもいた。
王都サン・オーヴァンを見下ろす高台にある、シャルム国の王宮。周辺の国々にも、これほど絢爛華麗な王宮は例をみない。
敷地面積は、小さな町が一つ入ってしまうほど。
端から端まで移動するのに、歩けば一時間はかかる。
ひとつめの門をくぐれば、広大な前庭があり、左右には貴族の館ほどの大きさの建物がそれぞれ建っている。そこを奥へと進むと二つめの門があり、王が住まう宮殿が眼前に広がる。
王の居住棟は、正面の中央塔、左の南翼塔、右の北翼塔に大きく分かれており、それぞれの建物内に中庭があるほどの広さだ。
さらにその奥に広大な庭園がある。
いくつもの区画に分かれた庭園は、それぞれ花壇や池、遊歩道の設計が異なり、区画ごとに趣が異なる。庭園の両脇には木立が広がり、宮殿から見て左手の木立の裏に、騎士の教練場である芝生と、池、その脇に騎士館や軍の厩があった。
右手の木立の裏にも芝生が広がり、その先に、やはり貴族の館ほどの大きさの離宮と庭園がある。あまりに広いので、王宮に住まうものは、敷地内を馬で移動することもしばしばだった。
宮殿の中核をなす王の居住棟で、年が明けてからは連日のように宴が催されていた。
国内の有力諸侯が来ることもあれば、近隣の国の王族が訪れることもあるが、決まってそこに参加しているのは、シャルム国王エルネスト、そしてその二人の息子たちだ。王妃は、政治の話の場になるときは参加しないことが多かったが、宴の席に夫人を伴ったものがいれば同席した。
シャルム王国第二王子レオンは、連日の馳走と酒で、胃はきりきりと痛み、頭痛もしている。
王や王子の機嫌を伺いに来る者、挨拶のみで帰る者、諫言を呈してくる者、噂話をばらまきに来る者など、さまざまだ。
彼らは皆、顔では笑顔をつくり、口では耳触りの良いことを言いながら、内心ではなにを考えているか分からなかった。国王派の者も、王弟派の者も、自らの利権がからんだ話になると、腹の探りあいの席となった。
レオンは、会話に参加するのも億劫で、黙って酒や食事を口に押し込んでいたのだ。そんなふうに何日も過ごしていれば当然、体調は悪くなる。
その日、レオンはいつも以上にうんざりしつつ、目の前の鴨の臓物料理をつっついていた。もう時刻は、深夜を過ぎている。シャルム国の民が、闇のなかで夢を見ているこの時分、そう広くはない室内には、酒と肉と、甘たるい香水の匂いが満ちていた。
従騎士としての騎士館での生活も厳しかったが、こんなところにいるなら、シュザンの稽古を受けている方がましだと、レオンは心から思った。
室内は、燭台が少なく、薄暗い。
盛大な宴を催す大広間ではなく、親しい者だけの集まる、こぢんまりした部屋だった。
「レオン様は体調がすぐれませんか?」
声をかけてきたのは、二人離れた斜め前に座るベルショー侯爵だった。その腕には、露出部分が多いドレスを淫らにまとった、栗毛の女が抱かれている。
「レオン様はまだお若いから、こういう席は苦手でいらっしゃるのでしょう」
そう言ったのは、その隣のブレーズ公爵だった。彼は鉄仮面のような笑顔を張りつけたまま、女が注いだ酒を口に運んだ。
「おまえもそろそろ女の味くらい覚えろ」
そう言ったのは、さらにブレーズ公爵の隣、レオンの正面に座る兄ジェルヴェーズだ。彼の左右には、美女二人が身体を密着させている。一人は、赤毛、もう一人は金髪である。
一応、レオンの背後にも若い女が立っていたが、レオンは振り返りもしなかった。
「私は遠慮しておきます。まだ剣を打ちあっている方が楽しいです」
さえない顔色で答えると、上座の父王が口元をほころばせる。
「まだ子供から抜けきれぬようだな、おまえは。男は、戦うのも大切だが、女を抱くことはもっと大事だ。女を抱かぬ男は、戦いには勝てぬ」
それもそうだ、とレオンの左隣に座るルスティーユ公爵が笑った。彼は、王妃の兄、つまり、レオンやジェルヴェーズの伯父にあたる者だった。
この日、深夜の宮殿の一室に集まっていたのは、シャルムを代表する国王派の貴族たちである。
「かつてシャルム王家では、十三で跡継ぎをなした王子がいたという。おまえたちにも、それくらいの勢いがあってもかまわぬ」
王の言葉に、ジェルヴェーズは楽しそうに笑ったが、レオンは、曖昧にうなずいただけだった。
「では、おまえたちも私の子をなすか?」
ジェルヴェーズが傍らの女たちに聞くと、
「よろしいのですか?」
と、二人とも顔を輝かせた。ジェルヴェーズの最初の子を成せば、将来の王母になる可能性を手に入れる。地位も、富も、思いのままだ。女たちの表情が期待に満ちる。
そんな光景を見ていると、レオンは女という生き物が信じられなくなる。
女は、金と権力に弱い。王族のレオンにも言い寄ってくる女はいたが、同じ従騎士のリオネルや、ディルクにも媚を売る女は多かった。まだ皆十六歳である。夜会にも参加していないのに、女たちの間では、さまざまな情報網を通じて彼らの噂がすでに流れていた。
「ジェルヴェーズ様はおいくつになられましたか?」
ブレーズ公爵が笑顔で聞いた。彼はいつも、その優しげな笑顔の裏で、本心ではなにを考えているのかわからなかった。
「十八だ」
「さようでございましたな。我が息子と同じ歳であらせられたことを、失念しておりました。時が経つのは早いものです」
「貴殿の子は息災か」
尋ねたのは国王エルネストである。名門ブレーズ家の嫡男は、近衛隊副隊長であるノエルの従騎士として、王宮に住まっていたことがある。そのろから、彼は同い年であるジェルヴェーズとは交流があり、王の覚えもよかった。
「はい、フィデールは丈夫なだけが取り柄でして。ブレーズ家の跡取りとして立派な若者にいたしたいと思っているのですが」
「なにをおっしゃられる。フィデール殿は、賢く聡明だ」
ブレーズ公爵が謙遜して言った内容を、ルスティーユ公爵は即座に否定する。
「それに引き換え我が子ギヨームは、威勢はいいが、二十七にもなって、後先を考えぬところがあり困っております。フィデール殿のような落ち着きがほしいものです」
「フィデールはまだまだ青い。あの者こそ、なにを考えているのか、親の私にも分かりません」
「リオネルも十六歳だったな」
不意に冷たい声音で言ったのはジェルヴェーズだ。
その言葉によってその場がいっきに緊張感をはらむ。この言葉の意味を理解しない者は、この場には一人もいない。
レオンは、動揺して思わずムール貝を殻ごと口につっこんでしまった。
「クレティアンと、リオネルか……」
国王エルネストはつぶやいた。自身の腹違いの弟と、甥の名である。
レオンは動揺を悟られないために、口に入ったムール貝の殻を無理やり飲み込んだ。強烈な痛みが喉を通り抜ける。
以前のレオンなら、ベルリオーズ家の者など死のうが、どうなろうが構わないと思っていたけれど、従騎士になってからは、リオネルのことをひとりの人間として好きになった。
むしろ、このような国王派のなかにいるよりも、王弟派のディルクやリオネルと居る時のほうが格段に落ち着くということを知った。
けれどそんな思いを、決して悟られてはならない。もし、この連中に知られたら、どのような目に遭うか……。
「あのときは、ああするしかなかったのだ」
「そうでしょうね」
ジェルヴェーズは、王のつぶやきに相槌を打つ。
「しかし、これからは違います」
「…………」
「このままではいかせませんよ」
ルスティーユ公爵も低く唸った。リオネルのもとに刺客を放っているのは、ジェルヴェーズとルスティーユ公爵の算段の結果である。そのことを、王は知っていたが、咎めることも、逆に公認もしていない。 王自身にも迷いがあった。
「リオネル殿は、どのような人物なのでしょう? たしかレオン殿下と同じく十六歳と聞きますが」
ブレーズ公爵が問いかけた先は、レオンだった。皆、レオンが、リオネルと同時期に、シュザンについて従騎士をしていることは知っている。
急に話をふられたのと、殻を飲みこんだ喉の痛さで、レオンは嫌な汗をかいた。
「どんなって……普通の――」
「普通の?」
皆が一斉にレオンを見た。娼婦らも興味ありげに、耳を傾けている。
「そう、普通の………………男」
レオンが、苦し紛れにそう答えると、一瞬その場を静寂が支配した。
「そんなことは知っておるわ、阿呆!」
ジェルヴェーズが食卓を叩いて、レオンを罵る。
「いやいや、レオン様はおもしろい方だ。人々の表意を突くのが上手でいらっしゃる」
ブレーズ公爵は笑いながら言った。けれど笑顔を張りつけたまま、一番容赦がないのもこの人物だった。
「それで、リオネル殿はいかなる人物ですかな?」
言い淀んだレオンはブレーズ公爵から視線をそらし、女たちを見る。
「美青年だよ」
女たちが歓声をあげる。ジェルヴェーズはその声を聞いて、苛立ったように立ち上がると、突如、赤毛の女の髪を引っ張り床に倒した。女が悲鳴をあげて転がる。
「黙れ、売女が」
ジェルヴェーズは、吐き捨てた。一同は息を呑み、再び静寂が訪れる。
ここでジェルヴェーズを諌めることができるのは国王だけだったが、エルネストは静かに息子を見ていただけだった。
ジェルヴェーズのいつもながらの凶暴な振る舞いに、レオンはさらに冷や汗をかく。
「レオン、いいかげんにしろ」
「それほど気になるのなら、見にくればいいではありませんか。私は他人を表現するのは苦手なのです」
「見にいけないから聞いているのではないか」
「私には会いに来ましたが?」
「物理的なことを言っているのではないわ、この役立たず。シュザンの稽古を受けすぎて、頭までおかしくなったか」
さすがに父王の前で、弟に手を上げられないので、ジェルヴェーズは怒りを押さえながら悪態をつく。兄弟喧嘩をはじめた王子二人を、諸侯らはおろおろと見守った。
「二人とも新年から諍いをするな。私がリオネルと会ったのは、あの者がシュザンの従騎士になった折の一度きりだが……考えの読めぬ者だった。レオンにもリオネルのことがまだわからぬのであろう。これからは、夜会などで見る機会も増える。人となりなど、嫌でもわかってくるものだ」
父王に諌められ、若い王子二人は無言で睨みあっていたが、先に視線をそらして酒を手に取ったのはレオンだ。ジェルヴェーズの顔など、長い間見ていられるものではない。
ジェルヴェーズは舌打ちをして、自分も盃をあおる。
「早く手を打っておきたいものですが」
つぶやいたのはベルショー侯爵だった。その言葉の意味を皆が理解していた。
暖炉で薪が割れる音がして、火の粉が舞う。
窓のないこの部屋の外では、雪が降っていた。
「リオネル殿には、腕の立つ用心棒がついているとのこと」
ベルショー侯爵は、ルスティーユ公爵を見て言った。
「さよう。ベルトランという名の若者だ。リオネル殿の遠縁にあたる伯爵家の息子で、それがおそろしく強い」
ルスティーユ伯爵がベルトランのことを知っていたのは、幾度も刺客を放っているからだ。
「ベルトランは邪魔だ。しかし、あいつを消すよりも、あいつがいない隙を狙った方がいい。うまくやらないと、王弟派の貴族たちが騒ぐからな……」
ジェルヴェーズは宙を睨みながら呟く。
「国が二分し、内乱になることは、避けたいものです」
ブレーズ公爵がいつもの笑顔のままで言ったので、レオンは寒気がした。シュザンの稽古より、この連中のなかにいたほうが、よほど頭がおかしくなりそうだと素直に思う。
酔いが心地よくまわったところで、その夜の宴はお開きになり、男たちは各々好みの女を連れて寝所に戻って行ったが、レオンとブレーズ公爵の両名は、それぞれ理由をつけて、単身でその場を後にしたのだった。