12
サミュエルの差し入れにより、アベルの体調は、徐々に回復に向かっていった。
一週間後には、短時間ならサミュエルと街なかに出られるほどにまで元気を取り戻した。
サミュエルと一緒にいる間は、デュノア邸でのことをあまり思い出さなかったし、彼の陽気な雰囲気は、アベルを安心させてくれた。
けれどこのささやかな安らぎの時間も、ほんのつかの間のものだった。
突然、サミュエルがアベルを訪ねてこなくなったのである。
一日、二日は気にしないようにしていたが、三日目になると、落ち着かなくなり、アベルは久しぶりに、自らサミュエルの働く八百屋へ顔を出すことにした。
その日は雪が降っていた。
アベルの履いている底の薄い靴は、雪を踏みしめるたびに、しゃりしゃりと音を立てる。
足元から凍っていくように寒かった。
サミュエルは、いつもどおり八百屋で働いていた。体調を崩したふうでもなかったが、陽気なはずの彼の表情はどこか暗かった。
「サミュエル」
客が途切れたとき、アベルは、林檎の籠を運ぶサミュエルに声をかけた。
「…………! アベル……」
サミュエルは、ぎくりとしてアベルを振り返る。アベルは、普段とは違う彼の雰囲気に気づいたが、気のせいかもしれないと信じて明るい声で言った。
「ここ何日か会ってなかったから、大丈夫かなと思って。元気そうでよかったです」
「……ああ」
短く返事をして、サミュエルは視線をそらした。
やはり、なにか様子がおかしかった。
「どうかしたんですか?」
「…………」
アベルの質問に、サミュエルは返事をしなかった。
いつまで待っても、黙々と作業をしている。二人の吐く息だけが、幾度も白く舞っては、空気中に溶けていった。
そして、杖をついた老婆が、雪道に滑りそうになりながら店先に現れると、サミュエルはぎこちない笑顔を作って、接客しはじめる。
その横顔に、客の老婆には聞こえないくらいの小さな声でアベルは告げた。
「ごめんなさい、忙しいですよね……また……」
また、とまで言って、アベルは言葉が続かなかった。
その続きは、「また来ますね」なのか、「また来てくださいね」なのか。
はたして、こんな雰囲気のサミュエルと、「また」という日が、来るのだろうか、と思った。
「また……来ます」
サミュエルは、聞こえなかったのか、聞こえないふりをしていたのか、林檎をつかみあげて老婆に向かって話していた。
アベルは心臓が凍るような気持ちで踵を返した。
自分は、サミュエルを怒らせるようなことをしただろうか?
そんなふうに考えて、一生懸命、最後に会った日のことを思い出したが、なにも思い当たることはなかった。それでも、あれこれ考え続ける。
――わたしはなにかひどいことを言ったかしら?
――それとも、面倒をかけたわたしに嫌気がさした?
考えても、考えても、答えは出なかった。
何日か前までのサミュエルの笑顔が思い出せない。
人は、そんなに急に変わるものなのだろうか。初めから病気のアベルを助けてくれたのは、気まぐれだったのだろうか。来年の春、本当に梨の果樹園に連れていってくれるのだろうか。
アベルはうつむいて唇を噛む。
悲しくても涙は出ない。あの日からずっとそうだった。
あれこれと考え続ける期間は、しかし、そんなに長くはなかった。真実を知ることになったのは、その夜のことだったからだ。
アベルが、未だ慣れない堅さの寝台の上で遠い昔の夢を見ていたころ。
コカールの夜の空には、朧月が出ていた。
人々が眠りにつき、時間が止まったような静寂のなかに、溶けない雪を踏みしだく複数の足音があった。五、六人の男たちが、宿場街からはずれたところにある、一軒の安宿の前に集まっている。
「ここか」
「本当にいるのか? ちょっと虫のよすぎる話じゃないか」
「いなかったら、やつに再び責任をとってもらうだけだ」
「行くぞ」
男たちは、宿屋の玄関を突き破るようにして侵入し、二階の一室の扉のまえまで来た。
鍵などはついておらず、たやすくそれは開く。
そして、男たちは、眠る少年の口を手でふさぎ、身体を拘束した。
「――――!」
乱暴に眠りから覚まされた少年――アベルは、月の光のほとんど入り込まない部屋のなかで、うめきながら目を見開く。
いくつもの人影を見た。
けれど自分がどのような状況にあるのか理解できなかった。
首を振って口を塞ぐ手を払おうとする。が、男の大きな手は離れない。
次は、大きく口を開き、そして、男の手の指を渾身の力で噛んだ。すると、悲鳴を上げて、男の指が離れていく。口の中には、血の味が残った。
「なにしやがる!」
殴りかかろうとする男を、他の者が手で制した。
「大事な商品だ。傷つけるな」
――商品?
わけがわからない。
「……あなたたちは……」
アベルは、目をこらして男たちの顔を見たが、ぼんやりと浮かび上がる顔に見覚えはなかった。恐怖が身体の底から込み上げてきて、吐き気にも似た衝動をもよおす。
「悪いね、坊ちゃん。あんたは売られたんだよ。身寄りのない子供がこの宿にいるから、連れていっていいと言ったやつがいてね。そいつと契約したんだ、大人しくついてきな」
低い声で告げられて、アベルは愕然とした。
――売られた? わたしが……?
――だれ……に?
動くことも、声を出すことさえできずにいるアベルを、男たちは腕をつかんで立たせる。
「そんなに驚くことはないだろう。親でさえ子を売る世の中だ。親もいないようなあんたが、お友達に売られるのは不思議なことじゃない」
お友達、という言葉に、思い浮かぶ顔があった。
記憶の中のその顔は、屈託なく笑っている。
「……サミュエル? サミュエルが……」
アベルは、背中を押され、つまずきながら扉の前まで歩き、そして、つぶやいた。
「かわいそうにな、坊ちゃん。そんなにサミュエルに売られたのが意外だったか? まあ、恨まないでやってよ。あいつの親父は借金まみれでね、返せなくなって、かわいい娘を売る羽目になったんだよ。それで、家族思いのサミュエルくんは、きみを代わりに売ると言ってきた」
男はおかしそうに話した。
急に会いに来なくなった、サミュエル。
今日、アベルを見ようとしなかった、サミュエル。
――そういうことだったのか。
アベルは、全てを理解した。
あの日から流れることのなかった涙が、一筋、表情をなくしたアベルの頬を伝う。
悲しみを癒すための涙ではなく、それは、今まで以上にアベルを孤独にする涙だった。
流れたのは、その一滴だけ。
アベルは、無表情のまま右手を傍らの男の右腕に突き出した。
あまりに意外な出来事に男たちは固まる。
アベルの手にはナイフがあった。
アベルを掴んでいた男は、くぐもった声でうめくと、アベルを信じられないような顔で見据える。
「な……っ。この……!」
ようやく我に返った男たちが、腰に下げた自分たちのナイフを抜き、一斉にアベルに襲いかかる。それをアベルは迎え撃った。
アベルの反撃は鮮やかだった。高い位置から降り下ろされたナイフを弾き返し、逆側から胸元をねらって突いてくる切っ先を避け、さらに正面から横薙ぎに狙ってくるナイフをたたき落とす。
男たちは一瞬ひるんだ。
金髪の幼い少年が、外見から想像するよりはるかに強かったからだ。
泣きも、笑いもしない少年の白い顔が、朧月にかすかに浮かび上がる。
それは、美しくも、恐ろしいほどの哀しみをたたえていた。
男たちが戸惑っているすきに、アベルは階段を転がるように降りて、宿の外へ出る。
考えている余裕はなかった。アベルは、雪の積もった夜の街を一目散に走りだす。
男たちが追ってくる。
月が陰らないかぎり、雪に残る足跡を追って、彼らはどこまでも追いかけてくるだろう。
アベルは、走りながらサミュエルのことを思った。
直接会って、卑怯者、と大声で罵れば、このえぐられるような思いから逃れられるのだろうか。
そして、そう思ったとき、今まで以上の哀しみが込み上げてきた。
――違う。
――そうじゃない。
まぶしく感じられた、あの笑顔が思い出される。
アベルには、彼を罵ることなんてきっとできなかった。
ぶつけられない思いのぶんだけ、流すことができない涙のぶんだけ、心が凍っていく。
雪の冷たさで、足の感覚がなくなっていたけれど、それでも、アベルは走り続けた。
叢雲に月が陰る。
あたりは、闇に包まれた。
アベルは、なんども雪の中を転びながら、この街を出ようと城門を目指した。
冷たい石造りの城門までたどり着くと、強固な門を、松明を掲げた憲兵数人が守っている。
アベルは懐にしまってあった、残りわずかな所持金のなかから銀貨を取り出し、憲兵に手渡した。
こうして、アベルはコカールの町と、サミュエルに別れを告げた。
城門の外は、眩暈がするほどの暗さだった。街の中より雪は深く、盗賊でさえもうろつけないと思われるほどだった。
アベルは、すくみそうになる足を一歩一歩、雪の中に進める。
今夜は眠らずに移動しなければならない。この雪の中で意識を失えば、もう二度と目覚めることはないだろう。
それでもよかった。
それでもよかったが、アベルは、一つの風景を思い浮かべて、足を動かした。
白い花の咲く、梨の果樹園。
雪の中を歩くアベルの心は、もうとっくに凍りついていたけれど、白い花の咲く風景だけが、胸の奥で、ほんのりと明るかった。
サミュエルと約束をした、春の、梨の果樹園。
どうしてか、死ぬ道を選べなかった。
このとき、デュノアの館を出て、すでに一ヶ月が経っていた。