11
アベルは、エマ領の中心にある街、コカールに留まっていた。
移動すれば、通行税を取られるということもさることながら、身体が思うように動かせなかったからだ。
中心街からは少し離れたところに位置する、いまにも傾いて倒れそうな安宿に、アベルは身を寄せていた。食べ物を買いに行く以外は、粗末な寝台の上で、一枚しかない薄い毛布をかけて寝ていた。街に出るのは、一日一回、唯一食べることができる梨を買いに行く時だけだった。
行く店は決まって同じだった。そこでないといけない理由はなかったが、コカールの街で初めて梨を買ったのが、この八百屋だったからだ。
アベルが姿を見せると、店で働く青年は、注文を聞かずに、梨を籠に入れてくれるようになった。青年の歳は十六、七といったところだろう、紫色の目をしていた。
「梨が好きなんだね。でも、梨以外にちゃんと食べているかい? 男はたくさん食べないと強くなれないぞ」
青年はアベルにいつも同じことを繰り返した。
アベルは青白く痩せた顔に、微笑を浮かべてうなずく。
それが、アベルが一日でたった一度だけ笑う瞬間だった。
ある日、青年は、日に日に痩せ、顔色が悪くなっていくアベルに言った。
「梨の木に咲く花を見たことがあるかい?」
「いいえ」
「汚れのないような、まっ白な花なんだ」
「そうですか……」
「春に咲くのだけど、おれはその春の梨の果樹園に一度だけ行ったことがある。それは本当に綺麗だったよ。そのときさ、こんな花を咲かせる春が来るなら、長く辛い冬を耐えしのんでもいいと思ったよ。だって、冬がなければ、春も来ないだろう?」
「…………」
「来年の春に、いっしょに見に行かないかい?」
青年の言葉をぼんやり聞いていたアベルは、はっとして青年を見た。
「おれはサミュエル。きみは?」
「……アベル」
「アベル!」
サミュエルは元気よくアベルの名を呼んだ。こんなふうに呼ばれると、もうずっと昔から、アベルという名であったような気がしてくる。
「ね、次の春、行こうよ」
アベルは、覗き込んでくるサミュエルの紫の瞳をみつめ返した。胸の奥に震える思いが込み上げる。
「うん……行きたい」
アベルは、涙がこぼれそうになるのを隠すように、うつむいて返事した。
「はい、じゃ、約束」
サミュエルの差しだす手を握り返すと、その手は、寒い日なのに、とても暖かかった。
アベルに一つ、生きる目的ができたのである。
――来年の春に、サミュエルと梨の果樹園を見に行く。
その日は、梨以外にも、桃と林檎を買って帰った。
けれど思いとは裏腹に、体調は徐々に悪化していった。
高熱が続き、激しい咳がでるようになった。
身体が重く感じられ、動かすこともできない。食糧さえ買いに行けなくなり、アベルは寝台に横たわりながら、部屋に一つだけある小さな窓を見ていた。
自分は、ここでこうやって死んで行くのかもしれないと思った。
飢えで死ぬか、体力がなくなって死ぬか、どちらが先だろうかと、ぼんやり考えた。
窓の外では、大勢の人が元気に歩き、話している。薄い壁一枚を隔てて、アベルは違う世界にいるようだった。アベルはたった一人、この世界から取り残されているような気がした。
寝台がようやく置けるほどの小さく暗い部屋に、一人。
「カミーユ……もう会えないね」
そうつぶやいて目を閉じると、ほんの数週間ほどまえまでの、デュノア邸の輝くような景色がまぶたに浮かんだ。空は澄み、風は優しく、花は競うように咲き乱れている。
中庭に響く、カミーユと剣を交える音が聞こえてきそうだった。
その傍らに、トゥーサンが生真面目にたたずんでいる。
アベルの記憶のなかのデュノア邸は、この先いつ思い出しても、こんな、夢のような風景のままであると思った。記憶のなかのその地にいれば、アベルは幸せだった。
コカールの街に夕陽が沈んでいく。
陽光が小さな窓から差し込んで、壁に赤い陽溜まりを落とし、アベルのまぶたも重くなってきた。そんなときだった。
開くはずのない扉がそっと開く。
アベルのいる閉ざされた世界と、外の世界が繋がる瞬間だった。
狭い部屋に足を踏み入れる気配がある。
そして、ためらいがちな声が聞こえてきた。
「アベル?」
サミュエルだった。
どうして彼がここにいるのか、理解ができない。
アベルは、閉じかけていたまぶたを開いて、青年を見る。ついに幻影でも見えたのだろうか。
どうせならカミーユにも会いたいな、などと思いつつ、ぼんやりしていた。
「アベルだ! ……やっと見つけた! 探したんだぞ。体調が悪いのか? しばらく店に来ないから心配していたんだ」
そう言って、寝台の傍らまで歩み寄り、アベルの額に手を置く。
「すごい熱だ……」
「……サミュエル……?」
幻影ではないことを確信し、アベルはようやく口を開いた。
「そうだよ、やっとおれのこと思い出した?」
忘れていたわけではなかったが、弁解する気力は残っていなかった。
「梨の木を見に行く約束も、忘れたなんて言うなよ?」
「……覚えています」
アベルは弱々しい声で答える。
「そうか、よかった。なら、こんなところで一人で倒れていたら、来年の春までに干からびちゃうよ。ああ、冬だから、干からびることはないか」
サミュエルの言葉に、アベルは微かに口元をほころばせる。
「家族は? だれか面倒を見てくれる人はいないの?」
アベルは、堅い寝台のうえで、ゆっくり首を横に振った。
「そうか……」
サミュエルは少し考えこんでから、再びアベルの顔を覗きこむ。
「おれが食べるものを持ってきてあげるから。薬は高価で手に入らないけど、栄養のあるものを探してくるから、食べて元気つけて。ね!」
アベルは、信じられないような思いで、サミュエルを見た。
この人は、どうしてこんなに親切にしてくれるのだろうか。
立ち上がり、いったん部屋を出ようとするサミュエルの後ろ姿に向けて言う。
「……ありがとう、サミュエル」
青年が振り返ったときの、その笑顔が、眩しかった。
果物以外にも、乾燥した肉や、煮崩れた野菜などを持って、サミュエルは戻ってきた。
胸焼けを覚えつつも、せっかく持ってきてくれた食べ物を、ゆっくりとアベルは口に運んだ。
「……お、梨じゃなくても食べられるんだね」
サミュエルは冗談めかして言ったが、アベルは真剣な顔でうなずいた。
「それにしても、年端もいかないきみのような子が、どうしてこんなところで、たった一人で暮らしているんだい?」
「…………」
「余計なお世話かもしれないけど、生活するお金はどうしているの?」
「…………」
「お父さんと、お母さんは?」
「…………」
どの質問にも答えることができなかったので、アベルは吐き気に耐えつつ、ひたすら口に食べ物を押し込んで、その場をごまかす。
「食欲はあるみたいだね、よかった、よかった」
返答がないことにはこだわらない様子で、サミュエルはよく食べるアベルの頭をなでた。
「男はこうでなくちゃな!」
「……どうしてここが分かったんですか?」
「店に来る客に聞いたんだ。ここによく来る金髪の男の子、町で見かけたことないかって。このあたりで見たことがあるっていう人がいたからさ、来てみたんだよ。アベルに会えるまで、探し回って、ようやく見つけたんだから」
アベルは、うつむいた。なんと言ってよいか分からなかったからだ。
そして、出てきたのは、いつかと同じ一言だった。
「ありがとうございます」
小さなアベルの声に、サミュエルは日に焼けた顔を崩して笑う。
館を追い出されてからずっと緊張していた気持ちが、このとき少しほぐれたような気がして、アベルの表情もつられてやわらかくなった。