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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第一部 ~婚約破棄された伯爵令嬢は、男装して旅に出る~
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 アベルは、エマ領の中心にある街、コカールに留まっていた。

 移動すれば、通行税を取られるということもさることながら、身体が思うように動かせなかったからだ。


 中心街からは少し離れたところに位置する、いまにも傾いて倒れそうな安宿に、アベルは身を寄せていた。食べ物を買いに行く以外は、粗末な寝台の上で、一枚しかない薄い毛布をかけて寝ていた。街に出るのは、一日一回、唯一食べることができる梨を買いに行く時だけだった。


 行く店は決まって同じだった。そこでないといけない理由はなかったが、コカールの街で初めて梨を買ったのが、この八百屋だったからだ。


 アベルが姿を見せると、店で働く青年は、注文を聞かずに、梨を籠に入れてくれるようになった。青年の歳は十六、七といったところだろう、紫色の目をしていた。


「梨が好きなんだね。でも、梨以外にちゃんと食べているかい? 男はたくさん食べないと強くなれないぞ」


 青年はアベルにいつも同じことを繰り返した。

 アベルは青白く痩せた顔に、微笑を浮かべてうなずく。

 それが、アベルが一日でたった一度だけ笑う瞬間だった。


 ある日、青年は、日に日に痩せ、顔色が悪くなっていくアベルに言った。


「梨の木に咲く花を見たことがあるかい?」

「いいえ」

「汚れのないような、まっ白な花なんだ」

「そうですか……」

「春に咲くのだけど、おれはその春の梨の果樹園に一度だけ行ったことがある。それは本当に綺麗だったよ。そのときさ、こんな花を咲かせる春が来るなら、長く辛い冬を耐えしのんでもいいと思ったよ。だって、冬がなければ、春も来ないだろう?」

「…………」

「来年の春に、いっしょに見に行かないかい?」


 青年の言葉をぼんやり聞いていたアベルは、はっとして青年を見た。


「おれはサミュエル。きみは?」

「……アベル」

「アベル!」


 サミュエルは元気よくアベルの名を呼んだ。こんなふうに呼ばれると、もうずっと昔から、アベルという名であったような気がしてくる。


「ね、次の春、行こうよ」


 アベルは、覗き込んでくるサミュエルの紫の瞳をみつめ返した。胸の奥に震える思いが込み上げる。


「うん……行きたい」


 アベルは、涙がこぼれそうになるのを隠すように、うつむいて返事した。


「はい、じゃ、約束」


 サミュエルの差しだす手を握り返すと、その手は、寒い日なのに、とても暖かかった。

 アベルに一つ、生きる目的ができたのである。

 ――来年の春に、サミュエルと梨の果樹園を見に行く。

 その日は、梨以外にも、桃と林檎を買って帰った。




 けれど思いとは裏腹に、体調は徐々に悪化していった。

 高熱が続き、激しい咳がでるようになった。

 身体が重く感じられ、動かすこともできない。食糧さえ買いに行けなくなり、アベルは寝台に横たわりながら、部屋に一つだけある小さな窓を見ていた。


 自分は、ここでこうやって死んで行くのかもしれないと思った。


 飢えで死ぬか、体力がなくなって死ぬか、どちらが先だろうかと、ぼんやり考えた。

 窓の外では、大勢の人が元気に歩き、話している。薄い壁一枚を隔てて、アベルは違う世界にいるようだった。アベルはたった一人、この世界から取り残されているような気がした。


 寝台がようやく置けるほどの小さく暗い部屋に、一人。


「カミーユ……もう会えないね」


 そうつぶやいて目を閉じると、ほんの数週間ほどまえまでの、デュノア邸の輝くような景色がまぶたに浮かんだ。空は澄み、風は優しく、花は競うように咲き乱れている。

 中庭に響く、カミーユと剣を交える音が聞こえてきそうだった。

 その傍らに、トゥーサンが生真面目にたたずんでいる。

 アベルの記憶のなかのデュノア邸は、この先いつ思い出しても、こんな、夢のような風景のままであると思った。記憶のなかのその地にいれば、アベルは幸せだった。


 コカールの街に夕陽が沈んでいく。

 陽光が小さな窓から差し込んで、壁に赤い陽溜まりを落とし、アベルのまぶたも重くなってきた。そんなときだった。


 開くはずのない扉がそっと開く。

 アベルのいる閉ざされた世界と、外の世界が繋がる瞬間だった。


 狭い部屋に足を踏み入れる気配がある。

 そして、ためらいがちな声が聞こえてきた。


「アベル?」


 サミュエルだった。

 どうして彼がここにいるのか、理解ができない。

 アベルは、閉じかけていたまぶたを開いて、青年を見る。ついに幻影でも見えたのだろうか。

 どうせならカミーユにも会いたいな、などと思いつつ、ぼんやりしていた。


「アベルだ! ……やっと見つけた! 探したんだぞ。体調が悪いのか? しばらく店に来ないから心配していたんだ」


 そう言って、寝台の傍らまで歩み寄り、アベルの額に手を置く。


「すごい熱だ……」

「……サミュエル……?」


 幻影ではないことを確信し、アベルはようやく口を開いた。


「そうだよ、やっとおれのこと思い出した?」


 忘れていたわけではなかったが、弁解する気力は残っていなかった。


「梨の木を見に行く約束も、忘れたなんて言うなよ?」

「……覚えています」


 アベルは弱々しい声で答える。


「そうか、よかった。なら、こんなところで一人で倒れていたら、来年の春までに干からびちゃうよ。ああ、冬だから、干からびることはないか」


 サミュエルの言葉に、アベルは微かに口元をほころばせる。


「家族は? だれか面倒を見てくれる人はいないの?」


 アベルは、堅い寝台のうえで、ゆっくり首を横に振った。


「そうか……」


 サミュエルは少し考えこんでから、再びアベルの顔を覗きこむ。


「おれが食べるものを持ってきてあげるから。薬は高価で手に入らないけど、栄養のあるものを探してくるから、食べて元気つけて。ね!」


 アベルは、信じられないような思いで、サミュエルを見た。

 この人は、どうしてこんなに親切にしてくれるのだろうか。

 立ち上がり、いったん部屋を出ようとするサミュエルの後ろ姿に向けて言う。


「……ありがとう、サミュエル」


 青年が振り返ったときの、その笑顔が、眩しかった。




 果物以外にも、乾燥した肉や、煮崩れた野菜などを持って、サミュエルは戻ってきた。

 胸焼けを覚えつつも、せっかく持ってきてくれた食べ物を、ゆっくりとアベルは口に運んだ。


「……お、梨じゃなくても食べられるんだね」


 サミュエルは冗談めかして言ったが、アベルは真剣な顔でうなずいた。


「それにしても、年端もいかないきみのような子が、どうしてこんなところで、たった一人で暮らしているんだい?」

「…………」

「余計なお世話かもしれないけど、生活するお金はどうしているの?」

「…………」

「お父さんと、お母さんは?」

「…………」


 どの質問にも答えることができなかったので、アベルは吐き気に耐えつつ、ひたすら口に食べ物を押し込んで、その場をごまかす。


「食欲はあるみたいだね、よかった、よかった」


 返答がないことにはこだわらない様子で、サミュエルはよく食べるアベルの頭をなでた。


「男はこうでなくちゃな!」

「……どうしてここが分かったんですか?」

「店に来る客に聞いたんだ。ここによく来る金髪の男の子、町で見かけたことないかって。このあたりで見たことがあるっていう人がいたからさ、来てみたんだよ。アベルに会えるまで、探し回って、ようやく見つけたんだから」


 アベルは、うつむいた。なんと言ってよいか分からなかったからだ。

 そして、出てきたのは、いつかと同じ一言だった。


「ありがとうございます」


 小さなアベルの声に、サミュエルは日に焼けた顔を崩して笑う。


 館を追い出されてからずっと緊張していた気持ちが、このとき少しほぐれたような気がして、アベルの表情もつられてやわらかくなった。




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