10
時間は少し遡る。
秋。
シャンティが所持していたものは、そのとき着ていたドレス一枚と、首に下げていた青い瑠璃の首飾りだけだった。これは祖母の形見の首飾りだった。
どのようにして、館の前から、街の外れをひっそりと流れる小川にたどり着いたか、まったく記憶にない。シャンティの頭の中にあったのは、父に命令された、「デュノアの領地から出なければならない」ということだけ。
やわらかい光に包まれて目覚めたとき、シャンティは川辺の木の影に、膝を抱え、丸まるように倒れていた。
立ちあがろうとしても、頭が眩めく。
頬がほてったような感じがして、うまく思考が回らない。
体中が痛かったが、なぜだか分からなかった。
後から思えば、父から受けた暴力のせいか、それとも、草の上で気を失っていたせいか、あるいはその両方だったかもしれない。
悪い夢を見ていた気がする。
いろんなことがうまく思いだせなかった。
木漏れ日が、揺れている。
自分がだれなのかもよく分からない。それほど意識はぼんやりしていた。
身体の痛みと、寒さで身震いする。
顔は熱いのに、身体は凍えていた。
朝の陽の光を転がすように流れる川に、一歩一歩踏みしめるようにして近づく。
そして、水面を覗き込んだその瞬間が、外門で泣いていたとき以来、初めて浮上したはっきりとした意識だった。
シャンティ、と呼ばれていた少女がそこに映っていた。
髪は乱れ、頬は腫れ、口元には乾いた血がこびりついていた。昨日の、地獄のような記憶がよみがえる。
もう、シャンティは、シャンティではない。
その現実に、重い眩暈がした。
「カミーユ……」
形の良い眉を寄せ、目をつむる。
涙は出なかった。
館の門の前で流し続けて、枯れてしまったのだろうか。
神秘的なほど美しい秋の日の朝に、涙はその在処を失っているようだった。
景色が美しければ美しいほど、心は孤独と悲しみを増したけれど、どうしても泣くことができなかった。
いっそ喉から血が出るまで、大声で泣けたなら、心は少し軽くなったのかもしれない。
そうして泣いた後ならば、命を絶ち切ることさえできたかもしれない。
けれど穏やかな小川の流れは、シャンティに泣くことさえ許さなかった。それは、彼女を苦しみから解放しないことを意味する。
体中のどこよりも、胸の奥が痛み、血を流していた。
死んでしまえたらどんなに楽だろう……。
死ぬことができないなら、生きるしかない。
生きなければならないという痛みが、シャンティには息をつけないほどに、苦しかった。
とりあえず川の水で身なりを整えてから、最初にしたことは街へ行くことだった。
シャンティとカミーユとトゥーサンの三人で、身分を隠し、こっそりこのマイエの街に出てみたことはあったが、たった一人で歩くのは初めてのことだった。
あのときは、あんなにも楽しかったのに、今は同じ道を歩いていると思えないほど、風景は違って見えた。
見上げれば、空は、どこまでも青い。
そしてシャンティは、どこまでも孤独だった。
日が昇ってまもないマイエの街には、まだ眠たそうな雰囲気が漂っている。
木組みの家々の窓が開き、夜着のままの中年の女性があくびをする。働き始めた者が、忙しそうに少女の脇を走り抜けていく。そのあとに砂ぼこりが舞った。
高価であるにもかかわらず、汚れたドレスを身に付けたシャンティの格好は目立っていた。すれ違う町人たちは、少女を物珍しげに眺めやる。
店のほとんどが開店の準備をしているところだった。そのうちの一軒に入り、しばらくのち、少女が出てきたときには瑠璃の首飾りがなくなっており、その代わり手には一枚の金貨と数枚の銀貨があった。
店の壁にぶら下がっている看板は質屋。
形見の首飾りは、実際の価値よりも低く買い取られたが、世間知らずのシャンティが気づくはずもない。
店開きしたばかりの店をもういくつか回り、銀貨でいくつかの買い物をした。ひとつは少年の着るような麻のズボンと上着、靴。そしてもうひとつはナイフである。
川辺に戻ると、周りに人気がないのを確認し、素早く、買ってきたばかりの服に着替えた。さらに、腰まであった月の光を織り上げたような金髪に、ナイフをあてる。
力任せに、何度も、ナイフを押しあてては、引く。
女であったことで、幸せであったことなど一つもなかった。
男に生まれていたら、こんな目に遭わずにすんだ。
伯爵家の跡取りとして、大好きな剣や、乗馬や、狩りを続けることができたはずだった。
女であった自分を断ち切るように――「シャンティ・デュノア」に別れを告げるように――髪は切られていった。
シャンティの髪は、耳が外気に触れるほど短くなった。
以前と変わらず美しかったが、シャンティはもはや年端のいかぬ少年にしか見えない。
その姿は実際の年齢よりも幼い印象を与えた。
こうして不要になったドレスと美しい金色の髪の毛は、再び街に出て新たな硬貨に換えられたのだった。
この日から、少女――否、少年は、自らを「アベル」と名乗った。