第一章 夏の嵐と婚約破棄 1
――神様、もしあなたが本当にこの世にいるのなら。
揺れるようにきらめく日差しのもと、幼い姉弟がはじけるような青さの芝生の上で走りまわっていた。その背後に建つ貴族の館の屋根は陽光を反射して、背景の空の青に白く浮かび上がっている。
中庭は芝生で覆われ、隅には通路としての白い砂利道、中央には色とりどりの花が咲き乱れる大きな丸い花壇が二つ並んでいた。
真夏ではあるが、空気は乾燥し、蒸し暑さは感じられない。
穏やかな景色のなかにいる二人だが、遊んでいるふうではなく、それぞれの手には刃の部分がつぶされた長剣が握られていた。それらがぶつかりあう音が、静かな中庭に響いている。
姉のほうは十三歳になったばかり、弟は二つ下の十一歳だ。二人の輝くばかりの金色の髪が、昼下がりの庭園の風景に散って消えてしまいそうな光を放っていた。
「腰を落としなさい、カミーユ! 剣の構えが崩れているわ」
その愛らしいドレス姿に似合わず、少女はためらうことなく長剣を弟めがけて斜めから振りおろした。弟のカミーユはやっとのことでそれを打ち返したが、均衡を失って尻もちをつき、結局は持っていた剣も芝生の上に落としてしまう。
「いてっ。大事な跡取りの身体に傷でもついたらどうするんだよ」
カミーユは立ち上がろうともせず、尻もちをついたまま姉を見上げた。けれどその青みがかった灰色の瞳に責めるような色はなく、むしろ眩しげに少女を映していた。
よく見れば弟よりも姉のほうが明るい金髪である。少女の肌は白磁のようになめらかで白く、水色の瞳は磁器に埋め込まれた宝石のようだ。カミーユにとっては実の姉でありながら、これほどまでに美しい少女を見たことがないとあらためて感嘆せざるをえない。
カミーユはそんな思いを隠すように言葉を続けた。
「そもそも稽古なのに、そんな勢いで剣を振りまわさなくても」
「だいじょうぶよ」
あっさりと答えた姉に、カミーユは眉を寄せる。
「なにが大丈夫なのさ」
「男は傷の一つや二つあったほうが、箔が付くわ。わたしがそれをつけてあげようっていう親切よ」
「なんだよそれ」
「でもあれね、腕がさえないのに傷のある男は、箔どころか、ただみっともないだけだわ。だから、カミーユ、立ちなさい。まだまだやるわよ」
十三という歳に似合わず辛辣な物言いで長剣を構えなおす少女に、カミーユは全身から力が抜けていくのを感じた。
「トゥーサン、代わってくれ……」
そう言いながら、カミーユは両手を広げて芝生の上にどさりとあおむけになってしまった。倒れた勢いで、土と芝生の青い匂いが舞う。
トゥーサンは十八歳の青年である。二人の乳兄弟で、昔からともに屋敷に住まっていたが、三年前からはその腕を見込まれて幼い姉弟の護衛としての立場を得た。姉弟の護衛とはいっても、専ら跡取りであるカミーユの従者兼身辺警護が目的であり、姉はそのおまけのようなものだった。
そんなトゥーサンとでさえ互角に剣を交えることができる相手に勝てるとは、そもそもカミーユも思っていなかったが、それ以前に、大切な姉に向ける剣などなかった。
少女がそんなカミーユになにか言おうとしたとき、傍らで静かにたたずみ、二人の撃ち合いを見守っていた青年が少女の前で丁寧に一礼した。
「シャンティ様、カミーユ様はすでにお疲れのご様子。私がお相手いたしましょう」
シャンティと呼ばれた少女は、ふぅと息を吐きながら構えていた剣をおろす。
「それではカミーユの稽古にならないじゃないの。トゥーサンはカミーユを甘やかしているわ、いつだってそう」
頭を下げたままのトゥーサンは、さらにうつむいた。
「申し訳ございません。しかしながらこのトゥーサン、命をかけてお二人のことをお守りする所存です。ですのでカミーユ様には、ゆっくりと上達いただいてもかまわないのではないかと考えております」
「そんなふうだから、カミーユはいつまでたっても上達しないのよ」
「そんなふうだと、姉さんはいつまでたっても嫁のもらい手がないよ」
急に二人の会話に割って入ったのは、芝生に大の字になって空を見上げているカミーユだった。怒るかと思いきや、シャンティの返答にそんな気配はなかった。
「わたしにはディルク様がいるわ」
そう言ったシャンティの口元は嬉しそうにほころんでいる。その様子が声にもにじんでいるのをカミーユは確かに聞いてとり、さらに意地悪く言った。
「婚約者っていったって、会ったことないんでしょ。こんなお転婆娘、一目見たら願い下げられるよ、きっと」
この姉弟は、デュノア領を治める伯爵家の子弟である。ディルクとは、そのデュノア領と隣接する地を治めるアベラール侯爵家の嫡男で、シャンティの婚約者だった。侯爵家は伯爵家より高位であるため、この結婚が成立すれば、二人の家は今より政治的に安定するはずであったし、それ以上に複雑な利害関係が、幼い姉弟には見えないところに潜んでいた。
けれど、たとえどれほど有益な繋がりであるにせよ、カミーユは複雑な思いでいた。
「だいたいね、姉さんは女のくせに強すぎる。ディルク様も自分より腕の立つ女なんてお嫌だろうね」
「そんなことないわ! ディルク様はわたしなんかより強くて優しい方に決まっている」
「どうしてそんなこと分かるのさ」
ふてくされたようにカミーユは言う。
「そんな気がするのよ! あなたのような子供が理解するには百年早いわ。つべこべ言ってないで立って剣を拾いなさい」
「会ったこともないのに馬鹿馬鹿しい。そういうのを妄想っていうんだよ。剣もやめたやめた。ああ、お腹すいた」
そう言ってさっさと立ち上がり、館に戻ろうとするカミーユの背中にシャンティは剣の鞘を投げつけた。
「――――!」
痛みというよりは、驚きで振り返ったカミーユにシャンティは言い放つ。
「しょうがないでしょ、女に産まれてこの家を継ぐことができないわたしは、嫁ぐしかないんだから! 大好きな剣も乗馬もそのうちできなくなるの。素敵な夫との未来を夢見てもいいじゃない!」
顔を真っ赤にして叫ぶと、先ほどまでの堂々たる剣士の姿はなく、十三歳のあどけない少女がただそこにいた。彼女の台詞にカミーユは平然と返す。
「お嫁に行かなくていいよ。おれが姉さんひとりくらい面倒みるから。侯爵家とのつながりなんてくそくらえ!」
そう言って振り返らずに、今度こそ館へ戻っていく。最後の言葉には侯爵家との縁談を躍起になって結んだ父親に対する反発がこもっていたようにも聞こえた。
唖然としてつっ立っていたシャンティにトゥーサンが、我々も戻りましょうか、と声をかける。
「カミーユは……あれは、反抗期かしら」
返事を求めるでもなく、シャンティはぼんやりと呟いた。