第一話-8 藍子の気持ち
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犬が喧嘩している。野良犬だな……。
はじめまして。壬鳥藍子です。
壬鳥家の長女で、高校3年生。身長158センチ、体重&スリーサイズ……ああ、これを知った者は現世から抹消されることになっていますので、余計な興味など持たれぬようくれぐれもご注意を。
学校から帰る途中、私は野良犬が喧嘩しているところに出くわしてしまった。
犬に限らず、私は最近、喧嘩を見るのがとても嫌だ。単に好き嫌いの問題ではなく、争っている人達の近くにいると、殺気立った声が頭の中に響いてきて、とても嫌な気分になってしまうのだ。
そしてそれとは逆に、楽しそうな人のそばにいると私も楽しい気分になってくる。
きっと、アレのせいだ。
よし、だったらちょっと試してみるか。
私は犬達の近くへ行くと、深呼吸をし、そして静かに声をかけた。
「喧嘩、やめな」
その一言で、犬達はピタリと吠えるのをやめた。
そしてあたりをキョロキョロと見回し、初めて気付いたように私の顔を見上げると、ワンと一声吠え、二匹そろって尻尾を振りながら寄ってきた。
「よしよし、いい子だね」
私が頭を撫でると、犬達は嬉しそうに体を摺り寄せてくる。
そして、私が立ち去ろうとしても、足元にまとわりついて離れようとしなかった。
でも、私が「じゃあね、バイバイ」と言うと、その場に立ち止まって、尻尾を振りながら見送ってくれた。
うん、うまくできた。
家に着き、門を入ろうとしたら、男の人に呼び止められた。
「やあ藍子ちゃん、今帰り?」
声をかけてきたのは、お隣の柊龍麻くん。巴絵のお兄さんだ。
私よりも2つ年上なのだけれど、小さい頃からずっとくん付けで呼んでいる。今更呼び方を変えるのもかえって気恥ずかしいから、当分はこのままかな。
龍麻くんは体が大きくて、空手も強いらしい。
でも見た目と違ってとても優しく、少し気の弱いところがある。気のいいお兄さんだ。
「こんにちは、龍麻くん。じゃ」
「あ、ねえ藍子ちゃん」
家に入ろうとしたら、また呼び止められた。
「はい?」
「き、今日はいい天気だねえ」
「そうですね。じゃ」
「あ、あのさあ、巴絵の奴まだ帰ってないんだけと、撫子ちゃんと一緒かな」
「そうじゃないんですか? じゃ」
「あ、あのっ藍子ちゃん!」
「はい?」
「あの……、こ、今度の日曜日って、何か予定ある?」
「友達と遊ぶ約束になってます」
「あ、そう」
「じゃ」
「うん、またね……」
龍麻くんは、ちょっと変わった人だ。
家に入ると、今度は撫子が玄関で待っていた。
「姉ちゃん、お帰り」
あれ?
「ただいま。撫子、巴絵と一緒じゃなかったの?」
「えっ、巴絵も一緒に帰ってきたけど。何で?」
「うん、さっきそこで龍麻くんと少し話したんだけどさ」
「龍麻兄ちゃん? へえ、珍しいね。何しゃべったの?」
「いい天気だねとか、日曜日予定ある? とか。それで、なんか巴絵に用があるみたいだったんだけど」
すると撫子が、変な顔をした。
「姉ちゃん、それ用があるのは巴絵じゃなくて」
「え?」
「まあいいや。あのさあ……」
撫子は、友達の喧嘩を仲裁した件を報告するために、私を待ってたらしい。
私は自分の部屋に戻り、着替えをしながら撫子の話を聞いた。
「……でね、大生と渚ちゃんの頭のところに変なモヤっとした光が見えてさ。
それを頭を撫でるふりしてパッパッって掃ったら、大生は平気だったんだけど、渚ちゃんはとたんにフニャフニャになっちゃって。
あと巴絵も、お尻を叩いたら頭のモヤモヤがパアって晴れて、機嫌が直っちゃったんだよ」
「それは、邪気というものだな」
「えー、なにそれ?」
「つまり邪な気、人の心の濁りみたいなもんだ。それでお前、あの力を使ったんだな?」
「ちょっとだけ。術ってほどじゃなくて、溜めていた光を少しだけ出した感じ。
それに、力の出し方もわかってきたんだよ。前は体の奥から無理やり絞り出す感じだったんだけど、最近は勝手に湧き出してくるみたいに、自然にできるようになったんだ」
なるほど、そういう使い方もあるのか。それにしても、随分と術を使い慣れてきたんだな。
「あとね……」
「ん?」
なんだかモジモジしてる。
「ついさっき、巴絵と留学生のキャンディってのが喧嘩してさ」
「あいつ、一日何回喧嘩しているんだ?」
「あたしともやったから、今日は3回」
まったくもう。
「で?」
「うん。それであの、あたしは止めようとしたんだけどさ。逆に頭に来ちゃって、あいつらのおっぱいを思いっきり引っ叩いちゃったんだよ。
その、あれを使って」
「お前なあ」
「そしたらさあ。巴絵は何ともなかったんだけど、キャンデイがショックで立てなくなっちゃったんだ」
「そんなに酷かったの?」
「うん、でもあんな風になるなんて思ってなかったんだよ。体質とかってあるのかな」
「かもね。でもそんなことより撫子、二度とそんなうかつな事はするな」
「ごめんなさい」
やっぱりこの力は危険だ。気をつけないと。
「それで、そのモヤモヤってのは赤黒っぽい濁った感じのやつ?」
「うん、そう。姉ちゃんも見たことあるの?」
「ああ、犬がさ」
「犬?」
私はついさっきあった出来事を、撫子に話した。
「で、私が喧嘩は止めなって声かけたら、そのモヤモヤがきれいに吹き飛んでさ、その犬達が尻尾振って寄ってきたんだ」
撫子が、椅子から飛び上がった。
「姉ちゃん! 術を使えるようになったの?!」
私は、首を振った。
「残念だけど、私のは撫子のとはちょっと違うみたい」
「えっ、どういうこと?」
「私のは言霊っていうんだって、お母さんが言ってた」
「コトダマ?」
「撫子のは、何ていうか、穢れを祓い浄める力だ。
でも私のは、言葉を、ただの声としてじゃなくそこに真実の想いを込めて、相手の魂に直接語りかける力なんだって。
修行してこれがちゃんと使えるようになると、どんな相手でも逆らうことなく従わせることができるらしいよ」
「すごいな、それ」
「すごくなんかないよ、こんなの。全然撫子の助けにならない。
せいぜい犬の喧嘩を止めるくらいさ。
ごめんね、撫子にばっかり負担をかけて」
「ううん、そんなことないよ。それで、姉ちゃんも修行してるの?」
「うん、お母さんが教えてくれてる。でもこの修行は時間をかけてじっくりやらなくちゃいけないんだって。
焦って失敗すると、大変なことになるって」
「そうなの?」
「力がついてくると、自分からだけじゃなくて、他の人の魂の声も聞こえるようになるってことなんだけどね」
「えっ、それって人の心が読めるのと同じなんじゃない?」
「そう。だけどちゃんと自分でコントロールできないと、周りの人の心の声が勝手にどんどん流れ込んできちゃうんだって。
それで頭の中が一日中駅のホームにいるみたいな大騒ぎになって、最後は心が壊れてしまうんだってさ。
そうなったらもうお終いだって」
「怖わ……」
「だから修行もいい加減にやっちゃいけないんだけど、やらないわけにもいかないんだ。私は跡取りだからね」
そう、うちは代々女系で、長女が跡を継ぐことになっている。私達も3人姉妹だし、当然、長女の私が家を継ぐことになる。
「ふうん、でも跡取りと言霊の修行って関係あるの?」
う、困ったな。これ、言っちゃっていいのかな。
「ええっと、実はね。うちの当主って代々言霊使いで、つまりお母さんもなんだよ」
「へえ、そうなんだ。すごいな。……あれ? てことは……」
やばい、やっぱり気が付いた。
「ああっ! あのババア!」
うちのお母さんは、我が家では絶対君主だ。昔からお母さんの言う事には誰一人逆らうことができず、どんなムチャ振りにも従わざるを得ない。
ついこの間も、撫子は大根一本買うために隣町まで自転車で行かされていたし、実はかつての撫子と巴絵の結婚式の時に、市役所に婚姻届の用紙を貰いに行ったのは、当時10歳だった私だ。あの時の窓口の人の困った顔は、今でも忘れられない。
お母さんの言葉には、単に家長だからという事だけでは説明のつかない不可思議な説得力があった。
そしてその説得力の正体こそ、言霊の力だったんだ。
「なんてこった。あのばばあ、家族にそんな術使ってたのか。じゃあ、ひょっとしてあの巴絵との結婚式も」
「それは違う!」
つい、大きな声を出してしまった。
「それは、私がちゃんとお母さんに確かめた。
あれはその逆だ。お前たちの魂の声に、お母さんの方が動かされたんだ。
いいか忘れるな、お前たちは何も間違ってなんかいない」
あれが間違いだったなんて、そんなの私が許さない。
くそ、泣き言なんか言うもんか。力がなくたって、私にも妹達の為に出来ることはきっとあるはず。
でなきゃ、何のためのお姉さんだ。
「藍子姉ちゃん……」
黙り込んでしまった私に、撫子が声をかけてきた。
ごめん、不安にさせちゃったか。
「ねえ……。巴絵……、助かるよね?」
「……あたりまえだ」