第四話-5 ママ大好き
★★★
世の中、本当に何がどう転ぶか判らない。
撫子がゴミの山から生き埋め状態で発見された日のその翌日、私達は二人そろって病院を後にしていた。
一時は、悪質なイタズラだと警察に通報するほどの大騒ぎになりかけたのだけれど、呼び出されてきた珠子お母さんが、病院中の人達を片っ端から説得して(いや説得じゃなくて洗の……まあいいか)騒ぎを収め、ついでに、後は自宅で療養しますからと、退院の手続きまでしてしまったのだ。
おかげで1か月続くはずだった拷問の日々も半分で済んでしまい、私も兄貴に迎えに来てもらって、ルンルン気分で家に戻ることができたのだった。
「ただいまー。あーっ、やっぱり我が家が一番。お腹すいたー、ママ何かないー?」
「今用意してあげるから、その前にお風呂に入っちゃいなさい」
「はーい!」
おっふろっ♪ おっふろっ♪ うぇへへ、2週間ぶりだあー。
入院中は、包帯を取り換える時に看護師さんに体を拭いてもらうだけだったから、もう体中が気持ち悪くて仕方がなかったのよね。
まずは体中を泡だらけにして、ゴシゴシと磨きまくり。ああっ、快感。
そして湯船にザブンと飛び込み、肩まで浸かってあごまで浸かって頭まで浸かって、全身でお湯の感触を楽しむ。
あはあああん、幸せぇ。もうここに住みたぁい、ブクブク……。
それからたっぷり一時間。文字通り2週間分の垢を落としてお風呂からあがると、ホカホカご飯が待っていた。
「いっただっきまーす!」
ああ、ママのご飯がこんなに美味しかっただなんて。大切な物は失った時に気づくって言うけど、取り戻した時に気づくこともあるんだわ。
テーブルの上に所狭しと並べられた料理の数々を、私は遠慮なくガツガツとかき込んだ。
「巴絵、誰も取らないからもう少し落ち着いて食べなさい」
「らって、ひょういんのひょくひってれんれんおいひくらいんらもん。ままろおはんっれほんろりおいひいろ」
「はいはい、ありがとう」
さすがママ、私が口いっぱいに食べ物を詰め込んだまましゃべっても、ちゃんと理解してくれる。
そして10分後。全ての料理を平らげた私は、コーヒーをすすりながら世界中のあらゆるものに感謝の祈りを捧げていた。
有難う神様、有難う仏様。
私を生んでくれて有難うママ。
生まれてきてくれて有難う、私。
「ふへぇー」
あー幸せぇ。もう一生ここを動きたくないぃ。
「巴絵」
「なあにぃ、ママぁ」
ふへへ、こーひーおいしひ。
「落ち着いたら、道場に来なさい。久しぶりに仕合をしましょう」
「ブバッ!」
もう少しで、カップを握り潰すところだった。
幸せの余韻は一瞬にして消え去り、顔から血の気が引いて行くのが自分でも判った。
ママは今、仕合と言った。
仕合……、仕合と……。
稽古じゃなくて……!
★★★
それから5分後、道着に着替えた私は、家の道場に立っていた。
ママが私に稽古をつけてくれることは、滅多にない。ましてや仕合なんて、2年ぶりくらいだろうか。
正直なところ、私は今にも吐きそうなくらいに緊張している。
ママが仕合と言ったら、それは手加減なし容赦なしを宣言したのと同じ。前回の時など、私はまだ小学生だったにもかかわらず、竹刀でバシバシと滅多打ちにされまくった挙句、止めに喉元に容赦ない突きまで喰らって、1週間も寝込むほどの大怪我を負わされたのだ。
「よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いしまふ」
噛んだ。
「今日は無手で相手してあげる。じゃあ、来なさい」
ママは、右手を手刀の形にして中段に構えた。左手はだらりと下げたままだ。
無手とはつまり、剣や竹刀を使わず素手で戦うということ。
剣道三倍段という言葉があるように、一般に剣と素手では勝負にならないほどその強さに開きがあるとされている。ママはそのハンデをなくすために、あえて剣を持たずに勝負しようというのだろうか。
なんて、そんなことではママの強さは少しも損なわれないことを、私は知っている。
古峰神明流において、無手は立派な剣技のひとつだ。
戦場で剣を失った状態でも戦い続けることを目的として磨き上げられたその技は、たとえ素手であっても容易に人の命を奪うことができる。
油断などできるはずがない。私は息を吐き、空手の型で構えをとった。
ママを正面から見据え、すり足でにじり寄りながら、間合いを計り隙を探っていく。
だが当然のことながら、ママの構えに隙など微塵もない。
私が一歩踏み出すと、ママが一歩下がる。私が半歩下がると、ママが半歩前に出る。絶妙な足さばきで私の間合いを殺しながら、自分の間合いを奪いに来る。
このままでは埒が明かないが、こちらに真っ直ぐ向けられた手先からは、真剣のような殺気が放たれていて、うかつに攻撃を仕掛けることなど、とてもできない。
だが、覚悟を決めるしかないのだ。
私は軽く足を踏み出し、ママがそれに合わせて下がりかけた瞬間に不意打ちで床を蹴り、一気に飛び込んで正拳を打ち放った。
それと同時に、ママも突きを放ってきた。
一瞬で私の目の前に手刀が迫り、眉間を貫かれそうになる。
後の先、つまりカウンターだ。私が踏み込んだ瞬間に、ママはそれ以上のスピードでこちらに襲いかかって来たのだ。
私は体を捻って手刀をかわしながらそれを左手で払いのけ、同時にママの開き切った脇腹めがけてもう一度拳を放った。
その拳を、ママは左手で殴りつけてきた。
衝撃でわずかに体勢が乱れたその一瞬を逃さず、右の手刀がくるりと向きを変えて、蛇のように私の喉元を狙ってくる。
私は両腕で首と顔をガードしながら、脚を180度に開いて上体ごと床に落ちて逃れ、それから大きくのけぞって、バック転さながらに両脚を蹴りあげた。
ママが後ろに跳び退り、私はそのまま一回転して立ち上がる。
「フーッ」
ママを睨みつけながら大きく息を吐く。
驚きと歓喜で全身に鳥肌が立った。なんてことだ、ママとちゃんと戦えている!
こんなことは、今まで一度もなかった。
ママは決して手を抜いている訳ではない。ママの攻撃に、この私がついて行けているんだ。
私の脳裏に、先日の事故の時の記憶が蘇った。
撫子が子供を助けようと走り出した時、私には、撫子がこっちに飛び込んでくるのが一瞬でわかってしまった。
あの子が何をしようとしてどこに向かっているのか、私はどう動けばいいのか。考えるよりも先に、全てを理解していた。
そして今も、ママの動きが見える、読める!
容赦なく襲いかかってくるママの攻撃をクルリとかわし、お返しに回し蹴りを放つ。
ママが体を沈めて逃れようとするのを、脚を捻って軌道を変え、なおも追いつめる。
ママはその足を左手でいなすと同時に右手で切りつけようとしてきた。
私はそれよりも速く脚を振り抜いて手刀を躱し、ママが続けざまに足払いで私の軸足を狩ろうとしてくるのをジャンプで逃れ、その勢いでトンボを切って、空中からもう一度蹴りを放った。
ママが身を投げ出し、床を転がって後方に逃れる。
立ち上がったママは、笑っていた。
あはっ、ママにも判ったんだ。私が以前と違っていることが!
私は息を整え、静かに目を閉じた。
瞼を通して、ママの魂の形が見える。間違いない、これはババアに教わった魂を磨く修行の成果だ。
目で追うのではなく、心で見、魂で理解する。すごい、こんなことが私にできるなんて。
心眼で見るママの魂は、まるでガラスの欠片を集めたようにキラキラと光り輝いていた。
なんて綺麗。派手なことを好まず、いつも地味な格好ばかりしているママが、こんなシャンデリアみたいなゴージャスな魂を持つなんて、ちょっと意外だわ。
眩い煌めきに思わず見とれてしまいそうになったその時、その光球から殺気とともに光の刃が飛んできた。
私は目をつぶったままそれを躱しながら、自分の勘違いに気づいて冷や汗を流した。
シャンデリアだなんてとんでもない。ガラスのように見えた無数の煌めきは、その全てが、磨き抜かれた刃の輝きだった。
意外どころかそのまんまだよ、ママ!
光の刃は次から次へと私に襲いかかり、私はその全てを目をつぶったまま躱し切った。
目に見えなくても何も考えなくても、次にどこから刃が飛んで来てどうかわせば良いのか判ってしまう。
すごいすごい、ババアにお礼を言わなくちゃ!
一息ついたところで目を開き、ママを正面から見据える。
ママがニヤリと笑った。
「やるわね」
「えへへ」
褒められちゃった。何だか照れくさい。
と、ママがズイと迫って来た。
放たれた手刀を紙一重で避け、たと思った途端、パンッと頬を引っ叩かれた。
「えっ?」
「ひとつ」
ママが呟く。一瞬、何が起こったのか分からなかった。
パンッ、ともう一度。
「ふたつ。ほら、ボーッとしない」
ママが拳を放ってくる。その軌道を読み今度こそよけた、と思ったのに、その拳は何故か私の目の前にあった。
殺られる!
思わず目をつぶりかけたところを、コツンとおでこを小突かれた。
「みっつ」
その手が目隠しするように大きく開く。たまらず後ろへ跳び下がって逃れようとしたら、着地と同時に往復ビンタを喰らった。
「よっついつつ」
「な、なななな……!」
なによこれ! 私、ちゃんとよけたはずなのに!
それから後は、やられっ放しだった。
逃げても逃げても、全然攻撃を躱すことが出来ない。避けたと思ったその先に必ずママの手や足があって、その度に小突かれ叩かれ足を払われデコピンを喰らわされ……。
ママはまるでネズミをいたぶる猫のように、執拗に私を追い詰め続けた。
「はあっ、はあっ……」
息が上がって、立っているのも辛い。痛くも痒くもないほどの軽い攻撃ばかりなのに、私は恐怖と屈辱で泣き出しそうになっていた。
ちくしょう……、こんなの……こんなのっ!
「っづあああああっっ!」
あたしは拳を振り上げ、ママに飛び掛かって行った。
駄目だ、こんな大振りなんか当たる訳がない。落ち着け、落ち着いてママの動きから目を離すな。挙動を、先の先まで読み切れっ!
パンッ。
「さーんじゅっと」
そんな私の突進を、ママは避ける素振りすら見せずに、平手一発で止めてみせた。
「ふう、大体判ったわ。そろそろ終わりにしましょうか」
私はガックリと膝を突き、涙目でママを見上げた。
「や、やっと終わり?」
「うん、まあこんなもんでしょ」
全身から放たれていた殺気もすっかり消え、いつも通りの優しいママの顔に戻っていた。
「へへ……」
私もホッとして笑い返す。
やだな、涙でママの顔が滲んで見えちゃう。それになんだか揺れているみたいに、風に流されるようにゆらゆらと…消え……っっ!
隠形!!
「ひっ」
私は考えるより速く、両手を上げて頭をガードした。いえ、正直に言います。恐怖に駆られて頭を抱えただけなの!
その私の右腕に、ガッ!と音を立てて手刀が食い込む。間違いなく、私の首を狙っていた。
「ぐぅ……」
腕がへし折れるかと思うほどの衝撃に、思わずうめき声が漏れる。
背後から、ママの声が聞こえた。
「お見事、よく防いだわ。でも残念、もう一息ってとこね」
その言葉も終わらぬうちに、首筋に爆発のような衝撃が走った。
「さんじゅういちっ、と」
『鎧通し』、単に『通し』とも言う。
防御を貫いて衝撃のみを内部に伝え、内側から敵の身体を破壊するという必殺の技を喰らって、私は一瞬で気を失っていた。




