第二話-4 不安と涙
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夏休みに入って、1週間。私の体調はどんどん悪くなって行った。
熱が全然下がらず、起き上がることすらままならない。
病院で検査を受けても何の異常も発見されず、お医者さんも首を傾げている。単なる体調不良ということもありますからと、お薬をくれるだけだ。
撫子は、毎日御見舞いに来てくれる。
けど、一体これはどういうことなのだろう。
この子は本当に私のことを心配してくれているのか、それともただふざけているだけなのか。私にも判断がつかないような状況になってしまっている。
私がこんなことになったせいで、撫子はおかしくなってしまったのだろうか。
「巴絵、大丈夫?」
今日も朝から、ずっとこうして手を握ってくれている。
撫子の手はとても暖かく、羽のように優しい。いつまでもずっと握っていたくなるくらいだ。
でも……。
「あんた、何してんのよ」
「え?」
「え、じゃないわよ、またそんなことして。いい加減にしてよね」
撫子は、片手で私の手を握りながら、もう一方の手を布団の中に突っ込もうとしていた。
いったい何を考えているのか、隙さえあれば私の胸を触ろうとばかりする。
それは以前からそうだったけれど、最近はいくらなんでもちょっと度が過ぎているよ。まるで小さい子供が、お母さんのおっぱいを恋しがっているみたい。
「なんだよ。巴絵だって、あたしの布団に勝手にもぐり込んで来るくせに」
「ふざけないで、時と場合ってものがあるでしょ。毎日毎日おっぱいおっぱいって、頭おかしいんじゃないの?」
「だって!」
撫子が声を上げる。
この真剣な表情は、とてもふざけているようには見えない。でも、やっていることはやっぱり冗談としか思えないし。
いったい何がどうなっているのか、この子の考えがさっぱり理解できない。
正直言って、撫子に胸を触られるのは嫌いではないのだ。発熱して胸が苦しい時にあの手で触れられると、妙に気持ちが安らぐのは確か。
でもあまりにもしつこいし、私も体調不良に加えて、このイライラと混乱でついキツく当たってしまう。
「だって、何よ」
「……なんでもない」
「はあ? 何言ってんの、あんた」
「いいじゃん、巴絵のおこりんぼ。そんなにおっぱいでかいから怒りっぽくなるんだよ。引っ込めおっぱい!」
「いい加減にしてっ!」 バシッ
思わず手が出た。
「う……」
撫子が頬を押さえる。その目に、涙がにじんでいるのが見えた。
うそ、どうして? ちょっと待ってよ、こんなのいつもなら簡単によけられるはずでしょ?
「撫子……、泣いているの?」
撫子が、無言で顔を背ける。
「なっ、何よ。泣くくらいなら、初めからこんな事しなければいいじゃない。あ、謝らないからね」
「うっさい! なんだよえっらそうに。巴絵のバーカバーカ!」
撫子は私に背を向けたままそう言い放つと、部屋を出て行った。
「撫子……」
その後ろ姿を見送りながら、私は言いようのない不安に駆られていた。
いったい、これは何?
自分の体調が悪いのも普通とは思えないけど、それ以上に撫子の様子が変だ。いや、撫子がということでなく、どこかが、何かが狂っている。
この違和感の正体がいったい何なのか、見当もつかない。
撫子……。あなたは……知っているの?
☆☆☆
家に戻ると、藍子姉ちゃんが待っていた。
「巴絵、どうだった?」
「熱が……、下がらないんだ。医者はただの夏風邪だろうって言ってるらしいけど、でもやっぱりおかしいんだ。
おっぱいだけが、ものすごく熱い」
「そうか。良くないな」
「姉ちゃん、あたしどうすればいいの? あたしの力じゃもう……」
「撫子、これを見な」
姉ちゃんがそう言って差し出したのは、うす汚れた一冊の古い本だった。
古文書ってやつ?
「お母さんが探し出してくれたんだ。壬鳥家の呪いと、祈りのことが書いてある」
「祈り?」
「お前がやっている術のことさ」
祈り……、祈りか。そうだ、あたしのこの想いは、祈りだ。
「ここ、読めるか?」
「無理。全然わかんない」
指さす所を一目見ただけで即答した。
姉ちゃんてば、あたしの国語の成績知ってるくせに。
「祈りの力を強くすることができるって、書いてある。これがちゃんとできれば、呪いを消し去ることも可能だって」
「ほんと? どうすればいいの?」
「判らない。言葉は判るけど、表現が曖昧で抽象的すぎるんだ」
「呪いのことは?」
「どうやら始祖が絡んでるらしいけど、これもよく判らない」
「なんで葉っぱなんかが……」
「そのシソじゃない。壬鳥家の初代ってことだよ。
お前のボケはちょっと判り辛いから、気を付けた方がいいぞ」
「え?」
「えっ?」
一瞬、顔を見合わせる。
藍子姉ちゃんが、とても悲しそうな顔をした。
「え、ええっと……。初代ってことは、今何代目なの?」
「お母さんが、四十三代目」
「うへ、何年前だよ」
「ざっと八百年かな」
「そんなに続いてんのか。こんな普通の家なのに」
「時代の流れってやつだね。元々は巫女さんだったって」
「へえ」
あたしは、ふと思った。
「ねえ、その本に書いてあることって、母ちゃんも判らないの?」
「いや、お母さんは判ったみたいだ。でも説明して貰っても、全然理解できないんだよ。
お母さんの話し方が悪いんじゃなくて、何か秘密が漏れないような仕掛けがあるみたい。マインドコントロールみたいなものかな。
それにこの件はお母さんじゃ力になれないって、言ってた。私と撫子の二人じゃないと駄目だって」
うーん、何だか姉ちゃんの言ってることもよく判んないぞ。
「この本だって、お母さんは今になって急に出してきたわけじゃないんだ。
1年前のあの日からお母さんはずっと、少しでも巴絵を助ける手掛かりになるものがないかって、古い文献を調べ続けてくれていたんだよ。
この本がこのタイミングで見つかったというのも、偶然とは思えない。きっとこれは、呪いに対抗する祈りの仕掛けが施されていたに違いないよ」
「でも、中身が判らないんじゃどうしようもないじゃん」
「ううん、ひとつだけ。お前のパワーアップの鍵となるものの在りかだけは判った」
「えっ、どこ?」
「信州長野、壬鳥神社。壬鳥家発祥の地だ。
どうする撫子、行くか?」
「考えるまでもないさ。行くよ、姉ちゃん」
「そうか。巴絵はどうする?」
「巴絵は、連れて行くわけにはいかない。説明しても余計つらい思いをさせるだけだし、それにもう、起き上がるのもキツいはずなんだ。
留守の間だけ、姉ちゃんに頼むよ」
「わかった。
けど、よく聞け。本の内容は分からない部分が多いけど、あちこちに『命を賭して』とか『魂の全てを捧げ』とか書いてある。命がけかも知れないぞ」
そう言われて、あたしはニッコリと笑った。
「姉ちゃん、初めから巴絵の命がかかってんだぜ。あたしの命くらいかけて当然……っ!」
言い終わらないうちに、姉ちゃんがいきなりあたしを引き寄せて、ギュッと抱きしめてきた。
「えっ?」
「撫子、お前は私の大切な妹だ。ほんとは危ないことなんかさせたくないよ。でも巴絵だって同じ。お前にとっても……。
やらなくちゃいけないんだよな」
「姉ちゃん……」
「いいか撫子、これは壬鳥家の為の戦いじゃない。お前の大切なものを守るための戦いだ。
他のことなんか、何も考えなくていい」
「うん、わかった。
巴絵のためなら、命をかけるくらいどうってことないよ。
一年もかかって、今度こそやっと道が見えたんだ。全然怖くなんかない。
あたしは今、とっても嬉しいんだ」
あたしは藍子姉ちゃんを真っ直ぐ見て笑いかけ、姉ちゃんはそんなあたしを眩しそうに見つめた。
その時……。
「命をかけるって……、どういうこと……。撫子!」
開け放ったドアの向こうに、巴絵が立っていた。