6才 (ケイトス①)
時系列の都合で、割り込み投稿です。
以前書こうとしていたケイトス視点のお話になります。彼の日常なので面白くな……テンション低めです。
一万五千字越えているので長いです。それなのにまだケイトス視点の話が続きます。
まとめて読んだ方がいい方は、三話ぐらいで終わるのでお待ち下さい。
9/23、誤字脱字修正しました
「そこまで!」
制止の声に、僕は相手の心臓に迫っていた剣を止めた。
お互いに離れて得物をしまい、一礼する。僕よりも十以上離れた二十歳前の少年が、大きく息を吐いて、その場に座り込む。
「また腕を上げられましたね、ケイトス様。お見事です」
制止の声をかけた厳つい壮年の男━━クーガ・ロッシが、茶色の目を和ませた。
僕は一つ頷いて、額に浮かんだ汗を袖で拭う。
「お前、弱すぎ。剣だけで負けてたら、魔法も使った手合わせじゃ瞬殺されんぞ」
「げぇっ! マジっすか?」
手合わせしていた少年と、それより年上で鍛えられた肉体を持つ青年たちが、気を緩ませて笑い合う。その様子を見ながら指導していたクーガが「まったく」と呆れた目を向けた。
「お前たち、まだ鍛練は終わってないぞ! 裏山を全力で五往復した者から朝食にしてよし! 妨害、魔法も使用可だ」
号令に十数人いた男たちが一斉に立ち上がり、動き出す。僕も行こうとしてクーガに止められたけど、「鍛練だから」と彼をかわして、山の中へと入った。何か言いたげな気遣うような目に気づいたけど、気づかなかった振りをした。
山へ入るなり、早速罠やら攻撃やらが来たけど、冷静に見て全部避けた。木の枝に上り、風魔法を使って木々を渡って加速していく。あっという間に先頭に追い付いて、妨害として炎を放たれた。
風をまとっているから余計に燃える。
だから魔法を解除して、重力のまま落下。ついでに水魔法で消火して、水の蛇で相手の体を縛る。再度風魔法を補助に、飛ばして駆けていく。一番に頂上について、折り返し。
「若、お覚悟を!」
「今日こそオレが一番にいかせてもらいますよ!」
「こうなったら全員でケイトス様の妨害だ!!」
「やれ! 若を裏山から出すな!」
……完全に目的が違っているんだけど。
まぁ、みんな楽しそうだからいいか。妨害や罠を回避して、襲ってきた奴は叩きのめして、五往復。
さすがに全員の相手は疲れた。呼吸もすっかり乱れて、早朝の比較的涼しい時間帯とはいえ、汗もかいている。服にも焦げ跡や裂けた痕跡、土や汚れが付着していた。
「ケイトス様が一番のりでございます。他の者たちはまだまだ鍛練が足りないようですね。午後は自分が久々にしごくとします」
「それなら僕も」
「ケイトス様は本日、旦那様とお出掛けの予定になっております。昼食後すぐに屋敷を出るそうなので、早めの準備を忘れないで下さいね」
僕は自分の顔が嫌そうに歪むのがわかった。当然、クーガにも見えていて、優秀な執事兼警護、護衛を統括する彼が苦笑した。
「ケイトス様。気が乗らないようでしたら、たまには休んでもよろしいかと思います。……全てをこなされてご立派とは思いますが、無理はなさらなくても……」
「無理なんてしてないよ。大丈夫だから」
慣れた笑顔を浮かべると、クーガが口を開こうとして諦めた。僕はまた気付かない振りをして、クーガと別れてシャワー室へ向かう。そこで汗を流して、汚れた質素な服から、貴族らしい上等なシャツに濃い青のベスト、ズボン、細めのリボンタイを結んで支度を整えると、朝食の席へ。
少しだけ足取りが重いのは、午後の予定を考えると憂鬱だからだ。今度はどこのお茶会だろう。あまり令嬢がいない席だといいな。笑っているのも割と疲れる。
お父様やクーガには、会話を誘導して欲しい情報を手に入れるのも戦闘訓練と同じくらいサンルテアを継ぐのに必要なことと言われて、理解もしているけど、なかなか慣れない。
思わず、ため息が零れた。
僕の家━━サンルテア男爵家は、シルヴィア王国建国時からある名家であり、『国の闇』の異名を持つ。古い貴族は知っているけれど、ここ数百年で叙爵された家では知らない者が殆どだと思う。魔物の棲む黒の森付近の資源豊かな領地を治めているのに、血筋の古さ以外に取り柄のない爵位の低い男爵家とバカにしているのはその辺にたくさんいる。
そういうのは相手にしても疲れるだけだから、放っておく。最近では爵位も買える時代だからと、調子に乗るだけの成金の相手はするだけ無駄だと、クーガもよく言っていた。━━そんなのはいつでも潰せるから、と。
新興貴族は魔力が少ないか皆無だから、領地を魔物から守るときは国から騎士を借りるか、神殿から魔法使いを借りるか、ギルドに依頼するか、の三択しかない。彼らはお金はあって羽振りがいいから。その為、近年では資産家と貴族の結婚がよくある。
その弊害で貴族でも魔力が弱い者が増えてきて、伯爵位以上はなるべく貴族同士でという制限もあった。男爵家の僕の家はそれに当てはまらないけど、古い血筋の為によく縁談が持ち込まれやすい。特に父の義理の姉に当たる人には殺到して大変だったらしい。
僕の父ジルベルトはサンルテアの分家筋で、魔力も多く優秀だったから、貴族の血筋がなくなること懸念した祖父が引き取って育ててくれたと言っていた。だから、一応サンルテアの血筋ではあるけど、僕も父も直系ではない。
祖父は実の娘に貴族と結婚して伯爵位を与えたかったらしいけど、援助した新興商会の若者に恋して、男爵令嬢である内に祖父を出し抜き、強行突破で婚姻をまとめてとっとと嫁いでいったらしい。行動力のある伯母様だと思う。
そういう事情もあってか、貴族はもれなく寄ってきて鬱陶しい。『国の闇』担当の役割や繋がりを知らない者たちばかりだから無難にこなしているけれど、社交よりも鍛練の方が楽でいい。貴族でも僕みたいに幼少から精霊魔法や武芸を学ぶのは、十本の指で足りるくらいの数しかいない。それはまぁ、サンルテア家特有のものだから仕方ないけど。
血筋しか取り柄のない男爵家を、このわたくしが、おれの家が相手にしてやってるんだから有り難く思え。そういう態度があからさまな奴らもいて、相手をするのが面倒だからお茶会は行きたくないなぁと、ため息が零れた。
王家とそれに近しい公爵、侯爵家等はサンルテアの事情をよく知っているし、裏で密接な繋がりが過去からある。だから王族との面識もあり、時々は上位貴族に混じって遊び相手になることもあった。
どうして男爵家が重要で豊かな土地を任されていて、王子や上位貴族の跡取りと縁があるのか不思議に思う者が大多数だけど、僕と知り合えばそういう旨味があるから、仲良くしておこうと寄ってくるのが多いし、王子たちに近づこうと目論む令嬢たちも僕を踏み台にするために男爵家に招待状を出してくる。
お茶会も嫌だけど、第一王子たちとの勉強も好きじゃない。既に僕が学び終わっている基礎の内容だから、つまらないのだ。それなら、一人で本でも読んでいた方がまだ勉強になった。
バレないように合わせているけど、どうして男爵家のお前がいるとか、本当は男爵家の血筋じゃないくせにとか、言ってくるのがいて鬱陶しい。優秀さを示しても、王子に恥をかかせるなんてと文句をつけてくる始末。面倒臭い。
魔法や護身術、体力作りや座学を学んでいるけど、本当に簡単な魔法ばかりで、瞬く間に息をするようにこなせてしまう。実際は苦労している振りをして教師の目を誤魔化し、演技力と忍耐の訓練と思うことにして付き合いながら。
僕が簡単にこなせるのは全部、家の方針で三歳からこつこつと習って訓練しているお陰だけれど、僕の一つ年上の殿下も含めて他の人たちはもう少し勉強と自主練習をするべきだと思う。
何も僕みたいに鍛練をこなせとは言わないから。
僕の家が他とは大分変わっていることはわかっているし、あのスパルタの量を彼らがこなせるとも思わないけど、素振り二十回で飽きたり、マナーがわからなかったり、同じ答えを何度も間違えて泣くのは本人の問題じゃないかな。
集まるのが週一だったり、半月に一度だとしても、授業内容が三ヶ月も変わらないのは、さすがにどうかと思うんだ。
このままじゃ僕より一つ年下の第二王子たちに追い付かれるかもしれないなんて思ったけど、第二王子は王子で授業サボってばかりだから問題なかった。この王子たち大丈夫かと心配になる。
一つ年上の第一王子は温厚で優しいけどそれだけで、他は人並みで特に優秀でもない。付き合いにくくはなくても、好きでも嫌いでもない。第一王子の取り巻きの中では、一歳上の宰相の息子であるイナル・エンデルト公爵子息とは比較的気が合うくらいだ。
彼も勉強は僕と同じくらい進んでいて、他と比べて落ち着いている常識人。僕の家について知っていて、「年上だけど敬語はいらないから。イナルと呼んで」と王子たちより先に、彼の家で初めて顔を合わせたとき、気さくに言われた。
取り巻きたちも彼には、さすがは公爵、宰相の息子と内心はともかく褒め称えていた。
うん、詰まるところ、貴族って面倒臭い。
思わず、またため息が出た。
辺りに誰もいなくてよかった。気をつけないと、クーガがまた心配する。
クーガは家の命令に従順できちんと完璧に令息としての役割をこなす僕が、子供らしくないと心配で仕方ないらしい。つまらなさそうで達観しているように見えると言われた。普通は手のかからないことを喜ぶんじゃないかな。
そう返したら、悲しげな顔をされた。人形を育てているわけではないと。言い得て妙だと感心していたら、それが伝わったらしく、落ち込まれた。
クーガには申し訳ないけど、僕の認識はあながち間違っていないと思う。サンルテア領を国を上手く回すための歯車の一つで、それがサンルテア男爵子息としての僕の役割。それを演じる人形。そのために今まで勉強と特訓に明け暮れてきた。
物心ついたときからひたすら貴族の常識とマナー、訓練と勉強漬けの毎日で友達を作る余裕もなく、全ての課題をこなす日々。
……つまらないとも、面白くないとも、虚しいとも、遊びたいとも感じてはいるけど、役割を放棄しようとは思ってない。
きっと僕は、勉強と魔法が取り柄なだけのつまらない子供なんだろうなぁ。それでも父や祖父、領民のために必要な役割を果たせたらいいと思う。
・*・*・*
朝食後は、勉強。
覚えることはたくさんある。国の歴史や他国の歴史、言葉、文字、算術、魔物について、各領地のこと、自分の領地のこと、それに付随する諸々のこと。日や時間帯によって学ぶ内容は多岐に分かれているけど、今日は歴史と文学。
予習していたからすんなりと授業は進んで、前回の授業内容を不意打ちで問われても、復習もしていたからあっさり答えた。
僕がきちんと授業を真面目に受けているのが嬉しくて、どの教師も感動するけど、それって普通だと思うんだよね。それとも余程、他の子息たちはのんびりしているのかな。…あり得そう。
確かにこの国は魔物の脅威はあるけど、国自体は長閑で穏やかで争いもなく平和だからか、人も空気ものんびりしている。
その裏では殺人や賊の被害もあるし、時々、大量の魔物が発生しては討伐隊が組まれて命懸けの死闘を繰り広げ、隣国やギルドの動きも常に見張っているのに。
知らない貴族と平民が殆どなのは、ある意味凄いことなんだろうな。
授業はさくさく進んで予定より早く終わった。復習した後は次の予習をして、休憩。クーガが淹れてくれたお茶を飲みながら『系統別魔法と組合せ魔法体系』を読んでいた。本当は『無属性魔法の使用歴と魔力の関係』も読もうと思ったけど、昼食まで一時間もないからまた今度にした。
僕が息抜きとして自由に過ごす時間をクーガはニコニコと微笑ましく見守ってくれるけど、屋敷の警備隊は子供らしくないとか、オレこんな本読めねえとか、普通は学園に入って高学年でさらっと触れるだけだとか、色々と言われた。
そうは言われても、魔法をもっと使いこなして強くなるには他の本はもう大体読破したし、中級、上級魔法を完璧にする必要があるから読まないといけない。確かにこの歳で読んでいる子を回りで見たことはないけど。
サンルテアの領地は、魔物の住み処、或いは産み出されていると言われている、黒の森と接している。障気に包まれた、うじゃうじゃ魔物がいる森。
だから、サンルテア領は他の領地と比べて強力な魔物が出やすい。領主の仕事の一つはその土地を魔物から守ること。祖父も父もそうやって守ってきたし、今も守っている。
とは言っても、月に一度、数匹出てくるかどうかってところなので、今はまだ大丈夫。
でも何れは、僕が守っていかなくちゃいかない。それが僕の役目だから。
普段は黒の森の隣接している村に、サンルテア家の屋敷がある。そこは城塞の役割も持っていて、常時サンルテアの私兵━━警備隊が詰めていた。
何かあればその警備隊が動いて、魔物を始末してくれる。
強くてどうにもならない場合や、数が多すぎたり、苦戦したときはすぐに領主━━父に話がいき、お父様が直接加勢に向かうか、追加部隊を送るか、何らかの手を打ってくれる。
大抵は父一人で全部片付けて終わりだが。
その他に、『国の闇』としてサンルテア家の仕事は荒事もある。はっきり言うと、隠密行動と諜報活動が大得意であり、脈々と与えられた仕事である。詐欺やスリから殺人、暗殺者の犯罪組織やギルド、普通の人には言えない大なり小なりの悪事に精通していた。
勿論、犯罪に関わってはいない。たまに情報を利用したり、取り締まったりしているけど、そういう薄暗い場所で生きる人たちと共存している訳じゃなくて━━『国の闇』を監視している。
『国の闇』で生きる人たちは、サンルテアを敵に回すことはしない。それは建国当初からの暗黙の了解。
その不文律を破って派手にやらかした新参者や馬鹿は、文字通り闇に葬られて存在を消した。
言わばサンルテアは国と闇組織の仲介役。特に闇組織に何か命令したり、関わることもせずに『国の闇』を見張っている。
貴族の悪事や大きな犯罪、凶悪な事件、そういったことが起こると、見張らせていた配下の諜報機関『影』を通じて情報を得ては、証拠を集めて大々的に公開、或いはひっそりと闇に葬る。
そうして闇の秩序を守り、国が乱れるのを阻止していた。だからシルヴィア国は、他の国と比べて異様に犯罪率が低く、民や旅行者が怯えることなく、安心して過ごせる国としてとても有名だった。
特にお祖父様の代から比較的に治安が安定したらしい。戦争も隣国との小競り合いもない。シルヴィア国に隣国も諜報員を放ち、こちらも隣国や力あるギルドに諜報機関『影』の諜報員を放っているが、国の駆け引きや情報戦は毎回、シルヴィア国━━ひいてはサンルテアのもたらす情報で有利にことを進めていた。
僕は今、王都の現場で色々経験を積んでいる最中だ。でも父の後を継いだら、それらが全て僕の管轄になる。
今から気が重い。時々、現場でも子供だからと舐められる。まぁ六歳だし、サンルテアだって名乗ってないことも原因の一つだろう。
本を読み進めていると、クーガが声をかけて入室してきた。時計を見ると、もうすぐ午前十一時半になる。そろそろかと、僕は読みかけの本に栞を挟んだ。分厚いのも在るけど、上級者向けだからか内容が細かくて難しい。大抵は忙しくても二日で読めているのに、『系統別魔法と組合せ魔法体系』には珍しく手こずって今日で四日目だ。たぶん今日も読み終わらない。
「ケイトス様、旦那様がお戻りになられました。テラスで昼食を頂きながら、お話があるとのことです」
「ふぅん。珍しいね。わかった、すぐ行く」
本を机に置いて立ち上がった。
クーガの横を抜けて、部屋を出る。そのまま僕は一階のテラスに足を向けた。その後をクーガが付き従う。
日が燦々と降り注ぐテラスでは、既にお父様が席について待っていた。明るい日の下で見ても男前で、女性たちが騒いで放っておかないのもわかる。
艶やかな青緑の髪に、水面の瞳。立てばスラッとした高身長に長い四肢。綺麗な顔が微笑を浮かべた。
二十歳になる前に結婚して、男爵位を継いだ尊敬しているお父様。お母様が去年、病死してから唯一、僕と血の繋がりのある人だ。こうして顔を会わせるのは三日ぶりだった。
僕は挨拶して、向かいの席に座った。昼食が円いテーブルの上にところ狭しと並べられていて、早速食べ始める。
黙々と香ばしいパンを口に含み、さっぱりした風味のサラダを食べ、冷たいスープを飲み、一口サイズの肉と魚を皿に添えられたソースに絡めて食す。
ひたすら量の少ない軽めの昼食を食べていると、綺麗にペロリと平らげた父が、レモン水を飲んで一息ついてから、おかわりを要求して口を開いた。
「こうして一緒に食べるのも久し振りだな。ケイがどの授業も訓練も優秀だとは聞いているよ。お茶会や他の貴族方やご婦人の評価も頗る良いようで安心した。………任務の方も時々参加して、着実に力をつけているみたいで、ケイにならいつ爵位を譲っても大丈夫そうだ」
突然の話に、噎せそうになった。レモン水を飲んで、落ち着く。
「……冗談は程々にしてください。僕はまだまだ未熟ですよ」
「そうか? わたしが六歳だったときよりも遥かに優秀でしっかりしているよ」
「お父様がサンルテア家に養子に入られたのは、八歳の時でしょう? 比べる基準が違いますよ。僕は嫌ですからね。爵位なんてこの歳では重すぎますから。煩わしいからって押しつけようとしないで下さい」
「そうか。残念だな」
お父様が苦笑した。
パンに少しの野菜と肉が挟まれたおかわりが運ばれてきて、躊躇なく手で鷲掴んでかぶりついた。
「それでお父様、今日はどちらに出掛けるんですか?」
「今日はわたしの姉のところに挨拶にいこうと思ったんだ。ケイの従兄弟に会うんだよ。赤ちゃんのときに会ったきりだから、ケイも覚えてないだろう?」
「従兄弟……覚えてません」
少し考えてみたが、赤ちゃんのときのことを覚えているわけがない。性別も顔立ちも何も知らなかった。お父様が一つ頷く。
「そうか。来月頭に六歳になる女の子でね、とても愛らしく優秀だそうだよ。ここでクーガの師であり執事だった厳格なジャックが、逆らえないらしいから見物だな。クーガの娘のメイリンが姉の侍女をしていて、その評価もいいから楽しみだ」
「一つ年下の女の子……」
正直、あまり興味なかった。
この年頃の女の子の反応や興味あることは貴族も平民も同じだろう。かっこよくてキラキラした異性の話で盛り上がり、宝石や装いや自慢話。お茶会で聞くたびに、はっきり言ってうんざりしていた。必要なことだから笑顔でこなすけど。━━こういうところがクーガに子供らしくないって言われるのかな?
「……その子がサンルテア家の直系ですか?」
「うん、そうなる。今の身分は平民だけどね」
「お祖父様は、………。その子を…」
「どうするつもりなのかは聞いたことないな。でもあくまでわたしの予想だけど、もしかしたら母子でドラヴェイ伯爵家で引き取るつもりなのかもしれない。のんびりした気風だから、七歳、八歳、下手したら十歳くらいからでも貴族として教育すれば間に合うからね。勿論、早いに越したことはないけどムーンローザ商会は貴族も相手にしているし、シェルシー姉様のことだからしっかりと立ち振舞いは教育していると思うよ」
「……それは僕の…」
婚約者としてだろうか、それとも駒として他の貴族へ嫁がせるためだろうか。自分の気が滅入って言葉を濁すと、察したお父様が苦笑した。
「それはまだわからないかな。可能性はあるけど、お祖父様はきっとケイにも貴族の令嬢との婚姻を進めてくると思うよ」
「お父様のときのようにですか?」
「…おそらく」
お祖父様はサンルテア家の分家とはいえ、貴族の末端と揶揄されるお父様の地位を磐石にするために、血筋のよい伯爵家の従順な淑女であるお母様を婚約者にした。そのお陰で僕はお父様ほど陰口は叩かれない。
精霊魔法をそれなりに使えた能力の高いお母様は生粋のお嬢様で、本当にフォークやナイフよりも重いものを持ったことがない人だった。特別美人ではないけれど華奢で儚くて、生きているのか死んでいるのかわからないほど静かな人で、僕は少しだけお母様に会うのがいつも怖かった。
大切にしてくれていたけど、「サンルテアの子息として役割をしっかり果たすのですよ」と口癖のように言い聞かせられた。
元々社交好きでもなくて、滅多にお茶会にも夜会にも出席せず、僕が生まれてからは一度も出たことがなかった。だからサンルテアと聞いて人々が話題にするのは、社交界の華と言われたシェルシー伯母様か、その義弟である華やかな跡取りのお父様のことだった。
政略結婚だけど夫婦の仲は良好だったし、お父様もお母様もお互いを大切にしていたから、お父様に言い寄る女性がたくさんいても浮気とかはなかった。お祖父様も両親も愛情を注いで僕を慈しんでくれた。他の家に比べれば幸せだと思う。
咄嗟に、平民でもサンルテア直系の娘である従兄弟と僕を結ばせようとしたのかと考えたけど、可能性としては低そうだ。お父様ほどではないけど、多少は言われている僕の現状をお祖父様は把握しているらしい。
さすがは情報統制局長官のドラヴェイ伯爵。
僕の立場を揺るぎないものとするために、しっかりした貴族の令嬢との縁談を考えてくれているのか。そうなると、残る他の可能性は駒としてどこかに嫁がせるため? でも家族好きの祖父がそんなことするかな…? 他の可能性は……。
「お父様。伯母様に婚約者がいらっしゃったりは」
「いなかったよ。本来であれば早くに決めなくちゃいけなかったし、あちこち…それこそ格上の公爵、侯爵家からも申し込みがあったようだけどお祖父様は保留にしていた。噂では王家からも側室として打診があったと言われていたな。王家至上主義でいつも家に帰ってこない父親、と言っていた姉には伝わっていなかったけど。お祖父様は娘をそれは大事に大事にしていて、きっとしっかり吟味して姉にとっての最良を選ぼうとしていたんだと思う。だから実はいた姉の婚約者の家に、身代わりとしてその娘を差し出そうってことは考えていないだろう」
「そうですか」
少しだけほっとした。
まだ見ぬ従兄弟が、大人の事情で変なことに巻き込まれなくてよかったと思う。
でもそれじゃ、お祖父様は何を考えているんだろう。僕にはまだらわからない。
視線を感じて顔を上げると、いつの間にかおかわりを食べ終わったお父様が微笑ましげに笑っていた。……何だか、恥ずかしい。
「それじゃあそろそろ、ケイが気にしているサンルテア直系の姫に会いに行こうか」
「……唯一の親戚で従兄弟ですから」
あくまで気にしている理由はそれだけ。
お父様の実家は両親が既に亡くなって没落。他に家族も親戚も居なかった。ただ一人、手を差し伸べてくれたのがお祖父様。
お母様の家も由緒ある伯爵家だけど、爵位を継いだ兄が病気で亡くなり、その後あまり縁のない遠い親戚が継いで、領地経営も新事業もうまくいかずに屋敷まるごと売って借金返済して爵位も返上。
つまり、親戚と呼べる血縁関係者が僕にはいない。
その従兄弟と僕は厳密には血が繋がっていないけど、それでも公式の親族だ。
お茶を飲んで早めの昼食を終わらせた僕とお父様は、用意された馬車に乗り込んで、唯一の親戚の家に向かった。
車内ではムーンローザ商会のこと、親戚のムーンローザ家の人の話を父から聞いているうちに、目的地に到着した。
貴族街でも外れにあるサンルテア家と、平民でも富裕層で比較的にいい土地に広く館を構えたムーンローザ家は、馬車でゆっくり三十分ほど。急げばもっと短縮できるだろう。
門から馬車のまま入っていき、ロータリーを回って離れた玄関へ向かった。
その玄関では貴族ほどではないが立派な馬車が停車されていて、年若くて軽そうな従僕と、三十路くらいの豊かにうねる黒髪を背に流した、露出が高く派手な装いの女性が親しげに話していた。
他に白髪混じりのロマンスグレーの髪を撫で付け、厳しい鉄仮面のような表情で、直立不動の体勢を玄関扉の前で保つ燕尾服を着こなした渋い男性が、冷ややかに従僕と女性を見ている。
「ケイ。あの強面の生真面目で厳しそうなご老人が、クーガの師でありサンルテア家の先代執事をしていたジャックだ。厳格が服を着ているような人で、一流の執事でもある」
「……お父様、悪意ある紹介なのは気のせいですか?」
「気のせいだな。わたしも彼にはマナーやその他色々とお世話になった」
「…そうですか」
僕は深く聞かずにそのまま流した。
こういう場面でさらりと流すのは必要な技術だと思う。余計なことを聞いて話が長引くのも、愚痴を聞かされるのも、首を突っ込むことになるのも、関わり合いになるのも、嫌というほどお茶会や貴族の社交で見聞きしてきた。
老齢の執事が、玄関前のアーチに止まった僕たちの馬車の方へ近づいてくる。御者と言葉を交わしてから、外側から馬車のドアをノックされた。父が応えると外側からドアが開いた。
「お久しぶりにございます、サンルテア男爵。ようこそおいでくださいました。奥様が応接室にてお待ちしております。ご案内いたしますので、そちらまでご足労くださいませ」
一分の隙もないきっちりとした礼から始まり、感情の読めない固い声の挨拶。風格ある人だと思った。さすが、クーガの師であり、サンルテア男爵家の執事を勤めていた人物。
僕にも優雅に丁寧に、一人前の貴族として扱って挨拶をしてくれた。
父と僕が馬車から降りると、まだ話している従僕と女性がいた。その女性が驚いたように馬車の紋章と父を見た。そのままさっと体ごと父から目を逸らす。
僕はその不思議な反応に小首を傾げた。大体の女性が父に見惚れるのに。
「どうした? 顔色が悪いぞ」と気安く男が女性に触れて、こちらに挨拶をすることもなく、共に馬車に乗り込もうとした。
それをジャックが咎め立てた。
制止の声に男が鬱陶しげにジャックを見て、渋々口を開いた。
「アイリーンの体調が悪いようなので少し付き添ってきます。商会まで近いですし、旦那様の許可をいただけば問題ないでしょう」
言うなり、女性を促してさっさと馬車に乗り込んだ。僕と父は唖然としていたと思う。
頭が痛そうなジャック。厳しい顔つきが更に険しくなった。馬車を睨むように見て、すぐに僕たちに向き直り、頭を下げた。
「当家の使用人が大変失礼いたしました。最近新しく入った新参者で、まだ教育が行き届いておらず、ご不快に思われたことでしょう。お詫び申し上げます。今後はしっかり教育に勤めますので末端の些末なことと、広い心でお目こぼし下さいませ」
「構わない。それより案内を頼むよ」
「ありがとうございます。それではこちらへ」
父の許しにほっとすることもなく、促すジャック。後に続いて玄関扉に移動した。ジャックが扉を押し開けて━━ゴン。
鈍い音と同時に、扉が少し開いた状態で止まった。
ジャックが「失礼します」と僕たちに一礼して、少し開いた玄関扉の向こう側を覗き、慌てたように扉を開け放った。
僕たちの存在を忘れたように、青ざめたジャックが玄関ホールに足を踏み入れ、額を押さえて踞る少女の前に膝をついて座り込む。その後に続いて父と邸内に入り、扉を閉めた。
二人を見て、起こったことが把握できた。……あれは、地味に痛いやつだ。僕は少女に同情した。
「━━お嬢様!? 申し訳ございません!!」
完璧な執事と思った人が、盛大に取り乱していた。泣きそうな顔でオロオロしている。ちょっと意外に思いつつも、それは仕方ないかなと思い直す。主の子供に、それも女の子の顔に怪我でもさせたら一大事だ。かつて、お茶会で似たような場面を見たことがある。
使用人とぶつかって転んだその子は、大勢の客の前で使用人を悪し様に罵り、突き飛ばして転ばせてその場を去り、すぐにクビにしていた。
隣では、完璧な執事と評していた父が目を丸くして、気が動転しているジャックを見ていた。
僕もすぐに正面に視線を戻した。
この家でジャックがお嬢様と呼ぶ人物。それは、僕の従兄弟だけだ。当然、気になる。
額を押さえてしゃがむ従兄弟は、リボンのついたブラウスに青いスカート、楚々とした可憐な装いに動きやすい焦げ茶のブーツを着用していた。
春の萌芽を思わせる柔らかな薄翠の髪を、高く一つに紺色の細いリボンで括っている。
ジャックの声に手を外して上げた横顔は、驚くほど整っていた。陶器のように滑らかで白い肌に、すっと通った鼻筋と淡く色づくまろやかな頬、桜色の唇。優しい穏やかな星の光に似たシャンパンゴールドの大きな瞳は、涙目でもとても澄んでいて印象的だ。
美を保つことに余念がない貴族の令嬢たちをたくさん見てきたが、その中でも群を抜いている。というか、比べるべくもない。
美少女だと誰もが頷くだろう。
そんな従兄弟が真っ青な顔で慌てふためく執事を、当惑したように見ていた。この令嬢は、どう声をかけてこの場を収めるのかな。興味がわいた。
「…ジャック」
「はい。大変申し訳ございません!!」
土下座したジャックに、僕は数分前までのベテラン執事像が揺らいだのを感じた。
執事の土下座に従兄弟のシャンパンゴールドの目が、零れ落ちそうなほどまんまるになっている。そして、先程までのジャックのオロオロがうつったのか、従兄弟もオロオロ、アワアワ困っていた。傍から見たら、可愛らしい。
従兄弟は目の前にあるロマンスグレーの髪に当惑して、まだ涙目のままだ。
「と、とりあえずジャック、落ち着いて。わたしも悪かったから、ごめんなさい。わたしは大丈夫。怪我はないから」
少女も悪いというか、運がなかった。それだけだろう。とは言え、多少なりとも執事に非があるのに謝ったことに、僕はちょっと驚いた。どうやら彼女は高慢ちきな性格ではなさそうだ。責め立てるよりは好感が持てる。
今にも遺書を残して命を絶ちそうなほど青ざめて震えていたジャックが、「失礼します」と恐る恐る従兄弟の前髪を上げて、この世の終わりのような顔をした。傷でもあったのかな。
そう推測していたら、ジャックが再び土下座した。
僕と父はすっかり存在を忘れ去られ、弱りきった顔の美少女とジャックのコントのようなやり取りが続く。同時に、僕の中で父から聞いたジャックの姿が脆く崩れ去っていった。
「申し訳ございません、お嬢様!! お嬢様のご尊顔に傷をつけるなど、執事失格にございます! すぐに辞表を提出します!」
「えぇっ! そんなの大丈夫だよ!? 血も出てないし、腫れただけだよね? その内治るから、早まって辞めるなんて言わないで!!」
「なんと勿体ないお言葉! ですがいけません! それは美しく育つ未来のお嬢様に万が一その傷が残ったら━━自首して参ります」
「犯罪にならないよ!? ただの事故だからね!? あ、それにほら、このくらいの怪我や傷なんてカルドたちと遊んでいたら、普通でしょ? 子供の名誉の勲章みたいな?」
うまい例えを言ったと従兄弟の顔に安堵が広がるが、ジャックは怖いくらい能面になった。……さすがクーガの師。あまりの迫力に震えそうになるのを、拳を握って耐える。
僕は大丈夫だけど、ただの女の子にこの圧力は辛いはず。きっと気絶してしまう。
「……お嬢様にコレ以外の傷をつけるなんて…。少々お待ち下さい、あのクソガキを締めて参ります」
「怖いからやめて! 大丈夫だよ、もし大きな傷になったら責任とってくれるって━━怖いから!」
「お気になさらず。ちょっとあのガキを始末して参ります。お嬢様を貰おうとは何と厚かましい!」
「大丈夫だよ!? 自己責任だからって言っておいたし、遊びで嫁に来いって冗談で言われてもサリーもわたしも断ったし、おばさまにもお断りしたから!?」
どんどんジャックが、リアルタイムで鬼の形相に変化していく。もはやホラーだ。ひたすら怖い…。これじゃ普通の女の子は怯えて意識を失って………混乱しているけどまだ大丈夫みたいだ。この殺気を抑えた圧力の中で━━凄いな、この従兄弟。
がしっと真剣な表情で、ジャックに肩を掴まれて諭されている。
「さすがです、お嬢様。他に誰が何を言おうとも相手になさらないでください。しつこく言ってくる輩は必ずこの私に教えてくださいませ」
「う、うん?」
「特にあの酒屋の長男も油断できませんので、十分に気をつけて下さい」
「アランお兄さん? カルドよりも落ち着いていていい方だよ。本当の妹みたいに良くしてくれて、うちの子にならない? って。あんなお兄さんなら欲しいけど、カルドみたいな兄弟はいらな━━って、怖いから!」
「全く油断も隙もない! お嬢様、よろしいですか。今後あの二人とお嬢様だけで接触するのは危険でございます」
「心配いらないよ? この家の子以外になるつもりないから!」
………。「うちの子にならない?」って、その兄の嫁になればその酒屋の家の子になるってことだよね。ああ、この従兄弟は気づいてないんだ。ジャックを引き留めようと必死で。
無意識か運がいいのか、その時の返答もちゃっかり回避しているようだし。
「ご英断です。ですが今後は、あの兄弟の家にも入らないで下さいませ」
「あの、でも今日これから遊びにいくの。前から約束していたから」
ジャックが項垂れて、終わりだと床に突っ伏した。顔を両手で覆って落ち込んでいる。その背を撫でながら、慰める従兄弟。━━何なんだろうコレ…。だいぶ話の趣旨が変更されている。
辞職して死ぬことまで考えていた執事の意識が別のことに向いたから、これはこれでいいのだろうか?
「しっかりして、ジャック! 怪我なら大丈夫だよ? このくらいなら仮契約の精霊魔法でわたしも治せるから」
従兄弟のその一言に、僕は純粋に驚いた。確かまだ五歳だったはず。それなのに精霊魔法? しかも基礎魔法の中でも難しいとされる光の治癒魔法?
半信半疑で見守っていると、従兄弟は淡く光る右手の指先で自分の額に触れた。「治癒の光」と言葉を紡ぐ。従兄弟はそのまますぐに前髪を上げて治癒の成果を見せ、目を丸くするジャックに笑いかける。
僕も目を丸くした。隣で父も息を飲んだのがわかった。
「治ってるでしょ? だからもう気にしないで。これからもこの家に居てね」
「お嬢様……」
「それじゃ出掛けてくるね」
「お嬢様……」
感動から急転直下。意思消沈するジャックに、従兄弟が戸惑っていた。ほとほと困っている様子を見守っていると、くつくつと喉を震わせる笑声が隣から響いた。
従兄弟が驚いた顔で、こちらに顔を向けた。正面から改めて見ても、綺麗な子だと思う。今まで綺麗だ、可愛いともて囃されていた令嬢たちが霞むくらいに。
従兄弟の穏やかな星の輝きのような目は、愉快そうに笑う父、ジルベルトに向けられていた。
艶やかな青緑の髪に柔らかな光を宿した水面の瞳。身長が高く、立ち姿も微笑む姿も様になっているお父様。急にこちらに向けられた目に戸惑った僕は、無意識に父の影に隠れた。
ようやくこちらに気づいた従兄弟は、呆けたように父を見上げていた。見惚れているのとは違い、サーっと顔面から血の気が引いていた。それから顔を僅かに動かしてジャックを見ると、ようやく正気に戻った彼が自然に立ち上がって埃を払い、スッと深くお辞儀をした。
さすがはベテラン執事。さっきの取り乱した姿が見間違いに思えるほどスマートな所作だ。
「大変お見苦しい姿をお見せして、誠に申し訳ございません。気が動転してしまいました。また長々とお客様をこのような場所に留めてしまったのは、ひとえに私の不徳の致すところでございます。平にご容赦下さいませ」
深く頭を下げたままのジャックを父の影から見て、申し訳なさそうな従兄弟の様子を観察した。
彼女の落ち込んだ様子が一転して、鮮やかに決意の表情に変わった。
ジャックに庇われていた立ち位置で、震える拳を開いて深呼吸すると、従兄弟はぐっと顔を上げて、ジャックよりも少し前に踏み出した。まるで庇うように。
従兄弟がスカートをつまんで、淑女の礼を取る。同年代の貴族の令嬢に劣るどころか完璧な挙措だった。
「お初にお目にかかります。ムーンローザ家の長子リフィーユ・ムーンローザと申します。不躾に言葉をお掛けしましたこと、まずはお詫び申し上げます。また本日はお越しいただいたにも関わらず、大変お見苦しい姿をお見せしてしまい、誠に失礼いたしました。何分まだ若輩者故、お客様の広い心でご寛恕頂きたく存じます」
ジャックが驚いた顔をしていた。それからすぐに従兄弟の意図を読み取り、黙礼して下がると近くの部屋に入っていった。おそらく伯母様がいる応接室だろう。
父が挨拶を返す。
「丁寧な挨拶、痛み入ります。初めましてリフィーユ嬢。わたしは━━」
「ジルベルト」
澄んだ声がして、オリーブ色の髪と目をした生き生きとした美しい女性が玄関ホールに現れた。着飾った貴婦人たちよりも洗練された優雅さを持つ、女神のように麗しい女性。その女性を見たお父様が、珍しく破顔した。その表情に僕は驚かされた。
「お久しぶりです、シェルシー姉様。社交界の華と言われた頃と変わらず、お美しいですね」
「ありがとう。あなたも随分と口が達者になったのね、ジル━━いえ、サンルテア男爵様」
僕は思わず、父と親しげに会話する女性をまじまじと見た。この方がサンルテアの宝と言われたシェルシー伯母様。未だに社交界の華と噂されるのも納得がいく。
お父様が微笑んで、従兄弟の頭を撫でた。
「あんなに取り乱したジャックの姿は初めて見たよ。いつも常に真面目な紳士が服を着て歩いているような人物だったのに、大切なお嬢様が関わるとだいぶ人格が変わるらしい」
悪戯をして揶揄する少年のように、お父様が楽しげに笑った。
ジャックは涼しい顔で直立したまま、最初に会ったときのように一分の隙もない。きっとこれが本来の姿なのだろう。
「ジャックの気持ちはわからなくもない。こんなに愛苦しい少女にも拘らず、精霊魔法を使えて、礼儀も度胸もあるなんて素晴らしい!」
父にべた褒めされた従兄弟が恥ずかしそうに視線を下げて、上ばかり見ていた綺麗な双眸と、ふいに目が合った。
驚き当惑する従兄弟に、伯母様が僕に気づいてにっこり笑った。僕も笑って受け流しつつ、黙ったまま様子を見守った。
「リフィちゃん、こちらはあなたの叔父と従兄弟よ。会うのは初めてだったわね。ご挨拶は…済んだのかしら?」
「先程、お手本のように素晴らしい挨拶をしてもらいました。初めまして、リフィ。そう呼んでもいいかな?」
「はい」
緊張した様子の従兄弟に、父が笑う。
「ジルベルト・サンルテアです。気軽に叔父様、ジル叔父様と呼んでくれて構わない」
「リフィちゃん、うちは代々二つの爵位を賜っていて、あなたのお祖父様が引退すれば、叔父様は伯爵になるの。その内に伯爵家のお祖父様にもご挨拶にいきましょうね」
「…はい、お母様」
伯母様の説明に、やや引き吊った笑顔で返答するリフィーユ嬢。ひょっとして、お祖父様や僕たちのことを話に聞いていなかったとか?
そう言えば、今日これから出掛ける予定だったようだし、ジャックにも出掛けると言っていた。初めて会った父への挨拶も、叔父ではなくお客様を相手にしたような態度だった。………もしかしなくても、本当に知らなかった…? というか、この様子だとサンルテア家の裏の顔も知らなさそう。
いきなり紹介されて驚いているはずなのに、そんな素振りを見せず父に一礼するリフィーユ嬢。
「よろしくお願いいたします、ジル叔父様」
「ああ、よろしく。こっちはわたしの息子で、きみの一つ年上の従兄弟になる」
お父様に挨拶を促された僕は、胸に手を当てて一礼した。いつもやっていることなのに、今日は少し緊張した。
「ケイトス・サンルテアです。初めまして、シェルシー伯母様。リフィーユ嬢。どうぞ父ともども今後ともよろしくお願いいたします」
微笑むと、リフィーユ嬢も微笑み返してくれた。握手を求めれば、応じてくれた。柔らかなシャンパンゴールドの瞳が、真っ直ぐ僕を映していた。
その表情が一瞬、沈痛そうで痛ましげなものを見るように変わる。それから、決意を秘めたものへ。
どうしてそんな顔をしたのか、興味をひかれた。
リフィーユ嬢は白く繊細な手で僕の手を握ると、ぐっとしっかり強く握った。剣だこのある女の子らしくない手。だけど、サンルテアの家では慣れ親しんだものだった。
なんだか僕の従兄弟は、普通の女の子ともただの令嬢とも違うみたいだ。
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。