37, 10才 ①
集中が切れて、わたしは紙面から顔をあげた。
ベッドに入って読んでいた本を閉じ、サイドテーブルに置いて置時計を見ると、午後十時になる。ベッド上の右隣には、丸まって眠るアッシュがいた。
静かな敷地内の気配を探る。今日もケイは戻らないようだ。
ケイが地方の視察や任務で二、三日や一週間いないことは度々あり、珍しいことじゃない。その為に、『影』の執事として今週はマシュー、傍にはアッシュがいた。
わたしは柔らかな灰白色の毛並みを撫でた。……このモフふわ具合…至福…。枕にしたい…。
何となく感じた胸騒ぎが落ち着くまで、温かい体毛を撫でていると、アッシュが薄く目を開いた。
「…寝ろ、ケイなら心配いらねー」
「うん、お休み」
わたしの返事を聞くと、アッシュはまた寝息をたて始めた。
日中はまだ暖かいとはいえ、中秋だ。わたしは毛布をアッシュにかけて、布団に潜り込んだ。
二日後の朝、マシューから話を聞くまで、それは能天気にしていた。
・*・*・*
「ケイっ、無事っ!?」
怪我人が寝ているとかそんな気遣いも頭から飛ぶほどテンパっていたわたしは、勢いよく扉を開け放った。
義賊とは名ばかりの強盗団捕縛のために、父ジルベルトの手伝いで地方に赴いていたケイ。その彼が命に別状はないものの負傷してサンルテアの屋敷に戻った。
今朝マシューから聞かされたわたしは、午後になってから駆けつけた。
本当はすぐ行こうとしたけど、アッシュに一度落ち着けと止められた。お前が行ったらケイが休めねーだろ、と。きっとまだ安静にして寝ているから、休ませてやれと正論を言われた。
けれど矢も盾もたまらず、その場で通信機をクーガに繋げて確認したら、運び込まれた一昨日は疲労で寝ており、昨日から目覚めて仕事と鍛練をこなしているから大丈夫だと聞いたが、そんなの関係ない。
ナニソレ。
どうして、もっと早く教えてくれなかったの!? 既にその場で治療を終えていたからって、何で!
クーガが両親の指示であり、わたしが心を乱して暴走しかねないと考えたケイの命令だったと、申し訳なさそうに教えてくれる。
その言葉に、わたしは思い出したように深呼吸した。無意識に魔力が溢れ出していた。
アッシュの言う通り、少し冷静になろうと暴れそうになる魔力を抑え込む。ここで暴走させたら、城で軟禁生活だ。ケイの管理責任が問われる。
咄嗟に抑え込んだ魔力を発散する為にも、ケイの為にも、体にいいものを用意しようと考え、魔力、体力回復にいい神聖な空気の場所━━精霊界の入口近くに生るヒシラという青い木の実を採りに行こうとしたら、アッシュに止められ、「オレが採ってくるから大人しくしていろ」と言われた。
「戻ったら一緒に見舞いに行くから、絶対に一人で先走って動くなよ、いいな?」
「……」
「絶対に、だぞ。いいな?」
「……」
「約束しないなら、実を採ってくるのやめるぞ」
「大人しくシテマス」
弱味につけこむとは卑怯な!
満足げな様子に納得いかず、異界に戻るアッシュに同行しようと目論んでいたら、久し振りにグラウンとチョコが遊びに来て、立派なもふもふに目を輝かせている間に出し抜かれて、置いていかれた。いつの間にか二匹も去っていた。━━アッシュめ! 絶対に後で、どピンクのフリフリの服を着せてやる!
わたしはマシューに訓練相手になってもらうことにした。
マシューに知らされたのも昨夜遅くだから仕方ないけど、八つ当たりだって重々承知しているけど、抑え込んだ魔力を発散したけど、それでも遣る瀬なさや焦燥は柔いでくれなかった。
一応、八つ当たりしたマシューには謝って、特製のお茶を淹れて飲ませた。ダイジョブ、たぶん死んでない…。
寝ているケイを邪魔したくないので、わたしはもう一度深呼吸して落ち着き、いつも通りを装って午前中は劇団『ステラ』に顔を出した。リハーサルを見て、地方公演の費用概算や領収書を計算していたけど、気もそぞろで何度もやり直す羽目になった。
自分にため息を吐いたら、見守りをお願いした下級精霊たちからケイが目覚めたと知らせが入った。わたしはキリのいいところまで仕事を片付けて、事務所を飛び出す。アッシュとの約束も忘れて、一人で男爵邸へ向かった。
従兄弟の部屋に入るとベッドはもぬけの殻。クーガに図書室にいると聞き、慌ててそちらへ走った。「リフィーユ様」と驚かれるけど、今日は淑女はお休みなんです!
早く無事な姿を見ないと落ち着かなかった。
人気のない図書室の前に辿り着き、辺りの静謐な雰囲気に逆らえず、わたしは呼吸を整えた。ちょっと緊張しながら、そっと中に入る。窓辺から日が差す中、白シャツに茶色のベスト姿のケイが本を片手に佇んでいた。
日の光に肌が透けて綺麗だったが、幻のようにすぐ消えてしまいそうで、固唾を飲む。声をかけられないでいると、気づいたケイが顔を上げて優しく微笑んだ。
「リフィ」
呼ばれた名に、わたしは詰めていた息を安堵と共に吐き出して駆け寄り、その勢いのまま抱きついた。━━生きてた、無事だった。
自然にほろりと涙が零れると「相変わらず泣き虫だね」と苦笑された。そんな事ない、と反論しようとして、ケイの前では自分でも毎回ドン引きするくらい大泣きしているなと思い直す。
「生きててよかった…」
もう一度抱きつくと「大げさ」とケイが宥めるように背中をポンポンと叩いた。「心配かけてごめん」とも。
今頃震えるわたしを安心させるように、抱き締め返された。
色々と文句があったけど、無事な姿にそんな事も吹き飛んで、ただただ安堵した。
わたしは肩口に顔を埋めながら、ケイだー、と詰めていた息を吐き出して、サンルテアの石鹸の香りがする服の匂いにほっとする。……あ、いえ、変態じゃないですよ。邪な心は少ししかありません!
落ち着くまでケイに背中を撫でられながら、「ベッドで休んでなくて大丈夫? 怪我は? 痛みは?」と矢継ぎ早に問うと、廊下が騒がしいことに気づく。それももう部屋の前だ。ケイの無事に全神経が集中されていたから反応が遅れた。
ガチャリ。
図書室の扉が開いて現れたのは、王太子と公爵子息だった。わたしとケイの息を飲む音が重なる。
咄嗟に姿を晦まそうとして、王族には魔法を見破る『精霊の眼』があることを思い出し断念。ケイがわたしの顔を隠すように抱き締めつつ、自身の後ろに移動させて全身を隠してくれた。
隠れたことで、ケイがいることで、恐慌に陥らずに済んだけど、先程までとは別の恐怖が這い上がってくる。今日まで四年も邂逅に怯えてきた。もうある意味一種のホラーだよ!!
わたしはケイのベストを握りしめて、背中に額を押し当て、混乱する頭に冷静になれと言い聞かせた。
・・・ *** ・・・ (ケイ)
二日前の夜。
真面目に働いて富を得た商人から財を盗み、それを少しだけ貧民に分けて義賊を名乗っていた盗賊団の捕縛は、アジトとして使われていた倉庫で、地方の騎士団と共に予定通り行われた。予定外だったのは、発生した魔物。
中級だったが、体が大きく豹のように敏捷だった。それが証拠品を押収し、捕縛を終えて気が緩んだ所に現れ、騎士が三名、腕を食い千切られ、胴や足に深い傷を負った。ついでに、盗賊団八人も逃げ出した。
場が急速に混迷し、僕は随身していた『影』二名に賊の捕縛を命じ、騎士たちには一所に集まって背中を預けあうよう告げた。三名に浄化と治癒魔法を発動させながら、魔物を仕留め━━騎士たちが叫喚した。
見れば、群れで行動していたのか豹型の魔物がもう一匹、出現していた。逃げたり、果敢にも魔物に剣を向ける騎士たち。僕は治療を終えた騎士三名に結界を張り、立ち上がって魔物の対処をしようとして、暗がりから忍び寄っていた三匹目に飛びかかられた。
身を倒して避けるものの、爪が左腕を掠めた。障気が傷口から入り込む。僕の放った風の刃も掠めたけど、致命傷には至らない。身を起こした僕の近くで「助けてっ」と体を丸める新人の騎士に一匹が襲いかかり、他方では騎士五名が倒れた所に、血に濡れた牙で、爪で、止めを刺そうとしていた。
僕は倒れた騎士たちに浄化と治癒の光と結界、魔物への攻撃を同時展開し、目を瞑り、頭を抱える新人騎士に飛びかかった魔物との間に入って、剣を一閃した。
二匹の魔物が真っ二つになって雲散霧消し、僕も背中から血を流してその場に膝をつく。背後には目を瞑り「来るなぁっ」と怯えながら抜いた剣を振り回す新人騎士。傷口に漂っていた障気の残滓が入り込む。
これ以上、騎士たちが障気に当てられる前に、僕は辺りを浄化した。新人騎士がはっと目を開き、踞る僕と血に汚れた自分の剣を見て愕然とする。そこに『影』が気絶させた盗賊団を引きずって戻り、血相を変えて駆け寄ってきた。
その後は、焦る『影』二人に「大丈夫」と言いながら、二ヶ所の傷を浄化をした。すぐに浄化しなかった為、塞がるのに時間がかかると思いながら、『影』の一人が、地方騎士団に盗賊や証拠品の回収を命じ、もう一人が僕の怪我の処置をする。
発熱し、肩で呼吸をしつつ、全員が詰め所に無事に戻ったのを確認して、僕は倒れた。『影』が残り、僕は迎えに来たクーガにサンルテア男爵邸へ運び込まれ、包帯は取れないが一晩寝たら体調はよくなった。ただ運び込まれた時に、リフィには連絡しないよう命じた。じゃなきゃ、彼女の心が乱れる。
今まで遭遇せずに済んでいるけど、どういうわけかリフィが十歳になる前後から、僕の友人たちが緊急の案件でサンルテアの屋敷を訪れたり、魔物討伐任務に参加したリフィの話も聞きたいと王様たちに呼び出されて城で遭遇しかける状況が続いた。本人は笑って誤魔化しているけど、精神に負荷がかかっていると思う。
そこに僕の話がいけば、荒れる。
張り詰めた糸が切れる可能性が高く、きっと僕を巻き込んだからと懊悩して自分を責める。そんな風に気に病ませるなら、後で知らせてくれなかったと怒られて、リフィが悩んでもすぐ察して駆けつけられる方がいい。だから、知らせなかった。
今回の件は、場合によっては政治も関わってくるから。
それなのに、来週リフィの執事を務めるザップが引き継ぎで連絡を取り合った際に、マシューに口を滑らせてしまった。
リフィから連絡を受けたクーガが事情を話して宥め、ザップを直々に訓練場に引きずっていったから良かったけど。
昼過ぎに起きて包帯を取り替えながら話を聞いた僕は、リフィに起こされなかった事に驚いた。クーガの言葉と何よりアッシュに諭され、尊いマシューの犠牲で落ち着いていると連絡を受け、物足りなくも、ちょっと安心した。
簡単に食事を終えて、図書室で今回赴いたルドルフ地方の過去の魔物発生状況の文献に意識を集中させていたら、廊下に気配を感じた。クーガか使用人の誰かかと放っておけば、向けられる静かな視線。
顔をあげると、夢でも見ているような、ぼうっとしたリフィがいた。自然と笑みが零れる。三日ぶりに面と向かって名前を呼ぶと、安堵に気が緩んだリフィが泣きそうな顔で真っ直ぐ駆けてきた。
レースの付いた小花柄のワンピースに身を包んだ、柔らかな体を受け止める。
その表情に、不覚にも嬉しいと思ってしまった。懸命に駆けてきたのか、体温が高く汗ばむ肌に、やや乱れた呼吸に、心配させた申し訳なさよりも喜びが勝る。不安にさせて喜ぶ趣味はないのに、大切に思われていると実感した。
心と呼吸を落ち着かせようとして涙を流すリフィに、僕は苦笑した。大丈夫だと死んでないと伝わるように、震えながらきつく抱きつく背中をあやすように撫でた。
「生きててよかった…」
万感の思いが込められた言葉に、心が震えた。くすぐったいような気分で「大げさ」と返し、僕は心配させた事を謝った。
片手に持っていた本を近くの棚に戻し、リフィが深く安堵する姿に充足感を覚え、そんな子供っぽい自分に苦笑した。
その時の僕は、屋敷は安全と思い込み、目の前のリフィにばかり気を取られていた。だから、気づくのが遅れた。屋敷の騒がしい気配に、揉めながら駆け寄ってくる音に。
気づいた時には扉が開けられて、スピネルとイナルの姿があった。
リフィが緊張に体を強張らせる。僕は呆ける友人二人から、リフィの顔を隠すように抱き締め、背後に移動させた。治まった彼女の震えが再発していた。
萌黄色の小花柄のワンピースに、腰まで届く薄翠の髪を茶色のリボンで横に三つ編みにして後ろで一つにし、残りを下ろした愛らしい姿の従兄弟。
大事なものをとられたくない執着か、独占欲か。隠しても、二人の意識と視線がリフィに向けられているのが不愉快だった。
開けられたままの扉から、廊下で申し訳なさそうに青ざめるクーガや従僕たちと目が合った。僕は気にしなくていいと後を任される。王太子と公爵子息では無理に止められない。クーガが一礼して、扉を閉めた。
僕は内心で舌打ちしながら、友人を見た。二人の意識をリフィから引き剥がそうと、突然の訪問者に苦言を呈する。
「先触れもなく来るなんて非常識ですよ。イナル、君までそんな事をするとは意外だったな」
辛辣な言葉に二人が素直に詫びるが、すぐに僕の後ろを注視する。知らない少女の姿に、二人がやや警戒して目線で僕に説明を促してきた。僕は大きく息を吐いた。
逃がしたいけど、こうして僕と一緒にいる姿を見られた以上、下手に隠し果せない。
「次からは気をつけて下さいね。もし僕が婚約者といたら、君たちは無粋な闖入者ですから」
苛立ちながらも、二人に牽制も込めて微笑んで告げると、背中に張りついたリフィが、びくりと反応した。
「ケイトスに婚約者? ははっ、ないない。それ何の冗談だ」
「これまで話を散々断っておいて、どの令嬢も相手にしないで軽くかわすあなたが何を言うのですか。断りにくい侯爵家以上の縁談が来ようものなら、裏で手を回して潰しているのに。突然の訪問は申し訳ありませんでした。ですが、ケイの意識が戻ったと聞いたので、仕事を終わらせて駆けつけてしまいました。無事でよかった」
だいぶ砕けて笑いながら失礼な事を宣った王太子と、冷静に事実を告げながらも申し訳なさそうにし、僕を案じるイナル。
それより気になるのは、怯えから一転して、背後から感じる不機嫌な気配だった。
「ところで、キースは?」
「詰まっていたあなたの任務の中で、キースでも可能なものに協力し、あなたが心置きなく休めるよう代わりを務めていますよ。殿下も許可を出したので」
「そうなんだ。キースには後でお礼をしなくちゃな」
気にしていた他の任務。真面目なキースが僕の代わりを買って出てくれた気遣いに、嬉しくなる。
そこに水を差してくれたのが、スピネルだ。「それより」と僕の後方━━リフィに興味が向いていた。イナルも関心があるようで、二人に再度説明を求められる。
後ろ手で繋いでいたリフィの片手を握ると、とんとんと、もう一つの手で優しく背中を叩かれた。まるで「いいよ。大丈夫」というように。
僕は苛立ちを押し込めた。呼吸を整える。
これまで会わせないよう隠してきた。共犯者として警戒して、リフィの望みが叶うように協力した。
共犯者になる前も含めてこの四年、王侯貴族を嫌がるリフィが会わなくて済むよう取り計らってきた。
それが、こんな形で約束を破る事になり、悔しい。大切にしまっておいたものを強制的に暴かれた気分がして、面白くなかった。
「先程から後ろにいるその子は誰だい? まさか、本当に婚約者…?」
貴族のルールとして、上の者の誰何には答えなくてはならない。問いかけがなかったり、紹介がなければその限りではないが、見逃してくれないようだ。
びくりとしたリフィの手を安心させるように握ると、そっと握り返された。
「彼女は僕の従兄弟ですよ。貴族の身分ではないので容赦願いたかったのですが━━」
「私は気にしないよ」
「ぼくも構いません」
僕は舌打ちしたいのを堪えた。そう返されるとは思っていても、腹が立つ。僕が近くに同年代の少女を置いていて、庇っている事も二人の好奇心を煽る一因だとわかっていたから。
嫌味を込めて、息を吐いた。二人に背を向ける。
「リフィ、ごめん。でも先に礼を失したのは向こうだから、気楽にしていいよ。非公式の場だからね」
緊張からか恐怖からか、俯いたまま「うん」と震えるのを堪えた小さな返事に、罪悪感が胸を痛ませた。緊張のあまり失神した事にしようかと、二人に紹介するのを渋っていると、焦れたようにスピネルが咳払いした。
僕は、文句を言いたいのを我慢した。後は二人が、過去にリフィと関わった事に気づかないよう願うばかりだ。
「紹介します、殿下。イナル様。一つ下の私の従兄弟で、リフィーユ・ムーンローザです」
手を引いて前に出るよう促すと、これまで習ってきた成果か、突然の事態でもリフィは優雅に淑女の礼をとった。
「お初にお目にかかります。ケイトス・サンルテアの従兄弟にあたります、リフィーユ・ムーンローザと申します。本日は、このような格好で御前のお目汚しとなりますこと、誠に申し訳ございません」




