第六話:引き返せはしない
外は眩しかった。陽の高さから推察するに、まだ朝の八時にもなっていないだろう。
長く感じた儀式だったが、実際には一時間くらいしか掛かっていないという事だ。それでも、彼女たちの身体に掛かった負荷は重い。結は遠慮するかもしれないが、最低でも今日一日は休んで貰わなくては。
などと考えながら山道を下っていると、腕の中から小さく抗議する声が聞こえた。
「あ、あの……昌さん。もう、一人で歩けますので……お、降ろしてください」
「ダメだ。山道なんだから、万が一の事もあり得る」
「ほ、本当に大丈夫ですから……」
と、更に言っても、昌は首を縦には振らない。ここで無理矢理にでも昌の腕から逃げ出す度胸が結にあったら、彼も態度を改めたかもしれないが、そこは大人しい彼女である。融通の利かないところは多々あるが、実力行使となると不得手だった。
そうは言っても、である。
この場には旭しかいないのだからそれ程恥ずかしがる事もないのでは? ――と思うのだけれど、今回はその旭がいる事こそがまさに原因となっているようで、昌に抱きかかえられている姉の姿にニヤけながら生温かい瞳を向けていたのである。
どうりで静かだとは思ったが、しかしだからとて今の結の体力でこの山道はやはりきついだろう。ここは、我慢してもらうしかない。
「旭……も、きっと疲労が溜まってるかと……。私だけでは不公平ですし、そろそろ交代した方が良いと思います」
もっともらしい理由を見つけた結は、どうだと言わんばかりに顔を上げる。
「ふむ。確かに……。どうだ? 旭。結と交代するか?」
それとも背中に負ぶさるか? とも提案しようかと思ったが、それでは結の思惑と外れてしまう。四十キロそこそこしかないであろう女の子二人くらいなら余裕なのだけれど、ここは結を立てるとしよう。
旭の性格なら乗ってくる可能性も高いだろうし。――と、思われたが、
「ううん。私は平気だから結を抱っこしてあげてよ。結ってあんまし体力ないから、辛いだろうし」
意外にも結を気遣った。
なんと姉思いの妹だろうか――という訳では当然なく、昌に甘えるという行為と姉を揶揄うという行為を天秤にかけて後者が勝っただけの、どちらかと言えばあまり褒められたものではない。
それが証拠に、旭の結に対するちょっかいはまだ続いていた。
「それでどう? 昌にぃに抱っこされている気分は。結が憧れてたシチュエーションだよね?」
「あ、憧れてません!」
「またまたー。結って意外と少女趣味だし。いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるとか思ってるんじゃないの?」
「なっ……なっ……」
腕の中の結が、わなわなと震えだす。どうにも図星だったらしい。勝手なイメージだが、内気な女の子にはありそうな事なので、意外でも何でもなかった。
アニメのキャラクターに憧れたり、アイドルに熱狂したり、偶像、非現実という括りでは男女問わず多くが通る道だから、彼女の年なら恥ずかしがる必要もないと思うのだけれど。
それにそもそも、君たちは少女なのだから少女趣味で問題ないのでは?
「昨日だって、昌にぃが来るからずっと緊張してたし、お風呂も朝に二回も入ってたし」
「ちょ! 旭! それは言わない約束――」
「一緒に寝るって決まった時だって、一人熱っぽく頬っぺた抑えてたくせに」
と、旭は結のマネなのか、頬に手を当てて腰をくねくねと捩らせる。
「旭ぃ!」
「うわっ! 怒った、怒ったー」
腕を振り上げて怒る結に、旭はそれでも懲りていない様子だった。昌が年長者として仲裁に入る場面なのだけれど、彼としても反応に困る話題なのだ。
だがこのままという訳にもいかない。さすがに結が可哀想だし、何よりも危ない。彼女を落としてしまうなどという事態にはならないだろうが、ろくに整備もされていない山道である。二人揃って転げ落ちるというのは十分にあり得た。
「旭! いい加減、お姉ちゃんを揶揄うな。結も、危ないから大人しくしていてくれ」
やんわりと叱った昌に、ここでも二人の反応は対照的だった。
「はーい!」
生返事を返す旭と、
「す、すみません……」
割と本気で落ち込む結。
主たる原因は旭にあるので結を叱るのは筋違い――とまではいかなくとも、申し訳なく感じてしまうのだが、喧嘩両成敗という言葉もあるくらいで、まあ、適切な対応ではあった(と、昌は自負している)。しかし、見るからに落ち込んで両目の端に涙を浮かべている結を見ていると、何故だろう……まるで取り返しのつかない事をしてしまったかのような得体の知れない罪悪感に押し潰されそうだ。
「あー……結?」
だからだろうか。特に話題がある訳でもないのに、昌は見切り発射で話し掛けていた。
「…………はい」
しょんぼりと、昌の腕の中で小さくなる彼女の姿が、益々儚く映る。少しでも触れれば壊れてしまいそうな。
いや、さすがに凹み過ぎだろう――と、普段の昌なら放任していただろうが、庇護欲と言うのか、守らなければならない――そんな気持ちにさせる何かが彼女にはあった。
「まあ、その……なんだ。大人しくしていろとは言ったが、仕方ないとはいえ、結の嫌がる事をしている俺にも責任はある訳だし。怒ってる訳じゃないから、そんなに気にする事はないんだぞ」
「いえ。昌さんは私の為を思ってして下さっているのですし、やはり騒いでしまった私が悪いと思います」
フォローも逆効果だったようで、結はすっかりと沈み込んでしまった。真面目な性格も、ここまでいくと面倒臭さしかないが、やはり昌は放って置けない。
「……あのな。俺が言うのもおかしな話だが、君はもう少し俺に対して猜疑心というものを持った方が良い」
「……猜疑心……ですか?」
冴えない表情のまま、結は訊き返す。頭が働いていないのか……いや、正常な状態でも、この問いは唐突すぎたかもしれない。
「俺がいかがわしい目的で、君を抱いている可能性もあるって事だ。昨晩みたいになったらどうする?」
「……? ……あっ……!」
逡巡し、行き着いた答えに結は顔を背ける。昨晩の事を思い出しているのか、みるみる内に顔が紅潮していった。
「そ、それは……その……」
「嬉しいんじゃないの?」
答えあぐねている結の代わりに旭が疑問符を交えて発言するが、
「あーさーひー!」
またしても結の怒りを買ってしまう。
因みに、注意されたばかりなので、結は低く唸るような声で旭を睨み付けただけで、暴れる事はしなかった。
昌も嘆息し、
「……話がややこしくなるから、ちょっと黙ってくれ、旭」
「ふぁーい!」
またしても気の抜けた返事。
本当にわかっているのだろうか。この子の事だから、遊んで貰えるくらいにか考えていないのではなかろうか?
「昌さんが仰るところはわかりました。でも、私が昌さんを疑う必要なんてありません」
「どうしてだ?」
結論としてはおかしいだろう、それ。
「だって――」
結が顔を上げる。
「だって、私は昌さんを信じていますから」
胸を張ってそう言った。
嘘偽りない笑顔。本日二度目となる宣言ではあったが、先程とは状況がまったく異なる。さすがの昌も彼女を直視できず、少し気恥ずかしげに言いどもってしまった。
「そ、そうか……」
つられて結も、朱に染まった頬に手を当てながら、目を泳がせていた。
「はい…………」
そうして樹々の葉が揺れる音だけが、暫しの時を支配した。というか、屋敷に着くまでずっと、森閑とした道程だった。
こういう時こそ旭の出番なのだが、どうして素直に黙っているのか。いや、素直なのは良い事なのだけれど、臨機応変というか、空気は読んで欲しかった。
玄関を開けると(もちろん結は抱いていない)、久江が普段通りに出迎えた。婦長である彼女は式神の一件も知っていただろうが、昌たちに何も尋ねる事はなく、只々彼らの無事を喜んでいるかのように、いつもと変わらず世話を焼いた。
取り敢えず汗を流すそうと、伏原姉妹は仲良く浴場へと向かった。本来なら主人である昌が先に入るのだが、昨日のような事があっては堪らないと、彼が頑なに後を主張したのである。
やがて結たちが湯浴みを済ませ、交代で昌も身体の汚れを落とし終えると、皆揃って昼食となった。
それから夜までは穏やかなものだった。昌は自室に籠もって惰眠を貪り、伏原姉妹は勤勉にも居間で宿題を片していた。
まるで今朝の殺伐とした雰囲気が夢だったかのように、普通の家庭の普通の春休みだった。
だが、二人は式神となったのだ。これは近い内に各家に知れ渡る事だろう。当然、祀だけではなく社にも。これで否応なく、彼女たちも四辻の枠組みに組み込まれたという訳である。
明日からどうするか――どう振る舞うか。それを話し合わなければならなかった。
「わかっています。今日の事は誰にも話すつもりはありません」
夕食後、場が設けられたところで、結は昌の説明を待たずしてそう言った。
聡い子である。
「私たちは――特に私と旭は、とても危ない立場にいる。禁忌を犯したんです。それくらいの覚悟はしています。ただ……昌さんのご友人の方にはどう説明しますか? 帰省の理由はお話しているんですよね?」
「ああ。と言っても二人しかいないが。正直に話すつもりだ」
交友関係の少なさがこんなところで役立つとは。皮肉なものである。
「しかし……ご理解頂けるでしょうか?」
結の心配は尤もなものだった。
常識的に考えて、即座に昌との縁を切る。二人とも立ち位置が十三柱の家柄――しかも共に次期当主である。危険な橋は早々渡れまい。
昌もこればかりは、即答する事が出来なかった。
「少なくとも、東園のお嬢様は問題ないでしょう」
そんな昌の代わりに、芳達が自らの見解を話す。
「どうしてですか?」
結は尋ねる。
「東園美玖様は昌坊の許嫁なのだ。しかも昌坊の事を深く慕っておられる。この程度の事で、敵になるという事はありますまい」
訊かなければ良かったと、この後、結は後悔する事になるのだが、今はそれよりも慌てる事で精神が手一杯だった。
「い、許嫁? 許嫁がいらっしゃるのですか? 昌さん」
「……まあな」
不本意ながら。
昌が無愛想に言っている隣で、旭は別の疑問を口にする。
「ねぇ、許嫁ってなに?」
そこからか……。
「許嫁っていうのはね。将来、結婚を約束した恋人の事よ」
これまた答えたのは昌ではなく久江だった。
……どうしてこの人たちは、こうも人のプライベートをペラペラと。
「おお! 昌にぃ、大人だね!」
それは褒めているのか馬鹿にしているのか。褒めてるんだろうな、この子の場合。
「旭は黙ってて!」
そして結、どうして君が怒る?
「はっはっは! もしかして嫉妬かい?結」
「ち、違います! そ、そんなんじゃありません!」
久江さんに揶揄われ、耳まで真っ赤に染めて結は反論した。
「わ、私はただ……主の――昌さんの事を、もっと良く知っておくべきだと思っただけで……」
「はい、はい。わかった、わかった」
「絶対にわかってない返事ですよね⁉ それ!」
「わかってるよ。お前がどれだけ坊っちゃまを慕っているのかは」
「あぅ…………」
痛恨の一撃を見舞われた結は、体を硬くして目を伏せた。それも、更に続く久江の言葉ですぐ元に戻るのだが。
「しかしその調子じゃ、先が思いやられるねぇ。これからは三人一緒に暮らしていくっていうのに」
「「…………えっ?」」
見事なユニゾンだった。昌と結は互いに顔を見合わせ、何も知らないと主張するように其々首を振った。
「えっと……久江さん。俺、そんな話は聞いてないんだけど」
「あれ? おかしいですね。結と旭には一昨日話したから、てっきり坊っちゃまにも伝わってるものだと」
「わ、私、聞いてませんよ⁉」
まるで冤罪だとばかりに叫んだが、
「私は聞いたよぉー」
旭の裏切りで有罪濃厚となった。
「何で⁉ いつ⁉ どこで⁉」
「一昨日の夜に、昌にぃの部屋を片付けていた時だよ。何でって言われても困るけど……。結だって、その時一緒にいたじゃん」
「えっ?」
思い返してみると、旭の主張通り確かに自分もその場に同席していた。久江が居たのも覚えている。いや、寧ろ忘れようがない。だってその時話した内容は――、
「初めは、昌にぃと一緒に寝るって話をしてたんだよ?」
「わかってるから、それは言わないで!」
消し去りたい黒歴史である。
私の先走った思い込みで、昨日はとんでもない事を……。ああ……穴があったら入りたい……。仮に昌さんがその気だったら、今頃私も大人の女性に……って、ダメダメ! 初めてが三人とか、どう考えてもアブノーマル過ぎ! で、でも……多少刺激があった方が、気分も盛り上がるって言うし……あっ! で、でも、もしそうなったら、私の立場ってどうなるのかな? 愛人? 現地妻? こ、恋人……じゃないよね。許嫁がいらっしゃるんだし。
…………って、あれ? 私、何の話してたんだっけ?
と、一人で明後日に向かって暴走してしまう程に、その時、久江が昌と同室で寝るように指示した事は、彼女についてインパクトのある事だった。現在でこれなのだから、告げられた時はより取り乱していた事だろう。
つまり恥ずかしさのあまり、聞き漏らしていたのである。
「まあ、東京に出てくるつもりだと予想はしていたけれど、てっきり近所に部屋を借りて住むものだとばかり思っていたんだがな」
「それじゃあ護衛になりませんよ、坊っちゃま。二人は従者。常に主の側に侍っていなければ、その役目は務まりません」
「それはそうだが……」
このご時世、兄妹でもない中学生と同棲というのは、けっして褒められたものではない。
「坊っちゃまの家なら広さも十分ですし、彼女たちと住んでも不自由はないでしょう」
成程、一人暮らしを始めた時にどうして3LDKなんて無駄に広い家を宛がわれたのかと疑問に思っていたが、これを見越しての事か。
一年越しって、布石にしても長過ぎるだろ。
「美玖様と懇ろにはなれませんがな」
「しねーよ、そんな事」
芳達の茶々にもしっかりと反応するところ、昌としても多少は意識しているのだろう。結たちと暮らす事に抵抗しているのも、彼女に対して遠慮があるからでもある。
本人は否定するだろうが。
「とにかく、俺は反対だ。結と旭の身にもなってみろ。式神としての契約は結んだにしても、昨日会ったばかりの男と一緒に暮らすなんて、常識的に考えて嫌に決まってるだろう」
「嫌なのかい? 旭」
「ううん。私は昌にぃだぁーい好きだし、全然嫌じゃないよー」
「……………………」
どうやら俺の常識は通じないらしい。
しかし、どこでこれ程懐かれたのか。誰か教えてくれ…………。
「だそうだけど、どうします? 坊っちゃま」
「…………結にも訊いてやれよ」
彼女なら自分の意見に同意してくれるはずである。律儀というか、上の命令に忠実な印象だが、そうだとするならこの場合、婦長である久江よりも主である昌の方が立場としてはより上に位置する。そんな打算的な考えから、彼は提案したのだったが、
「ね、懇ろ…………」
何やらショックを受けた様子の結は、心ここに在らずといった様子で、呆然と立ち尽くしていた。
そんな彼女に、叱咤の声が飛ぶ。
「こら、結! しゃんとしな!」
「は、はいっ!」
結の背筋がピンと張った。
「あんたはどうなんだい? 坊っちゃまと同棲、したくないのかい?」
「ど、同棲…………」
久江の質問(というよりは詰問に近い威圧感)に、結は何やら真剣に考え込んでいた。眉を寄せながら唸るようにして地面を睨み付けている。
久江に緊張しているようには見えず、またそれまでのように惚けている様子でもない。
嫌な予感がする。
やがて決心したように顔を上げると、彼女は両手に力を込めながらこう言った。
「わ、私も、昌さんと一緒に暮らしたいです!」
ブルータス、お前もか。
「これはもう諦めるしかありませんね、坊っちゃま」
「……いや、しかしな」
昌がそれでも引き下がらない姿勢を見せたが、
「昌にぃは一緒に暮らすの、嫌なの?」
「ぐっ…………」
旭の純度の高い言葉に言葉が詰まった。
「嫌なんですか? 昌さん」
さらなる結の追い討ち。彼女は多分に私情がはさまれているにしても、不安げな二人の瞳を前にして、頑なに自分の意見を押し通せる昌ではなかった。
「…………わかったよ」
項垂れる昌を尻目に、結は見えないように小さく拳を握った。
許婚さんがいた事にはビックリしちゃったけれど、これで対等――ううん、私の方が有利に立てる。話を聞いている限り、相手は東の社の十三柱に数えられる名家。家の格では勝つ事はできない。昌さんとの関係だって、こちらは昨日会ったばかりで、許嫁さんに一日の長がある。
そんな相手に対抗するために、昌さんと一緒に暮らす――これは、大きなアドバンテージとなる。加えて、私の方が年下である。今はまだ子供しか見られないかもしれないが、歳を重ねるに連れて、このアドバンテージは効果を発揮してくる。
従者が主に恋心を向けるなど本当はあってはならないのだけれど、そんな旧時代的な悪辟を気にする必要などない。そんな事を言ってしまえば、従者などという存在自体が、現代社会にそぐいはしないのだ。
昌さんも許嫁のお話にはあまり乗り気じゃないみたいだし、私が二人の関係に割って入る隙はある。
頑張らなくっちゃ!
「あ、あの! 私、部屋に戻って荷物を纏めてきても宜しいでしょうか?」
「ああ、そうしなさい。大きなものは後で送るから、取り敢えずここ二、三日で入り用になるものだけにしときな」
「はい!」
「じゃあ、私も用意してくるー」
元気よく返事をして、二人は居間を出て行った。
「女の子に弱いのは変わりませんね、坊っちゃま」
「…………ほっといてくれ」
昌はヤケクソ気味に呟く。
「あっはっは! 良い事だと思いますよ、あたしはね。それより、明日は何時に発つ予定なんですか?」
「いや……特に決めていないが」
結と旭が一緒となると、あまりに早い時間は申し訳ないし…………昼前、十一時くらいか。
「お嬢様が明日、お戻りになられるんですよ。確か、朝の十時には着くと仰っていました。それまで居て頂けると嬉しいのですが」
「……悪いな、久江さん。東京に戻って片付けなければならない用があるから、早朝には発つ予定なんだ」
つい数秒前の決定を、昌は自身で覆した。
「御予定があるのなら、仕方がありませんね。久し振りに兄妹水入らずの時間ができるかと思ったのですが。友里様、この一年でまたお綺麗になられましたよ」
「気を使ってもらったのに、すまない」
と、昌は頭を下げた。久江にとっては、昌も友里も孫のようなものだった。幼少時から世話をし、彼らの人生の半分以上を共に過ごしてきた。そんな二人がもう何年も喧嘩をし続けているのだから、心配にもなるだろう。
昌もそんな彼女の心境は理解していた。ただそれでも久江を立てるような事はせず、自分の心情を押し通した。
そして久江も、そんな彼の想いを汲み取るように笑い、
「いいえ。私の方こそ、差し出がましい真似をして、申し訳ありません」
丁寧に腰を折った。
「それじゃあ俺は、結たちに明日の時間を伝えてくるよ。明日も早いし、今日はもうそのまま寝る事にする」
「承知致しました」
そう言って、昌は逃げ出すように居間を後にしたのだった。