第五話:血の従者
「それで親父、降ろす対象はどうするんだ?」
「夜叉と阿修羅だ。もしお前に候補があるなら、それでも構わん」
「……いや、その二体でいこう」
夜叉と阿修羅なら、過去に四辻家で拝受した事がある。初めて拝受する奴よりかは、幾分危険度は下がるはずだ。
「二人とも、儀式のやり方は知ってるな?」
昌が尋ねると、結と旭は揃ってコクリと頷いた。
「じゃあ、前置きはなしだ。始めるぞ」
昌は左腕の袖を捲り、そこに術で小さな傷をつけた。シュッという乾いた音と同時に、彼の手首からジワジワと血液が流れ出す。
通常、物質に降ろす場合は、使役者の血を掛けて対象を呼び寄せる。人に降ろす場合は、使役者の血を飲む事でその代替とした。
昌が腕を差し出し、まずは旭、次に結と血を啜った。
「四辻が長子、昌が命じる。神域に住まう御霊よ。我が血の叫びに呼応しろ! 我が命の嘆きに呼応しろ! 其が名は夜叉! 其が名は阿修羅! 混沌たるうつし世に顕現し、我が両腕として共に其の覇業を為せ! 今一度命じる! 我が求めに応えろ! 神よ!」
「くっ!」
「うわっ!」
身に起きた急激な変化に、結は苦悶の表情を、旭は驚きに満ちた表情を其々浮かべた。
彼女たちの巫力が不安定になっているのが、視覚的にもはっきりとわかる。身体から湯気のように立ち昇っているのがそれだった。
自身の巫力と降ろそうとしている神の巫力―それらが混ざり合い一つになろうとしていた。
「うっ…………あぁっ……」
苦しそうに胸を抑え喘ぐが、結はどうにか膝をつく迄に留まった。
旭も祠にもたれ掛かりながら、額には脂汗を滲ませている。姉よりかは多少余裕があるようだけれども、これはまだ第一段階。試練として、始まってもいなかった。
「集中しろ! 二人とも!」
昌の活が飛ぶ。
「身体に入り込んできた神の巫力を、異物と看做して拒絶反応が出ているんだ。意識して流れ込む巫力を受け入れろ! 身体の周囲に薄い膜があるイメージだ。その膜に沿って、巫力の流れを一方向に合わせるんだ」
「は、はい……」
「うん。や、やってみる……」
そこからはさすがの伏原だろう。乱れていた巫力は、ゆっくりと彼女たちの身体に収束していった。それでも膨大な巫力はまだ目視できる程で、彼女たちの完全なコントロール下にある訳ではなかった。
ようはコーヒーにミルクを垂らしたようなもの。これから彼女たちは、元の濁りないブラックの状態に戻さなければならない。
それが、第二段階。そして――、
「か、体が……」
「あ、熱い……」
ここからが本番だった。
先程とは比べ物にならない激痛に、二人とも地面に倒れ込む。息遣いも荒く、気を抜けば一瞬で意識が持っていかれかねない。そんな状態で降ろした神と対話しその能力を制御しなければならないというのは、まだ年端もいかぬ少女にとっては酷であった。
昌は只々傍観しているしかない。彼の役割は呪文を唱えた時点で既に終わっていた。彼女たちに血を与えたと同時に彼の巫力も分け与えていたため、これ以上、彼の力でどうこうするのはできないのである。
「うっ……くっ……あぁ…………」
だが死にそうになっている女の子を目の前にして、いつまでも突っ立って居られるほど、昌は物分かりが良くはなかった。
二人を抱き起こそうと手を差し出す。しかし彼の手が二人に届く事はなく、身体を包む巫力に勢い良く弾かれた。
「ぐっ!」
肩の関節が外れそうになる衝撃に、今度は昌が片膝をついた。
「これは……」
俺を拒絶している?
「……くそっ!」
再び彼女たちに触れようと試みるが、結果は同じだった。より強い力で弾き飛ばされ、昌は身体を支えきれずに彼に激突する。
「ぐっ……あっ……。俺を……認めないという事か……」
今、結と旭に起きている事態の責は、彼女たちにはない。通常ならば呪文を唱えて以降は依代の力量次第となるのだけれど、血を与え、主人となる筈の昌が彼女たちに拒絶されるという事は、混ざり合った神の巫力が邪魔をしている――つまり、神が昌を主として認めていないという事に他ならない。
昌は下唇を噛みつつも、三度、二人に向かっていった。やはり同じように拒絶され、今度は確実に右腕の骨が砕かれた。
「駄目なのか……」
二人の息遣いは目に見えて弱まっている。このままでは後五分と持たないだろう。
俺の所為だ。俺に力がないから。
腕に走る激痛も忘れ脳をフル回転させるが、何もアイディアは浮かばない。
万事休す――そう思われた時だった。
「刻印を発動させろ。昌」
「何を……」
言っている――と、昌は言いかけてやめる。
昌己の言葉の真意は分からぬとも、できる事があるのならするべきだ。
一度大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。助かる――助けるのだと自分に言い聞かせる。
刻印を、発動させる。
変化は劇的だった。
「あ、あれ?」
「これって……」
発動と同時に二人を覆っていた不安定な巫力は消え、身体中を襲っていた激痛もなくたった。彼女たちに与えた昌の血が、刻印に呼応したのである。
夜叉、阿修羅共に、昌を自分の主と認めた。
つまり、儀式は成功した。
昌は思わず安堵の溜息を漏らす。そして、ゆっくりと刻印を解いた。
「昌さん!」
結が駆け寄ってくる。走れるまでに回復しているところを見ると、後遺症の心配はなさそうだ。
「お怪我は? 腕は大丈夫ですか?」
こんな時にも俺の心配とは……、
「問題ない。ほら」
と、彼は折れた筈の右腕を持ち上げる。
「折れた事を知っているなら、刻印という言葉も聞こえていただろう? 俺の刻印式は自己治癒力の強化も含んでるんだ」
「そうなんですか……」
と、気が抜けたのか、結はその場にへたり込んでしまう。
「おいおい。君の方こそ大丈夫か?」
「はい。ずっと気を張っていたんで、少し疲れてしまいました」
そう言って、結ははにかんだように笑った。
さて、と。
「旭!」
昌が大声で呼ぶと、
「はーい!」
旭はテクテクと走ってきた。
「二人とも、良く頑張ったな」
「えへへ、褒めて、褒めて!」
頭を撫でてやると、旭は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ああ、後でいくらでも褒めてやる。だけどまずは、戻って休まないとな」
昌は座り込んでいる結を抱き上げると、無言で父親に背を向けた。
「えっ? えっ? し、昌さん?」
突然の事に戸惑いの表情を見せる。それも当然で、年頃の女の子としては恥ずかしい格好だ。所謂、お姫様抱っこというやつである。だが結にも、昌は構うつもりはないらしい。
「ほら、行くぞ! 旭」
「うんっ!」
結と旭を連れ、昌は洞窟を後にした。