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第一話:普通過ぎる日常

 久し振りの京都はやはり懐かしかった。二年前に東京に出てからというものの、望郷の念にかられる事などなかったのだけども、京都駅のホームに降り立ち空気を肺に入れただけで、まるで暖かい膜に包まれているかのような安堵感があった。

 だが一方で、どれだけ離れたとしても結局自分は西の人間なのだと言われているかのようで、晶にとってあまり愉快な感覚ではなかった。

 そんな似合わぬ感傷に浸りながら、晶は実家へと向かった。

 地下鉄に乗って山科方面へ。

 四宮駅で下車すると、駅前にその場の雰囲気からすると異質な――まるで似つかわしくない黒塗りの車が止まっていた。通行人の誰もが畏怖を含んだ視線を向けて近付こうとはしなかったが、彼は脇目も振らずに車へと歩を進めると、すっと後部座席の扉を引いて車内へと入ってしまった。

 運転手もバックミラーで彼の姿を確認しただけで、無言のままアクセルを踏んだ。

 小一時間ほど一般道を走り、車は山道へと入る。舗装もされておらず、また曲がりくねった道だったが、運転手は車内を大きく揺らす事もなく、優れた技術で難なく道を進んで行く。

 やがて整備された道路が姿を現わすと、漸くといった様子で、運転手は沈黙を破った。

「相変わらず、不遜な態度でございましたな」

 初老の男性とは思えない程に、若々しい声と格式高い口調だった。一目で上流階級の人間だとわかる佇まいであり、それ故の余裕か、顔には品を損なわない程度の微笑を浮かべている。

「俺はそんな立派な人間じゃないよ。それに、この辺りの人間がああいう視線を向ける気持ちも尤もだしな」

 この近辺は四辻家の支配下にある。想操術師であろうと無かろうと、その名を知らぬ者はいない。そして東の社とは違い、祀は四ノ冠が各々の地域を半ば独裁的に支配している。社との抗争終結後は融和政策をとってはいるが、やはり彼らへの恐怖は根深いものがあった。

 昌もこちらに、友達と呼べる人間は数える程しかいない。

「ご立派になられましたな、昌様」

「だから立派じゃないって。それと、様付けも止めてくれ。元世話役の芳爺にまでそんな呼び方をされると、益々居心地が悪くなる。昔通り、昌坊で良いよ」

「はっはっは! これは失礼致しました。ですが昌坊、私も世話役を降りたつもりはありませんぞ。元など寂しい事を言わんで下され」

 かっかっか――と、芳爺と呼ばれた初老の運転手は、大声で笑った。軽快に軽口を返す間も、運転の精度が保たれているのがまた素晴らしい。

 そんな彼の態度に昌も気持ちが解されたようで、京都に着いてから初めて笑顔を見せた。

「悪かったよ。だが、まさか芳爺が迎え役とはな。もっと親父寄りの人間が来るかと思っていたんだが」

 少し拍子抜けだ――と、昌は肩を竦ませた。

 今回の帰省も、昌の父親である四辻昌己が突然言い出した事だった。昌の居ない一年で何があったのかは知らないが、春休みが始まる直前、前触れが何一つないまま、一昨日に勝手に式神顕現の儀を言い渡されたのだ。

 勿論、昌が抵抗したのは言うまでもない。それも結局は、彼の罪悪感からあっさりと終局を迎えたのだけれど、あの疑り深い親父の事だ、四辻家内部でもより親父に従順な人間が監視役として出てくるものだとばかり思っていた。

「それ程に、今回の式神顕現は昌己様にとって重要なのですよ。万が一、昌坊が機嫌を損ねて儀式が取り止めにでもなったら、それこそ四辻家の存亡に関わる事態へと発展しかねません」

「俺の知らないところで、どこからかちょっかいを掛けられたのか」

 中院あたりが闇討ちでもしてきたのだろうと昌は踏んだが、実際は少し違っていた。

「具体的に何かされた、という事はございません。ただ中院と一条が、秘密裏に協力関係となったと」

「なるほどな……」

 統率の取れていなかった四ノ冠の内のニ家が結託したとなれば、万が一の場合、友里をもってしても少々荷が重い。樹は小学校を卒業して間もなく、戦力には数えられない。そこで反抗的な俺を、無理矢理にでも手数に加えようと算段した。いくら俺自身が不干渉を貫いたところで、式神を持ってしまえば彼方さんとしては関係なくなる。

 あの腹黒狸の考えそうな事だ。

「そういう事情ですので、今回ばかりは――」

「皆まで言うな。ここまできて、駄々を捏ねるような事はしないさ」

 昌が断れば、その皺寄せは確実に友里と樹にいく。それだけは避けなければいけない。

「お心使い、痛み入ります」

 すべてを承知した上で、芳達は言った。運転中だからこそ頭を下げるような事はなかったが、心から申し訳なく思っている事は昌にも伝わった。

 そもそも、彼がそれ程に気に病む事はないのだけれど。

「それよりも、友里と樹は元気か?」

「はい。お二人とも息災でございます。友里様は寮暮らしですのであまりお戻りになりませんが、ご立派にしていらっしゃると聞き及んでいます」

「そうか……」

 昌が一瞬苦い表情をすると、察したのか芳達はすぐに話題を切り替える。

「昌坊はいかがですか? 東園のお嬢様とも仲睦まじいと聞いていますが」

「仲睦まじいねぇ……」

 誰がそのような無責任な事を言ったのか。仲が悪くないのは認めるけれど。

「おや、そのご様子だと、お二人の仲は余り進展していないのですかな? もしや相手にご不満がおありでも?」

「いや、不満はないが、そもそもに僕は許嫁の一件を認めた覚えはない」

「しかし東園家は非常に好意的ですぞ。相手のお嬢様――美玖様、でしたかな? 彼女も大層喜んでいらっしゃるとか」

「だから憂鬱なんだよ……」

 昌は窓の外を見て嘆息する。彼女さえ乗り気でなかったら、たとえ家同士の決め事であろうと簡単に破棄できたものを。

「はて? 憂鬱になる理由がありますかな?」

 惚けた声の老人に、昌は言い訳めいた愚痴をこぼす。

「偶にしか会わなかったとは言え、今まで妹のように接してきたんだぞ。今更、恋愛対象に見れると思うか?」

「しかし、本当の妹ではございません」

 芳達のその言葉に対し、昌は過剰なまでに反応した。意識的に美玖を恋愛対象から外そうとしている事を見抜かれたから……などではない。そんな事、言われるまでもなく、昌は理解していた。芳達が言質に含んだ意味は、もっと別の――昌にとっては触れられたくない過去の傷だった。

「…………芳達……お前、何が言いたい?」

 横目で睨み付け、彼の次の行動を待った。

 数年ぶりに見せる次期当主としての顔。それは常人であったならば卒倒してもおかしくない程に、重厚な殺気に満ちていた。

「……いやはや、少々お巫山戯が過ぎましたな。この芳達、心から非礼をお詫び申し上げます」

 やはり運転中との事もあって、普段のように仰々しく頭を下げはしなかったけれど、彼の謝罪は昌に対する畏怖からではなく、純粋な敬意からのものだった。

 昌も、それ以上の追求はしない。

 そうして更に三十分程、車内にはエンジン音だけが響きわたっていた。

 今向かっている大文字山には、四辻家の本宅がある。山奥なので普段は麓の別宅を使用しているが、このように想操術関連で問題が起こると、わざわざ不便な本宅を使用していた。儀式用の祭壇や、諸々の事情などを鑑みると理に適っているのだけれど、麓から車で二時間弱もの間、車に揺られているだけというのはあまり楽しくはない。

 気不味い沈黙が支配した時間を過ごしていたら、尚の事である。

 私道が終わり漸く本宅に到着すると、昌は凝り固まった背筋を伸ばした。芳達は車を裏手に回すと、昌の荷物を手に彼を先導して母屋へと足を向ける。

 玄関先で足を止め、彼は元世話役らしく丁寧な態度で玄関の扉を引いた。

「おかえりなさいませ、坊ちゃま。お元気そうで何よりです」

 昌の姿を見るやいなや、感慨深い声で年配の女中は彼を出迎える。

「ただいま。久江さんこそ、変わらず元気そうで安心したよ」

 本当は帰宅の挨拶などするつもりもなかったけれど、彼女の嬉しそうな顔を見てしまっては心変わりするのもやむを得まい。芳達にしてもそうだが、まるで祖父母に会ったようで、懐かしく心休まる人物だった。

 しかしそんな彼の興味も、すぐに別の方に向いていた。

 久江の影に隠れるようにして二人。昌の知らない女中――と表現するには幼いかもしれないが、弟の樹と同世代くらいの女の子が緊張した面持ちで立っていたのだ。

 一人は長髪を一つに括り、肩から前に下ろした大人しそうな少女。もう一人は対照的に、元気で活発そうな印象を受けるショートボブの少女。顔付きが似ているので、おそらくは姉妹なのだろう。

「久江さん、彼女たちは?」

「ああ、この子たちですか。滞在中、坊ちゃまのお世話をする新人の女中ですよ」

「僕の……世話……?」

 一体どんな風の吹き回しだ。専任の世話係など、生まれてこの方ついた事がないというのに。

 これも、親父が考えた僕のご機嫌取りの範囲か。それとも、敢えて新人を向かわせる事で当て付けにしたつもりか。

「心配なさらずとも、二人とも優秀ですよ。私がこの半年間、みっちりと仕込みましたから。それに、ほら。器量だって申し分ない。歳は少々若いかもしれませんが、坊ちゃまもきっと気に入って下さると思います」

 昌の不信が不安に見て取れたのか、久江は少女らを前に押し出すようにして彼に説明した。先程までは後ろに隠れていたのでよく見えなかったが、成程、確かに歳の割には整った顔立ちをしている。どことなく気品も感じられるし、久江さんが誇らしげに語るのもわかる気がする。

 しかし、どこか引っかかる言い方だと感じたのは何故だろうか。

「二人とも! ぼうっとしてないで、ご挨拶しなさい」

 そう久江に促されると、まずは長髪の女の子が一歩前に出て挨拶をした。

「はじめまして、昌様。私、伏原家の長女で結と申します。不束者ではありますが、誠心誠意務めさせて頂きますので、どうぞ宜しくお願い致します」

 見た目と違わず丁寧な物腰で、だが人見知りのような印象を受けた。それとも単に男が苦手なのか。…………あまり怖がらせないようにしないと。

「はじめまして、昌にぃ……じゃなかった。昌様! 私は結の妹の旭だよ……です。結とは双子で、今年から中学生になったの……なりました」

 続けて挨拶をしたショートボブの少女は敬語に慣れていないのか、年相応といった感じで微笑ましい。当の本人もやり切ったという様子で、自慢気である。

 尤も、姉の方は妹の態度に気が気でないようだけど。

「こ、こらっ! 旭! 失礼のないようにとあれ程……」

「えー、ちゃんとできてたじゃん⁉ ねっ? 私、ちゃんと挨拶出来てたよね⁉ 昌に……昌様!」

「だ、だから旭……」

 そんな仄々とした姉妹の遣り取りを見て、昌は思わず吹き出してしまった。

「ああ、ちゃんと出来ていたさ。旭さんはもう中学生だもんな。立派なもんだよ」

「あはっ! だよね、だよね⁉ ほら、結ねぇ、昌にぃも出来てたって言ってるじゃん!」

 旭はよほど嬉しいのか、はしゃいでしまい言葉遣いを直す事も忘れている。昌としても厳格な性格をしていないのは言うまでもなく、昌にぃという呼び名も昔を思い出して寧ろ好ましく思っていたのだけれど。

「い、いい加減にしなさい! 旭!」

 結は相変わらず慌てていたが、芳達も久江も声を抑えて笑っていたので問題はなかった。

「それはそうと、結さん。そろそろ部屋に案内してもらっても良いか?」

「は、はい! 申し訳ありません! こ、こちらになります」

 助け舟を出したつもりだったが、余計に緊張させてしまったようで、少々申し訳なかった。友里で失敗しているせいか、年下の女の子の扱いに、昌は不得手なのだ。

 昌が苦笑いを浮かべると結は益々緊張したが、旭の能天気さもあって部屋までの案内はつつがなく終わった。

 てっきり昔の自分の部屋に通されると思っていたが、彼に用意されたのはその二倍はある客間だった。荷物を隅に置くと、旅の疲れを解き放つかのように大の字に寝転がった。

 あの双子。無関係な人間ではないと思っていたけれど、伏原だったとは。これはまた、女中というより護衛――見張りに近い存在なのかもしれない。芳達で油断していた所為か、名前を聞いた時には驚いた。

 伏原家は四辻の分家筋の中でも特に古い血筋であり、また昌己側の主要な家柄だった。あの二人が何を命じられているのかは知らないが、礼儀程度に警戒はした方が良いのかもしれない。

 だが芳達に言ったように、ここまで来て翻意する気など昌にはない。

 などと考えていると、トントン――軽く襖が叩かれた。

「どうぞ」

 昌は身体を起こし、客人を迎える。

「失礼します」

 そう、淑やかな佇まいで結は襖を開ける。正座をしながら、非常に慣れた動作だった。

「昌様。ご入浴の準備が整いましたので、宜しければお食事の前に如何でしょうか?」

「そうだな……せっかくだし先に頂こうか」

 鞄から着替えを取り出すと、迎えに来た結に礼を言い、昌は浴室へと向かった。実家なので当然場所は知っている。しかし案内するつもりなのか、結は彼の後ろをトコトコとついて来ていた。昌が立ち止まると、彼女も合わせて立ち止まる。やはり、偶然同じ方向に用があるという訳ではなさそうだ。

「案内してくれるつもりなら、必要ないぞ。これでも数年まではここで暮らしていたんだ。勝手はそれなりに覚えている」

 昌としては気を回したつもりだったのだけれど、

「あっ、えっと……ご案内もそうなのですが、えっと……その……」

 結は視線を彷徨わせながら、モジモジと恥ずかしそうに頬を染めていた。そんな彼女の姿を見て、昌の背筋を一滴の冷たい汗が伝っていった。

 嫌な予感がする。というか、嫌な予感しかしない。

「お、お背中をお流ししようと……思いまして……」

「……………………」

 全く捻りのない予感通りの回答。昌は軽い頭痛を覚えつつも、蟀谷を抑えながら言葉の経緯を尋ねた。

「親父に言われたのか?」

「い、いえ。御当主様ではなく、その……婦長様が……。昌様は、長旅で疲れているだろうからと」

「……犯人は久江さんか」

 確かに疲れてはいるが、自身の体すら洗えない程に疲労が溜まっている訳ではない。子供じゃあるまいし――いや、久江さんにしたらまだまだ赤子同然かもしれないが、何やら異なる思惑が動いているようで、怖くてならない。

 しかし彼女に指示をしたのが久江さんで良かった。親父だった場合は、結さんの立場上、別の対応を考える必要があっただろう。最悪の場合、彼女の提案通りに背中を流してもらうという選択肢もあり得たかも知れない。たとえ一緒に入浴したとしても、中学生になりたての女の子に欲情するような変態ではないのだけれど、それはあくまで俺の自意識であって、結さんはそうではない。

 子供とは言っても年頃の女の子である。二次性徴だって始まっているし、主家の人間であろうと、歳の近い男に裸を見られる事に抵抗はあるはずだ。

 久江さんに何を吹き込まれたのか知らないが、現代にそぐいもしないそのような間違った思考は、早めに正しておくべきである。

「俺が主家の人間だからって、そこまで気を回さなくて良い。女中としての世話も、一般常識の範囲で頼む」

「し、しかし…………」

「久江さんには俺から言っておく。心配しなくて大丈夫だ」

 昌が宥めるように説得し、結は不安は拭いきれないにしても小さく首を縦に振った。悔しそうに見えるのは、女のプライドかはたまた忠義心か。どちらにせよ、安いものである。

 天然檜という豪勢な風呂に入り旅の疲れを癒すと、その後は間もなくして夕食となった。居間に入ると、これまたどこの旅館だとツッコミを入れたくなるような懐石料理が並べられていた。

 どうやら旭は食事担当だったらしく、誇らしげに胸を逸らしながら料理の隣に腰を下ろしている。おそらく大半は久江が作ったものだろうが、そんな野暮な事を言う必要はない。

 昌は素直に旭を褒めると、彼女は子供らしく無邪気に喜んでいた。

 こうしていると、まるで自分が普通の人間だと錯覚しそうになる。

 平凡な家庭の平凡な少年。それは昌が望んだ現実で、叶わなかった夢だ。

 そんな風に自嘲気味に笑みを溢すと、彼は久江に促されて上座へと腰を下ろした。それと同時に、廊下をバタバタと掛けてくる人物がいた。木造のため、音も大きく響く。そして慣れた者なら、その音一つで誰であるか推測するには難くない。当然、昌も誰の足音かは想像が付いていた。

「兄さん!」

 居間の扉を開けると、足音の主は一目散に昌へと駆け寄った。

「おかえり。大きくなったな樹」

「兄さんこそ、おかえりなさい。いつまでこっちに居られるの?」

「明日の儀式が終わって、明後日には東京に戻るよ。だからゴメンな。樹に構ってやれる時間はあまり取れそうにないんだ」

 昌が申し訳なさそうに謝ると、樹は気にするなと言った様子で首を振った。

「ううん。仕方ないよ。兄さんも忙しいもんね。美玖さんとは仲良くしてるの?」

「まあ、ぼちぼち……かな」

「あはは! 兄さんらしいね」

 そんな兄弟の会話を遠回しに見守っていた結は、タイミングを見計らい遅ばせながら挨拶をした。

「おかえりなさいませ、樹様」

「ただいま、結ちゃん。あと、そろそろ様付けは勘弁してもらえないかな。同い年なんだし、もっと気楽に話してよ」

「いけません。樹様は四辻で私は伏原です。ケジメはつけないと」

 歳の割に真面目な意見に、昌はほう――と感嘆の声を出す。だが当の樹は苦笑気味に、

「お父様も居ないんだし、そう格式張らなくても良いと思うんだけれどなぁ」

 そしてそんな彼を援護する声が一つ、

「そーだよ、結は堅すぎ! それよりも、見て見て、たっちゃん! 今日の晩御飯、私が作ったんだよ!」

 一人で盛り上がっている旭に、樹は声をあげて笑った。

「スゴいなぁ、旭ちゃんは。ねえ、結ちゃんもそう思わない?」

「はい。それは……」

「ん?」

 と、樹はわざと意地悪く小首を傾げる。

 さすがに旗色が悪い。旭は普段からあの調子だし、芳達さんも久江さんも礼儀作法には厳しいが、今回は口を挟むつもりはないらしい。樹様が主家の人間だから――というだけではないだろう。

 私も旭も樹様も、まだ十二歳。お二人の目には、孫がじゃれ合っているようにしか映っていないはずだ。昌様も、堅苦しいのはお嫌いなご様子。

 …………私が折れるしかないか。

「……うん。私もそう思う。樹くん」

 我ながら、流暢に言えたと思う。まあ同級生は普通に君付けで呼んでいるから、当たり前なのだけれど。

 そうして結が一息付いていると。

「じゃあ、次は兄さんに言ってみようか」

 まさかの矢が飛んできた。

「うぇ⁉ …………あっ!」

 慌てて口を押さえるが、出てしまった素っ頓狂な声は消えてくれない。誰も笑ったりなどはしなかったけれど、結は顔を真っ赤にして俯きながら、

「そ、それはさすがに…………。目上の方ですし、失礼かと……」

「だ、そうだけれど。兄さんはどう?」

 と、笑顔のまま、今度は昌に意見を求める。

「俺はどちらでも良いよ。結さんの呼びやすいようにしてくれれば」

「兄さん……」

 樹の空気を読めとでも言わんばかりの視線に、昌は肩を竦ませながら、

「じゃあ様付けはしない方向で」

「私は昌にぃって呼ぶー!」

 何故か旭が元気良く返事したが、昌は優しい顔で「どうぞ」と言った。

「それで、結さんはどうする?」

「えっと……わ、私は…………」

 結は困った顔で上目遣いに昌を見上げたが、彼が意見を変える様子はない。

 またしても、結は白旗を上げた。

「で、では昌……さん、で」

「うん。それで良いよ」

 昌が頷くと、結は恥ずかしそうに目を伏せた。

「あ、あの! でしたら私たちの事も、さん付けはお止めになって下さい。年下ですし、もっとき、気兼ねなく」

「わかった。結。旭も、それで良いか?」

「うん! いーよー!」

 なんと軽い返事だろうか。こういう時は、妹の性格が羨ましくなる。

 双子なので互いで補い合っているという考え方もできるが、それにしても自分は融通が利かないところが多い気がするのだ。昌にとっても、旭のような子の方が可愛いげがあって好きに違いない。

 こんな事を考えている時点で、既にダメなのだろうが。

「さて、みんな揃った事だし、そろそろ夕食にするか」

 昌の号令で全員が食卓につく。結は立場的に下座なのだが、久江の計らいで昌の隣に座らせて貰えている。ちなみに、旭は樹の隣だ。

 旭みたいには振舞えないけれど、今のような時こそ、私の頑張りどころじゃない! 一緒懸命、昌さんのお世話をしよう!

 そうして人知れず気合いを入れた結は、夕食中、昌が少々困ってしまうくらいに、女中としては最高峰であろう手腕を発揮した。

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