プロローグ:西へ
春休みとは、学生にとって心踊る季節である。学業という束縛から解放された休息期間である事もそうだが、四月より始まる新しい生活に、大小はあれど夢を描いて期待に胸を膨らませている。
だがそんな季節の最中、四辻晶は体中に溢れんばかりの不快感と気怠さを隠そうともせず、東京駅のホームにて帰省のための新幹線を待っていた。
見送りは二人。同年代の少年と、彼らよりはまだあどけなさの残る少女。
騒がしい喧騒の中、少女が焦ったそうに口を開いた。
「ねぇ、晶くん。やっぱり、私も一緒に行った方が良いんじゃない?」
隣から聞こえてきた声に、晶は憂鬱な瞳を向ける。まだ午前中だというのに、この質問も今日だけで既に十は超えていた。
「必要ないって何度も言っているだろ。あんな家、不快な思いまでしてわざわざ出向く価値などないさ」
仮にも実家に対してこの言い方は失礼極まりたかったが、話し相手である少女は彼の乱暴な表現について言及する事はなかった。言っても今更であるためもあるが、そもそもにおいて、彼女の論点はそこではない。もっと重要な――特殊な事情であるが、女の子としては最重要な理由があったのである。
「でも許嫁としては、早い内に挨拶を済ましておいた方が良いと思うの。晶ちゃんは昨年してくれた訳だし、このまま何もなしじゃあ礼を失するよ! ほら、私たちは西と東の架け橋であり希望でもあるんだからさ」
「だからそれも散々言ってるだろ。俺は許嫁として挨拶をした覚えはないし、西と東の架け橋なんぞになるつもりもない。ませた事を考える前に、お子様は新学期の準備でもしていろ」
「むぅー、子供じゃないよぅ」
「ついこの間まで中坊だった小娘は十分ガキだよ。それにな、美玖。これも前から言っている事だが、そろそろ俺なんぞ見限って他の男を探したらどうだ? お前程の器量なら、選り取り見取りだろうに」
晶のうんざりといった文句も、感情が悪い方向に昂ぶっていた美玖には通じず、
「だから、それこそ晶くん以上の人なんていないって言ってるじゃない! でも器量が良いって、褒めてくれてるんだよね? 私の事、やっぱり可愛いって思ってくれているの? ねぇ? ねぇ?」
話が通じないとはこの事だろう。
「黙っていればな」
晶は呆れたように、短い言葉で答えた。
実際に、東園美玖は可愛い。年齢よりも少し大人びた端整な顔立ちに、まっすぐな黒髪。肩よりやや長いくらいのその綺麗な髪をポニーテール状にまとめ上げ、敢えて幼さを演出している所も、男にとってはギャップとして受けが良い。発言や態度が既に子供なので、晶としては見た目通りなのだけれど。
「うぅー、またそんな意地悪を言うー」
「いい加減にしろ、美玖。ここまできて晶を困らせるな」
頬を膨らませ拗ねている美玖を、それまでやり取りを傍観していた少年はまるで兄のように嗜める。
少年の名は京極夜霧――美玖の幼馴染であり、晶が信頼の置ける数少ない友人だった。
「えぇー、でもー…………」
「でもじゃない! 晶と美玖はかなり危ない橋を渡っている。長年の抗争が終わったと言っても、東と西は依然冷戦状態なんだ。それは昨年の晶の扱いを見て、お前もわかっている事だろう?」
「それは……そうだけど………」
「なら、危険な場所にお前を連れて行きたくないという晶の気持ちもわかってやれ」
「……………うん」
と、夜霧の説得が功を奏したのか、美玖は頬を薄紅色に染めて不承不承ながらも頷いた。自分の主張は通らなかったが、想いを寄せている男性に心配されるのはやはり嬉しくもあるという何とも微妙な乙女心が作用した結果である。
残念ながら晶に彼女が想像しているような思惑などなく、単に連れて行くと家の事情で面倒だからなのだけれども、言わぬが仏とはよく言ったもので、晶も敢えて否定するような事はなかった。
それにできる事なら、彼とて帰省などしたくはない。
ただそれでも長兄として――祀の四ノ冠の人間として、通さなければならない筋がある。これ以上、妹と弟に重荷を背負わす訳にはいかない。
「晶、お前……戻って来られるんだろうな?」
韜晦が表情に出ていたのか、夜霧は真剣な様子で尋ねてきた。
「はっ、どうしたいきなり。男にそんな事言われても嬉しくねーよ」
茶化してみたが、夜霧は怒る様 素振りもなく、真剣な表情そのままで美玖の背中を押した。
「晶くん。帰って来るんだよね?」
「……………………」
屁理屈に屁理屈で返されては、晶としてはぐうの音も出ない。だが夜霧は彼の苛立ちなど興味がないと言った風に、淡々と話を進める。
「冗談はさておくとしてだ。晶、今回の帰省がどれ程重要な意味を持っているかという事くらい、俺にだってわかっている。西の人間――いや、祀の人間にとって、式神を授かる事は家の跡取りとして認められたに等しい。四ノ冠の一角である四辻家。況してやお前の若さでとなれば、祀内部でも胸中穏やかでない者も少なくないだろう」
仮にも西の人間である晶に対しての夜霧の歯に衣着せぬ物言いに、彼も嘆息しながら答えるしかなかった。
「お前の言う通り、他の家から横槍はあった。でもその程度でやられる俺でない事は、お前も良く知っているだろう?」
「刻印式……か」
その言葉には、まさか使うつもりではないだろうな? という牽制が込められていた。たとえ内紛であっても、刻印式が使用されたとあっては、社も何らかの対応をうってくる。勿論、夜霧も美玖も弁護はするが、おそらく徒労に終わるだろう。京極家も東園家も社の十三柱であるにしても、合議制を取られている以上、限界というものがある。
つまるところ、万が一の場合は晶と敵対する可能性もあるという事だ。
だが、重々しく唸るように吐き出した夜霧の懸念を、晶は一蹴した。
「刻印式を使うつもりはない。そんなものに頼らなくても、逃げる事に注力すれば問題ないさ」
約一名が参戦してこなければだが――とは言わなかった。
その可能性は限りなく低いし、不必要に心配させるべきではない。
「そろそろ時間だ。予定通り明後日には帰ってくるから、顔を出しには行くよ」
「土産は生八つ橋で頼む」
「あっ! 私、ういろう! ういろうが良いでーす!」
「お前ら…………」
さっきまでの心配はどこに行った――と、苦笑気味に晶は旅立った。