一ヶ月前、あるいは二日後(3)
「……お・ま・え・は」
「アッハイ」
その地を這うような声を聞いて、あっこれアカンやつやと心の中でつぶやく。
なんかこういう語彙だけ前世知識が豊富ですね、私。
……どうせなら今を乗り切れる専門知識的なアレでスゴイオヤクダチ的なものが欲しかった!
私とパトリック様は向かい合って座っていたのだが、なんとなく真正面に腰を下ろしているのが恐ろしくなってきた。距離はとれないから、せめて真正面ではなく斜めにでもずれてみようかとドア側にそろりと腰をずらす、が――
「きゃあっ」
がたん、と馬車が大きく揺れると同時にパトリック様に腕を引かれ、浮き上がった腰をがっちり取られて引き寄せられる。
あれよあれよといううちに、私はパトリック様の左腿に横向きに腰かけるような体勢になっていた。待って待って何が起きてるのこれ。
「ぱ、パトリックさま……」
「オレが、どういう意図で、婚約を申し込んだと思ったのか……お前の考えを言ってみろ」
血の這うようなお声は継続中だ。至近距離からの冷たい視線が追い打ちをかけてくる。
殺 ら れ る!
「ハイッ! 申し訳ありません!
パトリック様の溺愛しているシャルロッテ様をマルゲリット様のような女性の悪手から守ろうとするために共同戦線をはろうというお誘いと理解しています!
申し訳ありません! 殺さないでください!」
私の回答(命乞い)を聞いたパトリック様はさらに眉を寄せると、馬車の壁をゴンゴンと叩く。御者席へつながる小窓を開けた御者へ指示を出す。
「王城へ引き返せ! 忘れ物だ!」
御者の返事を聞かずに小窓をぴしゃりと閉じると、パトリック様に腰と左手首をがっしりと掴まれながら睨みつけられる。距離を取ろうと体を反らせば、手首を引かれて戻される。
近いです近いです! もうそろそろ顔が、いえ唇がくっつく距離です!
やめてー! ファーストキスの思い出が死の恐怖とか笑えない!
「……なぜ、そう思った?」
「ハイッ! パトリック様と初めてお目にかかったのは一昨日です! それなのに二日後に婚約が成立するなど特別な目的以外ではありえないと考えました!」
恐怖で体が震えてきた。馬車の揺れとあいまって舌を噛みそうになりながら答えると、パトリック様が額を押さえてうつむいた。
至近距離だが、目元を右手でしっかり押さえてしまっているので表情はよくわからない。
「いや、言われてみれば会話の流れでそうも解釈できるか……」
しばらくぶつぶつと自問自答していらっしゃった。
あの、それはいいんですが……腰、離してほしいです。
もぞもぞと身じろぎしていたら、抱え直されてしまった。うわあ。
気を取り直したのかパトリック様が顔を上げた。
「確かに言われたとおり、一目惚れだのは信じない方なのは認めるが……そういうつもりで婚約を打診したわけではない。あの晩のあんたを見て、結婚相手にふさわしい相手と判断した結果だ」
「へ?」
どこがだ?
「……あの時の私は醜態をお見せした記憶しかないのですが……一体どこにパトリック様に気に入って頂ける要素があったのでしょうか?」
「そうだな……足かな」
「あし……っ!?」
言われた内容を理解した瞬間、とっさにスカートの裾を押さえて距離を取ろうとしたのだが、あっさりとパトリック様の左腕に押さえられ、再び彼の膝に逆戻りさせられた。
「うえっ」
逃げようとした瞬間に腕がお腹に食い込んで、変な声が出た……
思わずスカートをがっちり足に巻き付けてガードした私を見て、パトリック様がくつくつと笑っている。
「悪い、冗談だ。
まずあんたの納得しやすいところで言えば、シャルに害意がないってことだ」
「ああ……」
うん、これは納得できる。
確かにそこはパトリック様にとって重要な要素だろう。義理だし嫁いでいく予定とはいえ姉妹になるのだ、シャルロッテ様に悪意のある人間とお近づきにはなりたくないだろう。
「あと」
「他にもあるのですか?」
「ああ、むしろここからが本題だ。
あんたのお父上が騎士だってこともある。あの会話で、あんたはきちんと騎士の家族としての覚悟を決めているとオレはみた」
「覚悟と申しますか……生まれたときから私たちは騎士の家族でしたので……」
私の言葉にパトリック様が納得した様子を見せた。
「ふむ、なるほど。騎士の家系が騎士の娘を娶ることが多いのは、そういう側面もあるのか。
貴族のそれと似てはいるが、もっと生き死にに直結した覚悟だからな」
「言われてみれば……今まで普通に生きてきた方にいきなり親類が死んだ時のことを考えておけと迫るのも酷な話でございますね」
高位貴族に仕える騎士の殉職率はわりと高い。
わりと治政が安定している昨今だが、それでも物騒なことがまったくないわけではない。そういうときに真っ先に危機がやってくるのは、今上陛下をはじめとする宰相閣下や公爵閣下のような政治の中枢におわす方々の御身を守る騎士だというのも自然な流れだ。
治政が安定しているということは、それなりに治安もよいということだから、日常では不慮の事故や災害を除けば命の危機もそんなに身近なものではない。
そんなご時世に、それなりに地位があるとはいえ命の危険のある仕事に就く人を伴侶にしようと考えるにはそれなりに覚悟がいるだろう。
「ああ。オレも曲がりなりにも騎士を名乗っている人間だからな。そこは最低条件だ」
「しかし、私は貴族と名乗るのおこがましい身分なのですが、伯爵家に嫁ぐのは実際難しいのでは……」
父は騎士位を持っていて、これは下位の男爵と同等くらいの地位だが、一代貴族なので娘である私は平民のようなものである。
「しばらく戦乱もなく平和な時勢が続いているからだろうが、そろそろ政の方では民間から登用をと言われ始めているくらいなんだぞ。そんな時代に民間に近いとはいえ曲がりなりにも貴族であるあんたが伯爵家に嫁いで困るのは、身分に執着するわりに実力が伴わない奴らくらいだ。
それにあんたは公爵閣下が重用しているレオナール殿の秘蔵っ子だ。羨ましがられることはあるかもしれんが、問題になることはないだろう」
「秘蔵……されていませんが」
ちょっと卑屈な言い方をすれば優秀な姉三人の絞りかすですが。
私の反論にパトリック様が眉を上げた。
「……ジェリィ、アベカシス四姉妹の社交界での評判を知っているか?」
「ええ、存じております」
もちろん知っている。姉たち三人は身分は低いながらもそれぞれの才覚のおかげで交友関係が広い――つまり、低位貴族の皆様には知名度があるのだ。高位貴族のほうに話が届いているとは思わないが。
「言ってみろ」
「ええと、次期家長として采配を振るう長女、流行の先端を行く次女、精霊姫と言われる三女に、特に特長のない四女……でございますね」
「そうだ。だがそれは最近のものだ。あんたがデビューする前のことは知っているか?」
昔のことは誰からも聞いたことがなかったので首を振る。
「かつてはなんと言われたかというと、炎のように苛烈な長女、美しいが冷淡な次女、強力な魔女にして行動の読めない三女、だな」
「まあ……」
私が目を丸くすると、パトリック様は笑った。
「四女のあんたは三人とそれなりに年が離れているだろう? 先に社交界に出た三人は気難しいことで有名だったんだ。
身分が高いとは言えないあんたの姉たちは、それぞれ目立っていたことも一端だろうが、それなりに周囲からやっかみを受けていたことは想像できるだろう?
そして彼女たちは敵と判断した相手への対処は、話に聞くかぎりなかなか容赦がなかった。オレは自身の立場を守りつつ上手くやるものだと感心していたが、いささかやり過ぎではないかと眉をひそめる者もなかったわけではない」
想像に難くないので私は思わず微笑した。半笑いともいう。
「そこで昨年デビューした四女……ジェリィ、あんただ。
絡まれている姉たちの前にどこからともなく現れて、姉の怒りを巧みにそらしてしまう。相手に悪意がないなら仲裁をして橋渡し、悪意がある相手ならさりげなく引き離す」
ええ、姉たちの怒りを逸らすのは得意です。怒りが私に向いていないことが前提ですが。
家で勃発する姉妹ゲンカの仲裁は、私と母の仕事ですから。
だからといって、悪意ある相手に対して姉の怒りを納めてもらう方法を私は知らない。だからマズいと思う相手とは距離を取らせるしかないだけだ。そうでないと血を見る。こわい。
「そのおかげだろうな。ここしばらく四姉妹の評判は徐々に上がってきている。実力通りの評価をされ始めたわけだ」
「姉たちは私が思っていた以上に有名だったのですね……パトリック様がご存じでしたとは……」
「どこまで有名なのかは知らん。四姉妹の評判が変わった理由――四女の存在に気づいている人間は多くないようだしな」
「え」
では、パトリック様はどうして私たち四姉妹のことを知っていたのだろう。
「オレよりもあんたたちを詳しく知っていたのは母だ。あの人もそれなりに顔の利く人だからな。
母から聞いた話と先日の話ぶりから、あんたなら多少家格が上の家に嫁いでも問題ないだろうと判断した」
「家格の差は多少と言っていいほどのものではない気がいたしますが……でも、それじゃあ」
あのときエルちゃんの騎士の話を持ち出されたのは、私側にも婚約にメリットがあることを言いたかった……つまり、あれは口説き文句だったってことなのだろうか。
自分だけでも私の方にもメリットを提示してくださったということは、少なくとも一方的なものにならないよう考慮した上で婚約を申し込んでくださっていたということになる。
なんということだ、私は思いっきりパトリック様のお人柄を誤解していたということだ。
人でなしのような扱いをして怯えてすみません……
「申し訳ありませんでした……」
「誤解が解けたようでなにより。ところで」
パトリック様は私の手を取り甲を親指で撫でた。くすぐったい。
あの、お怒りが解けたのであれば、そろそろ普通に向かい合って座ることにいたしませんか……
困った表情をしたのがわかったのだろう。パトリック様はきらきらしい笑顔を見せて、またしてもできるだけ距離を取ろうとのけぞっている私を引き寄せる。
「どうやって、自分の身を守るつもりだったのか教えてもらおうか? 具体的に言えよ?」
「アッハイ」
とりあえず家に迷惑がかかりそうな実害がありそうなものは全力回避して、あとは甘んじて受けようとしていました。
ということを遠回しに伝えたところ、パトリック様が笑顔のままに般若になった。
器用ですね! しかしこわい!
「つまり、策はないということだな?」
「アッハイ。私には笠に着せることのできる身分も能力はありませんので……」
今まで交友を深めてきた方々がどの程度手助けしてくれるかも、どの程度周囲に迷惑をかけずに助けを求められるかも、ひとまず様子を見てからでないと具体的な展望が立てられませんというか。
私の返答にパトリック様は息を吐いた。
「……とりあえず、オレの婚約者って身分は笠に着ていい。伯爵家を盾にしていいから厄介な相手からは全力で距離をとれ。
あとは……いくつか武器を作っておくべきだな」
言いながら、パトリック様は馬車の窓についたカーテンをちらりと払って外をうかがった。
そういえば、馬車を返させていたなと思い至る。
「あの、馬車を王城へ戻したようですが、どちらへ?」
私が問うと、パトリック殿が物騒な笑みを浮かべて見せた。
「決まっているだろう? 武器を調達にだ」
あらすじはここのシーンの引用でした。
少しはパトリックへのイメージが良くなればいいなあと、書きながら祈りを捧げています。