一ヶ月前、あるいは二日後(2)
心が満身創痍になりながら最後の気力で城の出口へ向かっていると、エスコートしてくださっているパトリック様がためらいがちに口を開いた。
「貴女は、オレに言いたいことはあるか?」
「言いたいことで……ございますか?」
「そうだ。結婚するということは、生活を共にすることだ。
貴女の希望とか、これだけは譲れないとか、そういうのがあるだろう。あらかじめ知らせてもらえれば、可能な範囲でなんとかする」
「まあ……」
少し感動した。少なくともパトリック様は歩み寄ってくださる気があるようだ。
それならばとさっそく考えてみるが、やはり急に思いつくものでもない。
「……お申し出は大変嬉しく思うのですが、すぐにこれというものが思い浮かびません……」
「まあ、そうだろうな。都度言ってくれ」
「はい。
あ、ひとつだけ――」
ふと思いついたことが、ひとつ。
「なんだ?」
「その……名前を、呼んで頂ければ」
初対面時の『あんた』から『貴女』になったのは進歩だとは思うが、さすがに仮にも婚約する身の上で名を呼ばれないのは不自然すぎる。いくらシャルロッテ様のための婚約とはいえ。
パトリック様も気づいたのか、ばつの悪そうな顔をした。
「………すまなかった、ジェラルディーヌ。ジェリィと呼んでも?」
「はい。よろしくお願いいたします、パトリック様」
「ジェリィもそれでは他人行儀だな。パットと呼ぶか?」
「えっ、その」
一気に顔に血が集まった。男性と親密に話すのは慣れていません。
現実逃避に前世はどうだったかなと考えるが、そこまで明確に記憶があるけではない。
そういえば幼児が胎児の時にお腹の中のいたころのことを覚えていることがあるという話を聞く。では私の記憶がその程度のおぼろげなものなのかというと、かといってそういうわけでもないのだ。
なんというか、過去の自分のことは物語を見て知ったかのような。うまく言えないが、過去の記憶はわりと他人事のように感じている。
知ってはいるが、そこに感触やにおいなどの五感の記憶は残っていないから、過去の自分に現実感がない。
つまり何が言いたいかというと、今世の私は父や閣下の家の執事(父と同い年くらいだ)の方たち以外の男性とまともに会話したことがほとんどないってことだ。
これでも社交界デビューして一年経ってますがなにか!?
婚活中でしたがなにか!?
私の反応を見てパトリック様は目を瞬かせた。そして、意地悪くにやりと笑う。
「パットが恥ずかしいなら――あなた、でもいいぞ。
男が言うと他人行儀になってしまうが、女性がそういう呼び方をするとそそるものがある」
「えっ」
にやにやと笑うパトリック様に腰を引き寄せられた。
やめてー! もう少しお手柔らかにお願いしますー!!!
こんな美形に至近距離で、しかもこんな色気のある表情で見つめられたことはありませんよ悪いか!? と誰にでもなくやつあたりしたい気分である。
パトリック様は、硬直し今にも卒倒しそうな私の顔をかなりの至近距離で見つめた後、ふっと笑って婚約者らしい適正な距離に戻ってくれた。
心臓が破裂するかと思った。
数度深呼吸をして、しおしおとつぶやく。
「し、しばらくは、パトリック様と呼ばせてください……」
「慣れたら、いつでも好きに呼べよ。待ってる」
シシリー……シシリー……私は貴女の脳内に直接呼びかけています……
シシリー……私は今、鼻血を出して死にそうです……
「さて、茶にでも誘いたいところだが、ジェリィはお父上から寄り道するなと言われていたな」
「あ……はい」
控え室での会話のことだ。覚えていてくれたようだ。
いえ、盗み聞き(?)ではあるので手放しで褒められはしないのだけど。
「では、馬車の中で話をするか。送るよ」
言うが早いか、あっという間に立派な馬車に乗せられた。我が家から出してもらった馬車は父の帰りに使えるから置いていっても問題はないだろうが、男性と馬車に二人っきりというのは問題にならないだろうか。
「婚約者となら問題ない。御者と従者もいるから厳密には二人きりではないしな」
おそるおそるそのことを尋ねると、パトリック様はあっさりとそう言った。
そういうものなのか……? でも従者の人、御者席行っちゃったけれど……?
首を傾げながらも導かれるままに馬車へ乗り込む。
「さて、今後のことを話し合っておこう」
「はい」
その言葉に最後の気力を振りしぼり姿勢を正す。
「まずは挨拶だな。互いの家同士、きちんと顔を合わせる機会を作ろう。日程などは改めて相談の連絡を送る」
「はい」
パトリック様の言葉にうなずく。思っていたよりも本格的な婚約っぽいな、と思う。
「その挨拶を終えたあとに、正式に婚約をしたことを公表する。
本当はシャルの方が婚約がかたまったのは先だが、生まれの順ということで公表はオレたちの方が先になるだろう」
「まあ! シャルロッテ様、無事に婚約の運びになられたのですね。おめでとうございます」
「……ありがとう」
シャルロッテ様とかの方は、あの劇的な出会いのあと無事に婚約の運びになったようだ。おめでたいことだ。
……ややシスコンの気があるパトリック様はあまり面白くないようだけども。
口では礼を言いつつも、表情が苦々しいパトリック様を見て、ちょっと笑ってしまった。
「それよりも、問題はオレたちの婚約を公表したあとだ」
「え? なにか懸念がございますか?」
私が首をかしげると、パトリック様が額をおさえた。
「ジェリィ、あんたは……シャルのときは他人事にも係わらずあんなに怯えていたくせに……自分の時はそんなにのんきなんだ」
なんということでしょう。『あんた』呼びに戻ってしまった。
「のんき……ではないつもりですが」
「いや、のんきだ」
ぴしゃりとパトリック様に言われるて首をかしげる。別にのんきなわけではない、ただそのあたりについてはあきらめの極致にあるだけで。
「伯爵家の娘であるシャルのときですら周囲からのやっかみを警戒しなくてはいけないと言っていただろうが。自分がもっと危険な立場になるとは思わないのか?」
「それはそうですが、それが目的なわけですし……」
むしろ、どうしてパトリック様がそこを懸念しているのかよくわからない。
「目的? どういうことだ?」
パトリック様が眉をひそめた。
「ですから、シャルロッテ様に累が及ばないよう、私がパトリック様の婚約者のふりをして囮になることが目的ではございませんか。
パトリック様にここまで協力頂いている以上、なんとかしのいでみせますので、ご安心ください」
パトリック様の口がぱかっと開いた。
その姿のまま硬直して、しばらくそのまま動かなくなったので、美形な人は鳩が豆鉄砲食らったような顔でも絵になるんだなあ、と眺めてしまった。
しばしのあと、パトリック様がうつむいた。お顔が見えなくなる。
話をどこで区切ったらいいのかわからなくなっております。