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蝶愛  作者: 蒼目ハク
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羽化

 次に会った時、雅彦は見違えるように変わっていました。私が部屋に来るなり、堰を切ったように蝶への熱き想いを話し始めるのです。声を弾ませ、はじける笑顔で語る様はあたかも無邪気な子供のようで、私は耳を傾けながら何度も相槌を打っていました。

 無頓着だった外見もきちんと整え、食事も三食しっかり摂るようになったのか顔の色艶が良いです。何より表情が明るく、生き生きとしています。不健全で無気力に日々を過ごしていたのが嘘みたいに若々しさを取り戻していました。

 壁のあちこちには蝶の標本が飾られ、床は畳が見えないぐらい蝶に関する書物で埋め尽くされています。

 この一週間で雅彦は、水を得た魚のように快活になりました。

「雅彦、すっかり元気になって、積極的に外出もするようになったんですよ。本当に叔父様のおかげですわ」

 華子が晴れやかな顔で茶を啜ります。客間の座卓を挟んで向かい合って座る私は、首を撫でながら笑顔を返します。

 またいつ雅彦の心に渇きが襲って来るかは分かりませんが、何はともあれ再び潤いに満ちた生活を送れるようになったのです。それだけでも良しとしなければいけません。

 しかし、私は内心雅彦の変化に疼くものを感じていました。その疼きが何であるのか、何故か触れてはいけないような気がしました。



 数日は何事もなく過ぎていきましたが、翌週灰津家を訪れた時、華子はまた元の泣き顔で私を出迎えました。黒髪を無造作に垂らして疲弊しきった姿から深刻さが伝わって来ます。

 私は、嫌な予感に急き立てられるように離れに向かいました。

 雅彦の部屋まで辿り着き、いつの間にか襖絵が牡丹と黒揚羽に変わった戸を断りも無く開けると、そこは以前にもまして蝶で溢れた部屋になっていました。

 シロツメクサの周りを飛ぶヒメシジミの水彩画が、標本と共に壁に飾られています。どこかで見覚えがあると思ったら、あれは姉が描いたものです。

 天井を見上げると、あらゆる角度から撮影された蝶の写真が所狭しと貼られ、床の間には彼岸花の蜜を吸うキアゲハの掛け軸、そして、普段は何も無いはずの床畳の上には大振りの花瓶が置かれ、そこには、まるで蝶を誘うかのように百合が活けられています。

 むせ返るような蝶の世界に我が目を疑いながら、部屋の隅々に視線を這わせます。

 樫の机の上には、標本造りの途中でしょうか、翅の形を整える展翅板に虫ピンで止められたアオスジアゲハの姿があり、何故かその横にはすり鉢が置いてあります。中を覗くと、何かをすり潰した跡が残っています。

 私は思わず口を押さえて後ずさりました。わずかな吐息で鱗粉が舞います。


 蝶――。


 すりこぎによってすり潰されていたのは、蝶でした。ざっと見ただけでも十匹はいます。

 季節に不似合いな悪寒が走り、冷や汗が背中を伝い落ちます。

 どうして、こんな……。

 堪らず視線を逸らすと、異彩を放つ虫の存在に目が留まりました。

 床柱に張り付いたまま動かない、直径十センチメートル程のあれは、ヤママユでしょうか。黄土色の、目玉のような模様が羽にある蛾。

 私は眉間に皺を寄せ、首を撫でさすります。

 身体を貫いて刺さっている彫刻刀が、蛾の死を如実に物語っていました。

 くらくらと目眩を覚え、額に手の平をやります。先程から頭の奥が錐で突かれたように痛むのは、この異様な世界に足を踏み入れたせいでしょうか。それとも……。

「来てたんだ」

 中庭から雅彦の声がして目を遣った私は、現れた姿に息を呑みました。

 白い長襦袢の上に蝶を散らした振袖を纏い、唇に赤い紅を差した、まるで女性のような身なり。

「驚いた? 母さんのなんだけど、よく似合ってるだろ」

 そう言って雅彦は、誇らしげに一回転してみせます。長い袖が蝶の翅のようにひらりと舞い、赤地に描かれた大小様々な色とりどりの蝶達が、今にも飛び出してきそうです。

 確かこの振袖は、二十年前、姉が成人式の時に着ていたものです。

 姉の雅に瓜二つの姿の雅彦に、私は目を奪われていました。艶のある長い黒髪、白くきめ細かい透き通るような肌、凛とした涼しい目元――品があるか無いかの違いはあれど、大衆を魅了するには充分な美貌と言えるでしょう。

 私の頭は、万力で締め付けられているみたいな圧迫感を伴う痛みに変わっていました。

 雅彦は、私の反応に気分を良くしたのかあどけない微笑を浮かべます。

「この口紅は美子のなんだけど、俺の方がよっぽど映える。母さん似で器量が良いからな。美子がいくら化粧をしたところで不器量には変わりない。あいつ自分の醜さを消すのに毎日必死だけど、無駄な努力ってものを知らないね。父さんに似てしまった運命は素直に受け止めるべきだと思わないか? 華子姉さんみたいに。そういや、父さんの日記に書いてあったな。姉妹には華美な女性に成長してほしいという願いを込めて名付けたって。華やかでも美しくもなく、どう飾ったところで弟にすら負ける惨めな名前負けの容姿に育つなんて、がっかりしたろうな。日記から失望が滲み出てて笑ったよ。父さん几帳面でさ、毎日起きた出来事を事細かに書いてた。照れるようなことから、目を背けたくなるようなことまで赤裸々に。初めて知ったことが結構あって驚かされたよ。でも、興味深かった。二十年前のこととか特に。……どうした? 顔が真っ青だぞ、久壱」

 淀みない弁舌の最後に唐突に呼び捨てにされ、私は金縛りにでもあったかのように身を強張らせます。

 雅彦は中庭から部屋に入り、姿見に自身を映して鏡越しに私を見つめ、笑います。元々端正な顔立ちな為、その笑みはぞっとする程妖艶です。

 鏡の中で、雅彦のねっとりと絡み付く視線に捕らえられた私の一重の目が、驚きと得体の知れない恐怖に見開かれています。

 こうなるのを危惧しなかった訳ではありません。しかし、あのまま朽ち果ててしまいそうな雅彦を放っておくことなどできなかったのです。私が拒絶したら、誰が雅彦を救うというのでしょう。

 私は内心で言い訳し、困惑しつつも、この部屋の様変わり具合についてなるべく刺激しないよう問い質しました。

「ああ、こいつか……」

 雅彦は、床柱に彫刻刀で貫かれた蛾を忌ま忌ましげに睨みつけ、

「昨晩この部屋に侵入してきて薄汚い鱗粉を撒き散らしたから、罰として止まったところを一突きにしたまでさ。麗しき蝶の偽物は虫酸が走る程汚くおぞましい」

 雅彦の目には、確かな憎悪が込められています。

 では何故、愛する蝶にこんな酷い仕打ちを?

 頭痛を堪えつつ、次に私はすり鉢に目を落として問います。

「これは、蝶の調理法を試行錯誤してるだけだよ。女中にいくら頼んでもやってくれないから、仕方なく自分で飯に混ぜてみたり茶に入れてみたり、色々工夫してる。身も心も蝶になるには、味も知らないといけないだろ」

 雅彦はさも当たり前だと言わんばかりに答え、すり鉢から原形を損なった蝶を摘んで口に運び、咀嚼します。

「お前も食えよ。なかなか乙な味がする」

 見るも無惨な残骸を差し出され、私は首を振って拒みます。

 完全に蝶の虜になってしまった雅彦を前に、私は畏怖を感じずにはいられませんでした。自身の顔が引き攣っているのが分かります。

「……何だよ、その目」

 雅彦はさっと表情を消し、怒りを内包した冷えた声音を放ちます。

 そして、蛾に突き刺さったままの彫刻刀を徐に抜き取ると、体液が付いた刃先を真っすぐ私に向け、

「俺の邪魔をする奴は、蜘蛛や蟷螂と同じ。蝶の敵だ」

 じりじりと距離を縮めて来る雅彦に気圧され、私は後退します。しかし、言い知れぬ空気に押されるままあっという間に壁際まで追いやられてしまいます。

 私の首に躊躇無く刃の切っ先を当てる雅彦。

 喉笛に刃が食い込み、鋭い痛みが走って血が肌を滑り落ちる感触に全身が粟立ちます。

 私は瞬間的に死を覚悟し、目を閉じました。

 しばらくそうしていると、嫌らしい含み笑いが鼓膜を震わしました。

 恐る恐る目を開けると、紅い唇を歪めて嘲笑する雅彦の姿がありました。

「蝶はただ美しいだけじゃない。中には毒を持つものもいる。いいか久壱、今度そんな目で俺を見たらお前といえどもこうだ」

 そう言って雅彦は、自身の首を切るようにして彫刻刀を真横に引いてみせます。

 私は息苦しくなり、血を垂らす首をさすりながら逃げるようにして部屋を飛び出しました。

 獣のような下卑た哄笑が部屋の中から響きます。

 やめてくれ、もう……。

 私は頭を両手で押さえ込み、蠢動する何かを必死に鎮めようとしました。

 けれど、その甲斐も虚しく鈍器で殴られたような頭痛が襲い、私はその場で倒れました。

「……姉……さん」

 すっかり枯渇していた喉の奥から、酷く耳障りな嗄れ声が漏れ出ます。

 薄れゆく意識の中で、姉の姿が浮かびました。

 何よりも美しい、姉の姿が――。



「近江の叔父様、ご気分いかがですか?」

 うっすらと目を開けると、華子の憂色漂う顔が目に入りました。

 どうやら私は、布団に仰向けで寝ているようです。

「離れの方で大きな物音がして行ってみたら、叔父様が倒れていらして、庭師の方がこの客間まで運んで下さったんです。すみません叔父様。きっと雅彦が何か、したんでしょう? ああ、どうしてこんなことに。私、蝶に狂うあの子を見るのが辛くて、可哀相で……かと言って廃人みたいに戻ってしまうのも怖くて……何も出来ない自分がもどかしいです」

 項垂れて涙ぐむ華子は、かなり思い詰めているようです。

 気を失う前の激しい頭痛はいつの間にか消え失せ、頭の中は綺麗に澄みきっていました。その代わり、心は汚濁に塗れていました。胃袋を鷲掴みされて揉みくちゃにされたような不快感があります。

 罪悪感――恐らくはそのせいでしょう。今こそ贖いをするべきなのだと、天啓のように感じます。

 その時、不意に襖が開けられ、美子が入って来ました。かなり立腹した面持ちで、眉と目が吊り上がっています。

「叔父さんのせいよ。余計なことするからまた雅彦おかしくなっちゃったじゃない。元々頭のネジが十本くらい抜けてる奴だったけど、ますます悪化したみたいだわ。こんなことならおとなしい廃人でいた時の方がマシだったわよ。死んでいるのと変わりないんだから。あたしが大事にしてた口紅まで盗んで、まるで手癖が悪い猿みたいだわ。全く恥ずかしい。あいつは灰津家の恥曝しよ」

「美子……」

 声を荒げて息巻く美子を、華子は蒼白な顔で見遣ります。

 私は、ある決意を胸に身体を起こしました。手当てが施された喉元に触れながら、口を開きます。

「雅彦を……病院に、入れよう……」

 私の意外な発言に、華子も美子も目を丸くし、言葉を失います。

 私の意思は揺るぎないものでした。全ての責任は私にあります。一刻も早く行動に移さなければなりません。四の五の言っている段階ではないのです。

 使命感に背中を押される自分が、そこにはいました。



 翌日、早速私は行動を開始しました。病院に連れて行くと言ったら暴れかねないから、食事に睡眠薬を入れるよう華子に頼んであった為、やすやすと雅彦を部屋から出すことができました。

 私は背負っていた雅彦を降ろし、車の後部座席にそっと押し込みます。

「叔父様、やっぱり私も一緒に……」

 華子が申し出ますが、私はやんわりと首を振り、

「雅彦の狂いは、私が生み出してしまった。だから……私に、罪の償いをさせてくれ。詳しいことは追って知らせるから、気を揉む必要は無い。大丈夫。雅彦は、すぐに元気になって戻って来るよ」

 私がそう諭すと、華子は渋々納得した顔で「よろしくお願い致します」と言って、丁寧に頭を下げました。何とはなしに、いつもはしているはずの朱色の帯紐が無いことに気づきました。相当慌てていたのでしょう。無理もありません。

「叔父さん、ゴミと一緒に捨てて来てもよろしくってよ」

 美子がいつも通りのけばけばしい格好でやって来て、腕組みをしながら悪戯っぽく笑います。

 私は、美子の冗談のような本気を無視して車に乗り込み、発進しました。

 睡眠薬で深い眠りに就いているとは言え、雅彦を起こさないよう慎重な運転を心掛けなければなりません。

 しかし、もうすぐで着くという時、背後からわずかに呻き声が聞こえました。

 まさかと思いながら私は車を止め、振り返ります。雅彦は後部座席で目を瞑ったまま、静かに寝息を立てています。

 杞憂だったと安心する私でしたが、その時、雅彦ののけ反った首筋に妙なものを見つけました。

 抜けるように白く透き通った喉に走る、一本の青黒い線。

 目を凝らして見てみると、それは何かで絞めた痕のようでした。

 私は、すーっと血の気が引いていくのを感じました。

 その細いけれども明確な線は、純然たる殺意を訴えていたのです。


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