蝿
ぶーんという音が夢の中に満ちていた。
はっと目を覚ますと、そこはいつも露店を開いている市場で、俺は麻袋の山にもたれかかって眠っていた。麻袋は、土で出来た宿屋の古い外壁を覆い隠す勢いで積み上げられている。
さっきまで見ていた夢の記憶を手繰り寄せようとしてみたが、すっとどこかへ消え去ってしまって、思い出せそうで思い出せない。深く深く考えていく内に、夢は溶けて消えてしまった。
しばらく未練がましく、ぼんやりと首を捻っていたが、ぶーんという耳障りな音が耳にひっついて、一気に意識が引き上げられた。
反射的に耳を張って掌を見たが、惜しくも逃げられた様で、何も付いていない。ただ顔の側面にじんとした熱が淀んだだけだった。それを馬鹿にする様に一匹の虫が目の前を飛んで行った。
もう夢は完全に霧散していたが、その代わりに段々と薄ら寒い不気味な感覚が皮膚を粟立たせた。何か分からないが、とても嫌な予感が体全体を震わせた。
夢を覚えていると気がふれる。迷信深い厩のじいさんが言っていたうわ言が頭をよぎった。
嫌な思いを振り払う為に目の前に広がる大通りを注視した。
砂埃を巻き上げる雑踏が広がっている。交易の通り道なだけあって、ひたすら人が多い。人種も国も宗教も文化も何もかもがごった煮の異人達が、赤やら青やら黄色やらの衣服を着て色彩すらもごった煮の雑踏を作っている。色が右へ左へと移り変わって、光球から燦々と照りつける熱さがその刻々と変わる雑色を揺らめかせ、流れうねる往来の極彩色がどろりと混ざり合っていった。
ぐわぐわんと頭が揺れる。ちかちかと光る色の奔流が目の奥を撫でつける。
視覚のみがどんどんと鋭くなって、次々と変化する奇々怪々とした景色のみが世界の全てになり、しんと静まった迷妄するこの世の地獄がゆっくりと脳天を揺さぶっている。
はっとすると、青い空が広がっていた。辺りを見回すと、いつも露店を開いている市場だった。背後の麻袋に体を預けて気を失っていた様だ。
横に立てた水筒を手に取り、蓋を開けて口をつけた。口の中に広がった冷たい刺激が頭をはっきりと覚醒させてくれる。
おかしい。大通りを歩きまわる人だかりなど見慣れた光景のはずなのに、何故頭がこんがらかったのだろう。あるいは何かの病気だろうか。
今日は店を畳んで切り上げようかと考えていると、再び唸る羽音が耳の周りに付きまといやがて耳に何か張りつく感触があった。
今度こそと気合を入れて叩くと、何かをつぶす感触があった。見ると手のひらに、べったりと虫の死骸がへばりついている。ここ数日で急に増えてきた害虫だ。食物を腐らすというので、飯屋なんかが殺虫剤を買いあさっている。背後に建つ宿屋の女将も昨日血相を変えて、雑貨を扱う俺のところに殺虫剤を買いに来た。お陰でここの所の売り上げは好調だ。虫様々といったところか。
汚れた手のひらを見ながらつらつらと考えていると、今度は普段は気にも留めない市場の音が、今日に限っては何故だか無性に気になった。
熱気で膨らんだ空気が震えて、耳の奥を切り刻んでいた。道行く人の話し声や馬の足音、商人の呼びかけ、商品の擦れ合う音、舞い上がる砂埃の音、そんなものが混ざり合ってざわざわと、脳みそまで響いてくる。
足音が聞こえる。こちらに近づいてくる様だ。集中をどん底まで凝らしている為か、幾つもの足音の中から、こちらに近付く足音だけをはっきりと聞きわける事ができた。顔をあげようと思うのだが、汗と混ざって滲んでいく虫の体液から何故だか目を逸らせない。
足音が止まると、ぐにゃりとした挽き潰れた音が頭の中にねじ込まれた。それでも虫の体液の行方から目を逸らせないでいると、強い調子で肩を揺すぶられた。
掌から視線を逸らした拍子に顔を上げると、目の前に身綺麗な恰好をした髭面の偉丈夫が立っていた。首都の軍人である事を示す緑の帽子を頭に載せている。指には枝を燻らせて、侮蔑の色合いと若干の警戒を含んだ目つきで俺を見下ろしている。多くの人間がやってくるだけあって、悪党ごろつきの類も多いこの町は、首都の人間達から疎まれている。同時に交易商の通り道でもある為、この町で財を成す人間も多く、その点では首都の人間達から妬まれている。首都から逃げ込んだ犯罪者も多い為、軍人からすれば尚更目の上の瘤となっている。相手の目つきはその表れだ。
「何用で?」
愛想という物を習った事がない俺は、短くそう言った。
軍人は無理矢理作ったとすぐに分かる、憎々しさが滲み出たぎこちない笑顔を浮かべて、俺がよりかかっている麻袋を指さした。
「その中にあるだろう? 虫を殺す奴が」
「まあ、ありますがね」
「全部貰おう」
思わず笑みが零れてしまった。というのもここ最近売れ行きが好調な事もあって、積み上げた袋の中は全て殺虫剤だ。相手もさすがにそれだけの量とは思っていまい。目の前の相手が一体どんなふうにうろたえるのか、わくわくした思いで、はっきりと言ってやった。
「旦那、後ろに積んであるやつは全部虫殺しなんですがね」
にやにやと笑いながら積んであった袋を一つ取って開ける。
軍人は僅かに目を見開いたが、すぐに憎々しげな笑顔に戻って、懐から袋を取り出し俺に投げ渡した。開けると袋一杯に質の悪い宝石が詰まっていた。質が悪いと言っても、全部合わせれば、後ろに積んである全ての殺虫剤の四、五倍位には値打ちがある。
驚きで固まっている内に軍人は何処かにいた仲間と共に、俺の後ろの商品を馬車の荷台に積み上げていった。
「どうだ?」
顔を上げると軍人が枝をつきだしてきた。受け取ると、軍人はマッチに火を点けてそれを枝に移す。
「そこらの葉巻とはわけが違う上等物だ。一本くれてやろう。大事に吸えよ」
軍人は最後に本心からの笑顔を浮かべて去って行った。
宝石袋を握りしめて、俺はしばらくぼんやりしていたが、やがて腰を上げた。今日はもう切り上げよう。体調が良くないし、商品もほとんど売れてしまった。それになんだか眠い。
残った商品をまとめていると、しゃがれただみ声がかけられた。
「よう、儲かったみたいだな」
まだ昼を少し過ぎたばかりだというのに、酒瓶を携えて酔いに酔った飲み仲間が上機嫌に立っていた。口には俺が咥えている物と同じ枝を咥えている。
俺が非難がましく酒瓶を見つめていると、そいつは笑いながらポケットから金貨を取りだした。
「あいつらそこいら中の殺虫剤を買いあさっててな。俺はその先回りをして殺虫剤を買い集めて、売りたたいてやったんだ」
豪放な様子で笑いあげると、そいつは俺の肩を掴んで往来へと引っ張り込んだ。
「お前も相当もうかったみたいじゃないか? え? どうだこれから飲みにいかねぇか?」
そいつの吐く酒気に当てられながらも、体調を理由に固辞して、俺は残った商品を抱え上げる。そいつは残念そうな顔をしたがすぐに俺から離れて上機嫌に鼻歌を歌い出した。
別れ際に酒瓶を掲げたそいつから、謳う様な声が背中に投げかけられた。
「そういや、あいつらはあんなに買い込んで何をするつもりなんだろうな」
家に帰って横になると、右腕に痛みを感じた。見れば右腕に腫れ物が出来てい押すと痛んだ。ぶよぶよとした柔らかな感触が気持ち悪い。何だか熱が更に上がった様で部屋の中が回っている。本格的に風邪をひいたらしい。気が付くと眠っていた。
気が付くと、酷く肌寒かった。目を開けると真っ暗だった。
どうやら夜になった様だと、月明かりだけが頼りの闇の中、夢現で毛布を引っ張ったが何かに引っかかっている。もう一度強く引っ張ってもやはり何かに引っかかって手繰り寄せられない。毛布の先を月明かりに照らしてみると、日中に酔っぱらって話しかけてきたあの飲み仲間が転がっていた。大方家に帰るのが面倒になって家に押しかけ、その上俺の寝床を占領したのだろう。俺が蹴りを入れるとそいつは呻きすら上げずにころりと転がった。妙にぶよぶよとした感触がした。俺は毛布を取り返して横になる。右腕に痛みが走る。触るとやはり腫れ物が痛い。ぶよぶよとした感触は更に弾力を増していて、その上大きくなっている様だった。明日になったら裏のばあさんに診てもらおうと思いつつ、右腕を庇いながら眠りについた。
左腕の痛みに、はっとして身を起こすと、路地裏のゴミ捨て場に倒れていた。痛みの走った左腕を見てみると、すっぱりと切れていた。近くには血のついた陶器の破片が落ちている。
体を起こすと、頭が痛み、酒臭い息が口から洩れた。体が鉛の様に重い。
目を落とすと、体に纏わりつく様に、ぶーんと数え切れないほど虫が唸っていた。顔に左手を強く押し当てると、掌に沢山の虫がへばりついた。不思議と纏わりつく虫の感触はなかった。ただぶーんという虫の羽音とふらりふらりと揺れる路地裏の薄暗い汚れた道が癇に障った。
辺りを見回すと、場所は大通りの脇道の様だ。日が落ちても酔客で賑わうこの辺りから、虫の羽音以外に何も聞こえないところを考えると、もう深夜をとうに過ぎた頃だろうか。ところが空を見上げてみると、日が照っていた。日中の割にはやけに静かだ。
家に帰ろう。
大通りに出ると、いつもなら沢山の往来で賑わっているはずなのに誰もいなかった。荒れ果てた露店が商品を残したまま打ち捨てられて、虫がたかっていた。
目を凝らすと木箱の陰に人の腕を見つけた。重たい脚を動かして、近寄って見ると、なんて事はない。虫の塊が人の腕の形をしているだけだった。
「おーい……」
大きな声を出してみたが空しく反響して、虫のぶーんとした音に消えてしまった。
「おーい……」
声を上げる度にひどくなる視界の揺れを我慢しいしい、しばらく声を上げながら歩いていると、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、兵隊を伴った昨日の軍人がいた。煙を上げる枝を咥えたその顔にはやっぱり笑顔になりきれていない笑顔を浮かべていた。昨日と違うのはそれが悲しそうな顔だという事だ。
「この前の露天商か」
後ろに控えている兵隊たちは、みんな何か不気味なものでも見た様な顔をしていた。皆が皆、同じ様に煙を上げる枝を咥えていた。
「……昨日の旦那じゃあ」
そこで咳き込んで言葉が途切れた。
咳き込んだ顔を上げると、軍人の顔が更に悲しそうな、哀れそうな顔に変わり、後ろの兵隊達の顔が更に恐ろしげに歪んだ。虫がひしめく街の中で、そこだけは虫の居ない清浄な空間を作っていた。まるで神の一団の様に。
「まだ喋れるのか」
そう言って、何故か剣を抜いて近寄って来た。
冗談かと思ったが、明らかに殺意を持って近寄ってくる。
殺される。
そう恐怖したが、体が重くて逃げる事ができない。
ざり、ざり、と足音が近寄ってくる。
何が起こっているのかも分からないまま、応戦しようと心を決めた。左の腰に携えた剣を抜き取ろうと右腕を当てると、何の感触もなく、代わりにどさりという物の落ちた音が聞こえた。地面を見ると、黒い塊が、中から虫が湧きだす何かが落ちていた。剣を取り落としたのかと思ったが、左の腰を見ると虫のたかった剣がしっかりと携えてあった。
ざり、ざり、と足音が近寄ってくる。
顔を上げると、剣に反射した陽光がまぶしく思わず目を閉じた。
近付いてくる足音が止まった。風を切る音がした。傾ぐ感覚。
再び眼を開けると、びっしりと蠅に覆われた首無の体が俺に目掛けて圧しかかってきた。
ぶーんという音が辺りに満ちていた。