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新築マンションの幽霊    :約3000文字 :霊

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/03/27

 夜、とあるマンション。寝室で夫婦が電気を消し、静まり返った闇の中で並んで横になっていた。カーテンの隙間からわずかに外灯の光が差し込み、天井にぼんやりとした影を浮かべている。

 深く息を吐き、さあ眠ろう――まさにその瞬間だった。


「……き、きゃあああ!」


 鼓膜を突き刺すような悲鳴が響き、夫は反射的に上体を跳ね起こした。

 どうした――夫は声をかけようとしたものの、口を半開きにしたまま凍りついた。

 妻の視線の先、ベッドのすぐ脇に男が立っていたのだ。ただし、それは――。


「ゆ、幽霊……?」


 夫はか細い声を漏らした。半透明の体は向こう側が歪んで透けて見え、顔には生気がなく、虚ろな目でどこか遠くを見つめている。足首から下は存在せず、肩をだらりと落とし、わずかに首を傾けて立つその姿は他に言いようがなかった。


「う、嘘でしょ……いや、嫌よ……」


 妻は両手で口を覆い、指の隙間から荒い息を漏らしながら震えている。無理もない。妻の手前、必死に堪えているが、夫は今すぐにでも部屋を飛び出したかった。

 夫はぐっと力を込めて震えを抑え、妻の肩にそっと手を置いた。


「だ、大丈夫だ。落ち着いて……」


「なんで……」


「ん……?」


「なんで新築なのに幽霊が出るのよ!」


「え、そっち?」


 妻は掛け布団の端をぎゅっと握りしめ、激しく頭を振り出した。


「なんで? ねえ、なんでなのよ! なんでなんでなんでなんで!」


「お、落ち着いて……いや、ほんとに」


「ここ建つ前はお墓でもなかったでしょ! ちゃんと調べたのよ! なのに、なんで! せっかくの新築が、新築ぅぅぅ……」


「た、頼むから落ち着いてくれ。君のほうが怖いよ」


「何日も何日も内見して、日当たりも間取りも吟味して、やっとここに決めたのに……それがなんで幽霊なんか……ううううう!」


「し、仕方ないんじゃないかな。遡れば、この辺りで誰かが亡くなったことくらいあるだろうし……」


「だからって、なんで今出てくるの! まだ引っ越して一週間も経ってないのよ! ゴキブリだって見てないのに!」


「そんなこと言っても……でも、確かになんでだろう」


 夫は首を傾げ、横目で幽霊を見やった。とくにこれといった特徴のない、ごく普通の中年男。記憶を手繰ってみたが、見覚えはない。


「高かったのに! 新築! 新築!」


「し、静かに。夜だし、それにあまり刺激しないほうがいい……」


「新築ぅぅぅぅぅぅぅううううああああううううう!」


「すでに取り憑かれてる……?」


「どっから出てきたのよ……ここ、二階なのに!」


「うーん……あっ、もしかして下の階の人じゃないか? 最近お亡くなりになったとか」


「下は老夫婦だったはずよ。でもこの人、四十代くらいじゃないかしら。ほら、とっとと消えなさいよ! 消えろ! 消えろ! とっとと消えろ!」


「だから、あまり刺激するなって……」


「なあに、突っ立ってんのよ……あ? 今、こっち見た? ねえ、見たでしょ。見てんじゃないわよ! おおん!?」


「見てないって。絡むなよ……事故で亡くなったかわいそうな人かもしれないじゃないか。ほら、建設中の作業員とか。工事中に転落して亡くなったんだ」


「えっ、そんなニュースあった?」


「いや、見たことはないけど。まあ、全部がニュースになるとも限らないし」


「なんなのよ……」


 その後、おそるおそる話しかけてみたものの、幽霊は何の反応も示さず、ただ同じ姿勢で立ち尽くしているだけだった。

 結局その晩は寝室をあきらめ、夫婦は枕と掛布団を抱えてリビングのソファへ移り、落ち着かないまま眠りについた。

 だが、翌晩も幽霊は現れた。ベッドの脇、まったく同じ場所に同じ姿で。そしてその次も晩も、その次も……。


「もう、嫌! なんであたしたちが部屋を移らなきゃいけないの!?」


 リビングのソファで寝る生活にも、限界が来ていた。背中は痛み、朝になれば首は固まったように動かなくなる。結局その夜、二人は意を決して寝室へと戻った。

 だが幽霊は相変わらず定位置に立っていた。

 妻は怒りに体を震わせ、枕を何度も叩いた。


「新築なのよ! 新築!」


「そこ、毎回強調するよね」


「ねえ、あなた。なんとかしてよ……」


 妻は半泣きの顔で夫を見つめた。助けを求めているというより、責任者を糾弾するような目であった。


「なんとかって言われてもな……。じゃあ、お坊さんでも呼ぶか? お祓いしてもらおう」


「嫌よ。足が汚そうだもの。ここ、新築なのよ」


「ひどい偏見」


「ねえ、一晩お願いしてみてよ。『どうか成仏してください』って。ちゃんと床に頭を擦りつけてさ」


「ええ……なんでおれだけ。それに無理だろ……。話しかけてもまったく反応しないし」


「でも他に方法ないじゃない。あの幽霊、あなたを怨んでる人なんでしょ?」


「え!? いやいや、見覚えもないよ。君のほうこそ――あっ」


「なに?」


「いや……もしかして、君の元カレとか、元旦那とかじゃ……」


「そんなわけないでしょ。初婚なの知ってるでしょう」


「どうかな……実は毒でも盛って、保険金目当てに何人も……それで警告に現れて……」


「はあ!? 何言ってるの! この!」


「いた、痛いって……! こ、殺される……!」


「殺さないわよ!」


「いてて、冗談だって。殴るなよ……あれ?」


 妻に叩かれ、夫は背中を丸めながらベッドの端へ逃げた。

 そして、ふと幽霊へ視線を向けたとき、妙な違和感を覚えた。


「今度は何よ」


「なあ……この幽霊、身長が伸びてないか?」


「は? 霊の身長が伸びるわけないでしょ」


「そうかな……前より明らかに高くなってる気が……」


 夫はそう言いながらベッドから身を乗り出し、幽霊をまじまじと見つめた。やがて、ふっと笑った。


「どうしたの?」


「いや、浮いてただけだ。ははは」


 幽霊の足先は、床からほんの数センチ浮かび上がっていた。妻は呆れたようにただ大きく息を吐いた。


「いやあ、最初に見たときは、幽霊って本当に足がないんだって思ったけど、ただ床に埋まってただけなんだな。ほら、ちゃんと指まで……あっ」


「……今度は何?」


「いや、この幽霊、このまま上に昇っていくんじゃないか?」


「え? あ……」


 妻は一瞬ぽかんとしたあと、ゆっくりと視線を天井に向けた。それから「あー……」と声を漏らし、口角をわずかに上げた。

 そして翌晩。幽霊は確かに、前日よりもさらに数センチ浮き上がっていた。わざわざ定規を持ち出して確認した妻は、満足げに頷いた。


「ふふっ、あいつが床から突き出して、上の階の皆さんが驚くのも悪くないわね」


「ああ、やれやれだな。ははは」


 やがて幽霊の頭は天井に触れた。その次の日には白いクロスに額が埋まり、そのまた次の日には肩まで埋まった。

 そしてある夜、上の部屋からドタバタと騒がしい物音が響いてきた。その瞬間、夫婦は顔を見合わせ、にんまりと笑った。

 それからさらに数日経つと、ついに幽霊は完全に部屋から姿を消した。

 胸にこびりついていた不安もまた綺麗さっぱり消え、二人は安心して眠りについた。


 しかし――夫婦はまだ気づいていなかった。

 沼に泡が浮かび上がるように、床のあちこちから半透明の頭がゆっくりと突き出し始めていたことに。


 この地域で最大の高さを誇るタワーマンション。

 雲を越えた先――天国へ届くと思っているのか、地上をさまよう幽霊たちが次々と引き寄せられていたのだった。

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