――第75章・破滅は訪れる――
数日前――
ディビジョンレイドトーナメントの後。
ハンはシンカイダンの屋敷へ戻ると、そこでレイ、リカ、ザリアがテレビを見ているのを目にした。
「ねえ、ハン!」
ザリアが手を振る。
「一緒に見る?」
「無理だ」
ハンは答えた。
「ちょっと用事がある」
「空いたらいつでも席空けとくから!」
レイがにこっと笑う。
「うん。だからその孤独ぶったやつ済ませてきなよ」
リカも言う。
「必要になったら私たち、ここにいるから」
ハンはそのまま階段を上がり、自室へ向かう。
だが途中、絵画をじっと見つめていたオマリロと鉢合わせた。
「あ……こんばんは、先生」
オマリロが振り向く。
「少年、悩みあり」
「え? ああ……まあ」
ハンは少し目を伏せた。
「最近、ちょっと頭の調子が変なんです」
「ふむ」
「先生、ひとつ聞きたいことがあって……もし俺に何かあったら、その……俺がみんなを傷つけそうになったら、止めてくれますか?」
オマリロは手首を軽く振り、絵の位置を微調整した。
「少年、はっきり言え」
「……最近、自分が少しずつおかしくなってる気がするんです。だから、シンカイダンにいる資格があるのか分からなくて」
ハンは拳を握る。
「リカも、ザリアも、レイも……今じゃ俺にとって妹みたいなもんなんです。だから、あいつらにも、先生にも迷惑かけたくない」
オマリロは絵から視線を外さないまま言った。
「運命を決めるのは少年だけ。迷った時、何を最も大事にしているかが表に出る」
「本当ですか、先生?」
「少年、いずれ分かる」
「……分かりました。先生の言葉、信じます」
ハンは一礼し、自室へ入った。
そこでパソコンに届いていたメールへ気づき、顔をしかめる。
「最悪だ……母さんか。今さら何の用だよ」
彼はメールを開いた。
『親愛なる息子へ。あなたが憧れの人に会い、時間を過ごせたことは嬉しく思います。でも、そろそろ家に帰ってきて、自分に向いていないことをする茶番はやめなさい。カイタンシャは危険な仕事ですし、あなたに務まるものではありません。お父さんも私も、芦屋の家で、あなたの大学奨学金と一緒に待っています』
ハンはすぐに返信を打ち込んだ。
『母さん。俺は医者にはならない。友達と約束したんだ。それに今の俺にはここに家族がいる。どんな理由があっても、あいつらを捨てて家には戻らない。そこを理解してくれるまで、俺はこの家を出ない』
送信ボタンを押し、パソコンを閉じる。
そのままベッドへ倒れ込んだ。
「これをどうにかしないと……何なのか分からないけど」
???――
ハンが気づくと、そこは奈落のような玉座の間だった。
目の前には巨大な鎧の人物が立ち、その傍らにはナースがいる。
「駄目よ、ハン……」
ナースが囁く。
「ハントレスを助けなさい……それが私たちの目的に必要なの……オマリロ・ニュガワの生徒を皆殺しにして……」
闇がハンを包み込もうとした、その瞬間。
黄金の光がそれを撃ち払った。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
ハンは二人から後ずさる。
闇の触手が彼を絡め取ろうと伸びてくる。
「お前の名は第八のヘラルド」
奈落の王が告げた。
「我らに加わり、この歪んだダンジョン文化を終わらせろ」
「断る!」
「こちらへ、エイス」
ナースが手を差し出す。
「こちらへ……」
ハンの脳裏に、自分のものではない記憶が流れ込む。
裏切り。苦痛。絶望。
だが彼は頭を振り、黄金の光を全身に巡らせた。
「俺の名前は……ハン・ジスだ!」
その光が闇を打ち砕く。
奈落の王もナースも、苦しげな声を上げながら消えていった。
「やめろ――!」
そして、ハンの意識は落ちた。
フロア10000――
光が消えた後、全員が見た。
クレーターの中央に立つコハクの姿を。
その傍らには、ぐったりとしたハンが倒れている。
コハクは腕を押さえ、荒く息をつきながら、オマリロがクレーターの中へ降り立つのを見つめた。
彼女の身体はすでに通常の人型へ戻っている。
「あぁ……」
コハクは満足そうに口角を上げた。
「ようやく本物の力を見せてくれたわね。あなたはそれに値する。私を打ち負かしたんだもの、私の王」
オマリロはジュゲンでコハクの身体を引き寄せた。
「女、負けた。連れて行く」
「ふぅん。で、どこへ?」
「私のところへ来い」
コハクは片膝をつき、もう立ち上がれない様子だった。
その間にザリアたちがハンのもとへ駆け寄る。
「ハン! ハン、何か言ってよ!」
だがハンは反応しない。
「私のジュゲンの負荷に、あの子の身体が耐えられなかったのでしょうね」
コハクが言う。
「たぶん、もう死んでるわ」
ザリアはハンの肩を揺さぶった。
「ハン、聞こえるよね!?」
「ハン! 私たち、あんたが必要なんだよ!」
レイが叫ぶ。
「起きて、フレンド!」
ソーシンも声を張る。
「大丈夫なの……?」
シノが不安げに呟く。
「大丈夫じゃなかったら困る」
ノノカがぼそっと言った。
リカが前へ出る。
その手が淡く光っていた。
「みんな、どいて」
ザリアがそっとハンの頭を支えたまま、全員が道を開ける。
リカはハンの胸へ手を当てた。
「ハン。まだ中にいるよね。お願いだから、あの女に負けないで」
胸へ光る力が流れ込む。
ハンの身体が一度びくりと跳ねた。
だが、それきりだった。
「お願い……!」
もう一度、リカは力を流し込む。
全員が息を呑んだ。
それでも、何も起こらない。
「そんな……失敗した……?」
リカの声が震える。
ザリアは必死にハンを揺さぶる。
「ハン? ハン、起きて! お願い!」
それでも反応はない。
場が静まり返った、その時だった。
ハンの全身を、黄金の光が包んだ。
全員が目を見開く。
「がっ――!」
ハンが上体を起こし、自分の手を見つめる。
「自由だ……」
彼は震える声で言った。
「やっと自由になれた……」
ザリアたちは涙を浮かべながら、ハンへ抱きついた。
「ハン!」
コハクはそれを信じられないように見つめていた。
「どうして……? あれだけの負荷を受けて、生きてるなんて……」
皆に支えられ、ハンは立ち上がる。
「大丈夫? どこか痛くない?」
リカが矢継ぎ早に尋ねる。
「……いや」
「ごめんね、ハン。あんたを攻撃しちゃって」
ザリアが俯く。
「いい」
ハンは首を振った。
「俺こそ……アビスに歪められて、みんなに刃を向けた」
「大丈夫だよ!」
レイが笑う。
「それでも私たち、ハンのこと好きだから!」
ハンは近くに立つオマリロを見つけると、即座に膝をついて頭を下げた。
「先生……」
「少年」
涙がぽろぽろとこぼれる。
「俺……それでもまだ、シンカイダンにいていいですか?」
オマリロは少し沈黙し、それから言った。
「立て、少年。問題ない」
「ほ、本当に?」
「少年は価値を見つけた。正しい価値を」
「……ありがとうございます、先生!」
リカとザリアがハンの腕を取る。
「ほら、もう下がろ」
ザリアが言う。
「休まないと」
コハクが軽く咳払いした。
「面白いものを見せてもらったわ。さて、私の王。大事な話に戻りましょうか?」
「女の言う通りだ」
オマリロは空間を裂き、ポータルを開く。
コハクの身体はその中へ囚われた。
ノノカがその光景を指差した。
「あの女、どうしたんですか?」
「女は片づけた」
そこへ、他のカイダンチョウたちが駆けつけてくる。
全員、状況を把握しきれないまま顔を強張らせていた。
「戦闘音が聞こえた!」
ユカが言う。
「みんな無事なの?」
「カイダンチョウ、遅い」
オマリロが一言。
彼らはオマリロの若い姿にも気づく。
カオルは目を輝かせ、すかさず写真を撮り始めた。
「へえ」
アツシが鼻を鳴らす。
「どうやら我々の助けは不要だったようだな」
「お父さん、今それ言う?」
ノノカが呆れたように言う。
「いや……娘を無事にしてくれたことについては感謝している、ニュガワ」
アツシは言い直した。
「それで、私のもう一人のルーキーは見なかったか?」
「見てない」
ユカはシノに気づく。
シノはすぐに彼女のもとへ駆け寄った。
「先生ユカ! 無事でよかった!」
ユカはシノの頭を軽く撫でた。
「やっぱり生き延びてたわね」
「はい! 全部、オマリロさんとその生徒たちのおかげです! そうだ――」
シノはポケットから写真を取り出し、オマリロのもとへ走る。
「サインください、先生!」
オマリロはそのまま歩いて行ってしまった。
「あぁ……」
ガクトが辺りを見回す。
「待てよ。ハントレスはどうした?」
「先生が捕まえた」
ザリアが答える。
「先生の牢獄の中」
「は? それ最初からできたんじゃないのか、オマリロ!」
ガクトが叫ぶ。
「俺たちに責任がある」
アツシが低く言った。
「今回でよく分かった。あの男抜きでは、我々はまだ動けん」
「そうね」
ユカも同意した。
「このルーキーたちは私たちに託されていた。それを守れなかった」
ユカの手の中でエメルがぷるぷる揺れた。
「もういいでしょ? そろそろ放してくれない?」
「駄目」
「出口は?」
ノノカが周囲を見回す。
「さっさと帰りたいんだけど」
ユカが振り返りかけ、ふいに手を上げて全員を制した。
「静かに」
彼女が言う。
「何かおかしい。この音……オマリロ、あなたも覚えてる?」
「試練の音」
オマリロがうなずく。
その直後、ポータルが開いた。
木の上へ、シオン・アラカネが降り立つ。
その視線は真っ直ぐオマリロだけを見ていた。
「やっと見つけたよ、マスター」
シオンが笑う。
「このダンジョン中、お前を探して回ってた」
「シオン?」
アツシが眉をひそめる。
「シオン!」
ザリアが吐き捨てる。
シオンはザリアの刃を見る。
「あ、ザリア! あの時あげた刃、ちゃんと使ってるじゃん。いいね」
「あれ誰?」
ユカが問う。
「う、うん……なんか、すごく嫌な感じがする……」
リカも言う。
ノノカだけは目を見開いたまま固まっていた。
「少年、戻ってきた」
オマリロが言う。
「何をしに来た」
「欲しいのは一つだけ」
シオンは答える。
「戦いだ」
「先生、後ろ!」
ハンが叫ぶ。
オマリロが振り返った時には、もう遅かった。
完全武装したシオンが背後へ現れ、オマリロを地面へ叩きつけ、そのまま床を砕いて穴の中へ引きずり落とした。
「先生!」
フロア10001――
〈第七のヘラルド――破滅の伝令。レベル275,000〉
オマリロは地面に着地し、刃を杖代わりに体勢を整える。
ヘラルドもまたゆっくり地へ降り立ち、赤い空を見上げた。
そこは崩壊した荒野だった。
壊れた建物があちこちに転がっている。
「あぁ……これがヘルズフロアか」
第七のヘラルドが呟く。
「話には聞いてたけど、実物は初めてだ」
装甲に覆われた爪を開閉しながら、彼はオマリロへ目を向ける。
「どうだ、マスター?」
「少年、自分に何をした」
「お前が望んだことをしただけだろ!」
第七は叫ぶ。
「男は弱さに耳を貸さない――そう言ったのはお前だ! 俺たちを切り捨てたのも、弱かったからだろ!?
お前が欲しかったのは弟子なんかじゃない。怪物だ。なら、見せてやるよ、マスター!」
紫に染まっていた装甲が、白い発光を帯び始める。
黒い鎧と混ざり合い、異様なコントラストを作り出した。
「その刃が、老いた今でも鈍ってないか……試してやる!」
彼は地面を叩く。
「ジュゲン堕落――深淵の刃!」
歪んだ白い武器群が形成された。
剣、槍、斧へと次々姿を変えながら、オマリロへ一斉に射出される。
「ジュゲン闘士――聖刃乱撃!」
オマリロも刃の嵐で迎え撃つ。
その間にヘラルドは前へ飛び、片腕を掲げ、さらに刃の雨を降らせた。
「ジュゲン変性者――ルインフォーム!」
凄まじい白の衝撃波がオマリロを押し滑らせる。
シオンの装甲は変形し、上半身だけ巨大な機械じみた形へと変わった。
その手には大きな笏が握られている。
「アビスの支配!」
笏を地面へ突き立てる。
上空から白い雷がいくつも落ちてきた。
だがオマリロはすべてをかわし、円環の刃をシオンへ投げつける。
「はっ」
第七はそれを受け止めると、巨大な腕で地面を叩き、連続する衝撃波を放った。
オマリロが見たのは、その笏がザリアの槍へと変わる瞬間だった。
「ふむ?」
シオンはそれを投げ放つ。
オマリロは片手で弾き返した。
「持ってないとでも思ったか?」
第七が笑う。
「お前の可愛い生徒たち、ずっと見てたんだよ。技も全部、奪った。お前の目を覚まさせてやる、マスター」
第七は新たな槍を形成し、オマリロの矢の連射を防ぐ。
続けてオマリロは手を打ち鳴らし、その槍を消し飛ばす。
しかしシオンは笑みを崩さない。
「これも試してみろ!」
次の瞬間、月光めいた異質な光弾が放たれ、大地を抉り裂いた。
オマリロは跳び上がってそれをかわし、二発の聖光爆破を返す。
直撃を受け、第七は後退した。
だが即座に大きな手でオマリロを薙ぎ払う。
その衝撃を受けながらも、オマリロは指を二本立てた。
「ジュゲン滅者――次元断裂!」
鋭い一閃。
シオンの装甲の半分が断ち切られる。
中から本人が姿を現し、荒い息を吐いた。
「まだ鈍ってないか」
シオンは呟く。
「いい」
装甲が再構築される。
しかしオマリロが一歩踏み込んだ、その時だった。
灰色の光が上空から落ち、第七の傍らへ着地した。
「準備もなしに突っ込むなんて、本当に愚かね、シオン」
「うるせえよ、“ナース”」
光が晴れる。
そこに立っていたのは、灰色の髪を持つ若い女だった。
その目が、まっすぐオマリロを射抜く。
「驚いた?」
女は言う。
「マスター」
オマリロは、ほんの一瞬だけその姿を見つめた。
「……ミレイ?」
女はシオンの装甲からゆっくりと降りる。
黒と灰の鎧がその身を覆っていく。
「ハンなんかを器に使うのは、もう飽きたわ」
ミレイは言った。
「ようやく、あなたが押し込めた牢獄から解放された。どうしてあんなことしたの? あれだけ尽くしたのに! あれだけ崇拝したのに!」
〈第六のヘラルド――再生の伝令。レベル312,000〉
「少女……」
オマリロが低く呟く。
「止める必要あり」
彼は即座に刃の雨を放つ。
だがミレイの周囲に白い場が生まれた。
「駄目。もう通用しない」
白い領域が刃を蒸発させ、塵へと還していく。
「ジュゲン回生者――年齢操作の結成」
ミレイとシオンが、オマリロの前へ並び立った。
「過去と向き合いなさい、マスター」
ミレイが言う。
「私には、まだ清算してないものがあるんだから」
——




