――第70章・ヘルの門――
アスガルド――
フェンリルが一行をアスガルドへと連れ戻すと、そこでは唖然とした神々が待ち構えていた。
「本当に狼を解き放ったのか」
オーディンが目を見開く。
「ええ、間違いなくね、父上」
ロキが答えた。
「どうやらこの伝説に不可能はないみたい」
「まあ」
オーディンが言う。
「その称賛を与えるには、まだ最後の試練が残っている。中に入って少し態勢を整えろ」
フェンリルが三人を地面へ下ろし、彼らはオーディンの後に続いて中へ入った。
するとオーディンはバルドルへ視線を向ける。
「よし、息子よ。他の者たちがそれぞれの試練を終えたら、ニュガワをヘルヘイムへ案内しろ」
その瞬間、バルドルが急に頭を押さえ、顔を青ざめさせた。
「父上、どうやら……他の試練で厄介なことが起きているようです」
「どういう意味だ?」
「はっきりとは分かりません。他の管理者たちの気配が読めないんです」
オーディンは顎に指を当てる。
「まさか……? いや、ありえん。たとえあやつでも――」
そう言いかけて、彼は首を振った。
「いや、今はよい。急げ、バルドル。ニュガワと、その選ばれた同行者をヘルへ導け」
咳き込みながらユカが立ち上がる。
「あなたたちの神話には詳しくないけれど、その“試練”とやら、あまり時間を取られないといいわね」
「長くはかかりません」
バルドルが答えた。
「ヘルに呑まれさえしなければ」
「待って!」
エメルが慌てて叫ぶ。
「私をここに置いてかないで――!」
だがオーディンが槍をひと振りすると、三人の姿は掻き消えた。
その場にはソーシンとエメル、そして神々だけが残される。
ソーシンはエメルを抱き上げる。
「ねえ! 友だちになる?」
「ならない! 下ろして!」
「ああ、かわいい友だち!」
「うわっ、やめて!」
ヘルヘイム――
三人が降り立ったのは、霧と雪に覆われた極寒の荒野だった。
周囲には崩れた砦のような建造物がいくつも転がっている。
「足元には気をつけてください」
バルドルが忠告する。
「ここでは少し気を抜くだけで、簡単に捕まります。私の甥は……あまり部外者が好きではないので」
「甥?」
ユカが聞き返す。
「ええ。ヘルです。ロキの娘ですよ」
「最初は狼、次は死の女神? ずいぶん奇妙な父親ね」
「……その話題には触れないでください」
「なるほど。よく分かったわ」
バルドルは中央に伸びるかすかな道を進み始めた。
霧は彼が歩くたび、わずかに左右へ開いていく。
オマリロとユカもその後に続いたが、気温はさらに下がっていった。
周囲からは魂の囁きが聞こえる。
嗚咽のような泣き声も混じっていた。
「気にしないでください」
バルドルが言う。
「ここに長く留まりすぎた者たちです」
冷たい風が吹き抜け、ユカの腕が一瞬で氷に覆われる。
彼女は指先でそれを砕き、吐き捨てた。
「なら、私たちは同じ目には遭わないようにしましょう」
やがて道の先に、巨大で半ば崩れた城が現れた。
その門には影が揺れている。
バルドルは門を指差した。
「私は中で待っています。門をくぐってください。生き残れたなら、報酬はあなた方のものです」
そう言い残し、バルドルは霧の中へ消えた。
オマリロは気にも留めず、そのまま門へ向かう。
「来い、女。門が待つ」
「名前で呼んでくれてもいいのだけれど」
ユカも追いつき、門へ手を伸ばした。
「っ……」
軽く触れただけで、彼女は眉をひそめる。
「痛いわね」
「門しかない」
それだけ言い、オマリロはためらいなく門へ飛び込んだ。
ユカは小さくため息をついて、その後を追う。
そして、世界は消えた。
???――
〈規則:死に呑まれるな〉
オマリロが降り立ったのは、穏やかで整然とした東京の街並みだった。
近くでは、白髪の若い女性が屋台でクッキーを売っている。
「クッキーだよー! 安いクッキーあるよー!」
オマリロはすぐにその顔を見て気づく。
「イチカ……?」
イチカは彼に気づくと、ぱっと駆け寄り、そのまま抱きついた。
「いました、マスター! ずっといなくて心配したんですよ!」
「なぜ少女がここにいる……?」
イチカはきょとんとしたあと、くすっと笑った。
「またまた、マスターったら。ほら、クッキー食べます? マスターのために焼いたんです!」
彼女はトレイを差し出す。
オマリロはそれを見つめ、それからイチカへ視線を戻した。
「少女は本物ではない」
イチカはけらけら笑う。
「また冗談ですか? 私がおもちゃにでも見えます? ふふっ。ほら、今のマスターに必要なのは休息です。こっちへ! みんな待ってますよ!」
彼女はオマリロの腕を取り、引っ張っていく。
次の瞬間には、彼は海辺へと連れてこられていた。
「……」
海では若い男女が水着姿でくつろいでいた。
イチカはテーブルの方へ手を振る。
「マスター、こっちです!」
オマリロが近づくにつれ、視界の端から黒い霧がじわじわと広がり始める。
イチカは椅子を引いた。
「記念日、おめでとうございます!」
「意味不明だ」
「やだなぁ、マスター。私たちを引き取ってくれて十年ですよ? 感謝の気持ちを込めて、みんなでビーチパーティーを開いたんです!」
その言葉とともに、海から学生たちが現れる。
カイト、ナオヤ、ダイゴ、ミレイ、リン、シオン、そしてイツキ。
「お元気そうで何よりです、マスター」
イツキが言う。
「旅はどうでした?」
「……?」
「エンドレスを討ちに行った旅ですよ。ダンジョンはすべて消えましたし、もう俺たちがカイタンシャになる理由もない」
リンはオマリロへ寄り添い、頭を肩へ預けた。
「これで、好きなことを好きなだけできますね、先生」
黒い霧はさらに視界を侵食していく。
イツキがケーキを運んできて、テーブルの上へ置いた。
十本のろうそくが灯っている。
学生たちは声をそろえて歌い始めた。
「おめでとうございます、マスター! おめでとうございます、マスター!」
オマリロは立ち上がろうとした。
しかし身体は椅子に貼り付いたように動かない。
リンは彼の肩を揉みながら微笑む。
「もうダンジョンなんてないんですよ……」
一方その頃――
ユカが目を覚ますと、そこは自分の屋敷の寝室だった。
彼女は即座に飛び起き、氷の鷲を形成する。
「オマリロ? いるの?」
返事はない。
「妙ね。……家に戻ってる」
部屋を出て階段を下りると、そこには年老いた男女が花束を持って立っていた。
「やあ、ユカ」
女が笑う。
「元気そうでよかったわ」
ユカは目を細め、階段の途中で立ち止まる。
「母さん。父さん。どうしてここにいるの?」
父親が花束を差し出す。
「可愛い娘に会いに来ただけだよ。親が子を訪ねるのに理由が要るか?」
ユカは歯を食いしばった。
「あなたたちは親じゃない。出ていって。私は忙しいの」
二人は悲しげに俯く。
「お願い、ユカ」
母が縋るように言う。
「せめて話を聞いて――」
ユカは片手を上げて遮った。
「母さん。あなたはあの男を選んだ。私よりも。今さら話すことなんて何もない」
父親の顔が赤くなる。
「確かに、いい関係じゃなかったかもしれない。だが、また家族に戻れる! 私たちとお前で! どうだ? 弟子を集めて心の空白を埋めようとする必要もなくなるぞ」
その瞬間、周囲の景色が歪み始めた。
「見せたいものがあるの、ユカ」
母が告げる。
気づけば、彼女はまったく別の家にいた。
壁一面に、幼いユカの写真が飾られている。
視界の端から、黒い霧がじわじわと広がっていく。
「何……これ……?」
「私たちが毎日見ているものよ」
父が言った。
「誇りの娘だ」
「違う……これは嘘……」
「嘘じゃないわ。帰っておいで、ユカ……」
頭がずきずきと痛み出す。
「……帰っておいで」
ユカは膝をつき、両親に支えられる。
次に意識が浮かび上がると、彼女は公園のベンチに座っていた。
傍らには父と母。前方の滑り台では、幼いユカが遊んでいる。
「あの頃を覚えている?」
母が優しく問う。
「まだ小さかった頃……」
若い母が綿あめを渡し、幼いユカがそれを受け取って笑う。
「もっと穏やかな人生もあったのよ」
父が囁く。
「でもお前はカイタンシャになり、ダンジョンへ足を踏み入れるたびに死の危険を選んだ。もう戻ってきてもいいんだぞ、ユカ」
母も頷く。
「帰っておいで、ユカ……」
ユカは黙ったまま、その腕の中にいた。
だが次の瞬間、彼女の脳裏に閃いたのは、ベルト、血、自分自身の叫びだった。
黒い霧が視界全体を覆い尽くしたその瞬間、彼女は立ち上がる。
「何を――」
「ジュゲン魔法士:霜月雷散の鷲!」
巨大な氷の鷲がベンチへ叩き込まれ、両親の幻影を吹き飛ばす。
「私の人生は私が知っている」
ユカは冷たく言い放つ。
「そんな安い偽りに騙されるほど甘くないわ」
地面から影が湧き、死霊のようなレヴナントたちが彼女へ襲いかかる。
ユカは氷の鷲をもう一度放ち、それらを空へさらって砕いた。
「オマリロを探さないと」
彼女は公園を飛び出し、街へ駆け出した。
その頃、海辺では――
オマリロがようやく立ち上がろうとしていた。
学生たちはテーブルを囲み、ケーキを口に運んでいる。
「召し上がりますか、マスター?」
ミレイが差し出す。
オマリロは黙ったままだ。
「また怒ってるんじゃない?」
カイトが呟く。
「誰かマスターを怒らせたんだ」
イチカが彼の腕を叩く。
「やめてよ! マスターは幸せなの! ほら、見てよ!」
彼女はケーキをさらに押しやる。
「はい、マスター。私たちはあなたを愛しています!」
他の学生たちも同じ言葉を繰り返した。
「私たちはあなたを愛しています、マスター!」
オマリロはケーキを手に取り、じっと見つめた。
そして、一人ひとりへ視線を移す。
「学生たち……」
その視線が順に全員をなぞる。
「もういない」
彼はケーキを海へ投げ捨てた。
その瞬間、学生たちは一斉に hiss し、その姿を黒いレヴナントへと変えていく。
「殺せ!」
オマリロの視界から黒い霧が消えた。
彼は両手を打つ。
「消滅」
テーブル、彼を縛っていた椅子、そしてレヴナントの半数が消し飛ぶ。
残りが一斉に襲いかかるが、オマリロは転移して距離を取り、最前列の一体を杖で吹き飛ばした。
レヴナント化したイツキの顔をした一体が手を伸ばす。
「一緒に来てください……マスター……」
オマリロは身をかわし、弓を構えてその胴を射抜いた。
「声、偽物」
さらに増えてくるレヴナントを消し飛ばしていると、遠くから声が飛んできた。
「オマリロ! こっち!」
海の向こう、出口の門の前でユカが手を振っていた。
「出口よ!」
彼女はレヴナントを氷で撃ち払いながら駆け寄ってくる。
オマリロは即座に転移してその隣へ移った。
「海を越えないと!」
ユカが指差す。
オマリロはユカを抱え、一気に海上を転移する。
だが門へ届く寸前、無数のレヴナントが二人の足にしがみつき、黒く染まった海へ引きずり込もうとしてきた。
ユカは氷の蜘蛛脚でそれらを切り払う。
「離れなさい!」
だが倒しても倒しても、次々と新たなレヴナントが現れ、二人を黒い水面へ引きずる。
「……きりがない!」
その時、影のポータルが開いた。
「まだだ」
次の瞬間、黒と紫の閃光が走る。
レヴナントたちは一斉に細切れとなり、二人はその隙に門へ飛び込んだ。
くぐる直前、オマリロは一瞬だけ、こちらを見つめる紫に光る片目を見た。
そして――
〈よく生き残った〉
二人が現れたのは、肉のような質感を持つ玉座の間だった。
そこではバルドルと、皮膚の半分が崩れた女が待っていた。
「こちらが私の甥、ヘルです」
バルドルが紹介する。
「普段はあまり挨拶を好まないのですが」
ヘルが前へ出て、二人を観察する。
「誘惑に抗える者は多くない」
ヘルが静かに言う。
「あなたがオマリロ・ニュガワ、で間違いないわね?」
「女、正しい」
「では隣の女性は?」
「知っている女だ」
「つまり仲間ってことよ」
ユカが補足する。
「試練は終えたのでしょう? 次は何かしら」
「これを持ちなさい」
ヘルは黒く光るシジルを差し出した。
「下層へ導く印よ。あなたたちの望みはそこでしょう?」
「そうだ」
オマリロが答える。
「ならば――」
その瞬間、玉座の間の中央から黒い炎が立ち上った。
バルドルとヘルの顔色が変わる。
「まさか……」
「何?」
ユカが問う。
炎の中に映し出されたのは、廃墟と化したアスガルドだった。
倒れ伏す神々の死体がそこかしこに散らばっている。
「アスガルドが危ない!」
バルドルが叫ぶ。
「あのハントレス、何をしたんだ!」
「ソーシン」
オマリロが呟く。
「坊主、危機」
「急がなければ!」
オマリロは杖を打ち鳴らし、全員を転移させた。
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