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――第68章・狩り――

フロア5,000――


 アスモデウスは競技者たち全員を、月明かりの差す森へと放り出した。そこはあちこちを霊がさまよい、不気味な囁きが四方から聞こえてくる、不穏な森だった。


「なんか……めっちゃ不気味……」

 リカは肩を震わせた。

「なんで鹿がこんな場所を住処にしてるの?」


「ここが一番静かで、穏やかな場所だからだ」

 アスモデウスが説明する。

「ルールは単純。生きたままその雌鹿を捕らえろ。先に捕らえた側の勝ちだ。傷つける、あるいは殺した時点でその陣営は即失格。相手側の勝利となる」


 ヘラクレスは首を鳴らした。

「話は十分だ。行くぞ」


〈規則:Ceryneian Hindを捕獲せよ〉

〈制限時間:25:00〉


 ヘラクレスは空へ跳び上がり、そのまま森の奥へと消えた。アスモデウスも飛び去り、その場にはティフォンと一行だけが残される。


「さあ、人間ども! ぼさっとしてる暇はないぞ!」

 ティフォンが叫ぶ。

「早くあの雌鹿を捕まえろ!」


 レイが辺りを見回す。

「どこにいるのかな?」


 ガクトが地形を素早く見渡した。

「藪が揺れた! あっちだ!」


 彼は茂みをかき分けて突っ込み、そこにはたしかに、黄金の角を持つ鹿が葉を食んでいた。


「いたな……!」

 ガクトが声を潜める。

「もらった!」


 ガクトは飛びかかった。だが次の瞬間には、鹿は目にも留まらぬ速さで駆け出し、さらに森の奥へと消えていった。


「逃がしたか……! ミズキ、追えるか!」


「やってみます」

 ミズキは即座に構える。

「ジュゲン操運者:呪転送!」


 その身体がぶれ、鹿のすぐ隣へと移動する。だが鹿はミズキに気づくと、さらに加速して駆け出した。


「加速性能が……異常です……」


 手を伸ばして掴もうとした、その瞬間。


 肩から強烈な体当たりを受け、ミズキは木へ叩きつけられた。


「――っ!」


 うつ伏せに倒れたミズキが顔を上げると、そこにはヘラクレスが立っていた。


「今のは必要ありませんでしたね」

 ミズキが淡々と言う。


「相手を殴るな、なんてルールはない」

 ヘラクレスが吐き捨てる。

「引っ込んでいろ。あの鹿は私のものだ」


 そのまま轟音のような足音を響かせ、ヘラクレスは走り去った。


 ミズキは土を払い、外れた肩を自分で戻す。そこへガクトが三人を肩に乗せたまま駆けつけ、彼女の前で止まった。


「ミズキ、何があった?」


「力の神は、正々堂々とは程遠いようです」


「なら、こっちも先に出し抜くしかねぇな!」

 ガクトが言う。

「どっちへ行った?」


 ミズキは森の奥を指さした。地面にはくっきりと足跡が残っている。


「乗れ!」

 ガクトが言う。


 ティフォンがガクトの肩に爪を立てる。

「急げ急げ!」


「分かってるっての! しっかり掴まってろよ!」


 炎を纏ったガクトは、一気に鹿の後を追った。木をなぎ倒し、茂みを吹き飛ばしながら森を突き進む。


「いた!」

 リカが指差す。


 ガクトが左を見ると、鹿が木々を突き抜けて走っている。その後ろで、ヘラクレスが脚を掴もうとして失敗していた。


「大人しくしろ、この鹿め!」


 鹿は彼の腕をひらりと飛び越え、今度はガクトたちの進行方向へと飛び込んでくる。


「レイ!」

 ガクトが叫ぶ。

「シールドで囲え!」


「分かった! ジュゲン魔法士:月光の護光!」


 鹿の周囲にシールドが展開される。だが完全に閉じる寸前、鹿はそれをすり抜けるように透過し、再び走り去っていった。


「……抜けた?」

 レイが目を丸くする。


「なるほどな」

 ガクトが息を吐く。

「こいつは普通の追いかけっこじゃねぇ。力任せじゃなく、頭使わねぇと無理だ」


「やっと脳が働いたか」

 ティフォンがため息をつく。


 ヘラクレスは一行を睨みつけた。

「最後の警告だ。……手を引け」


 そう言い残し、再び駆けていく。


「感じ悪すぎ」

 リカが口を尖らせた。

「もうちょっと公平にやってくれてもよくない?」


「ダンジョンの住人に公平さを期待するな」

 ティフォンが言う。

「あいつがお前たちをまだ本気で叩き潰しに来ないのは、脅威とすら見なしていないからだ」


「なら、そのままでいてもらおうぜ!」

 ガクトが笑う。

「こっそり近づいて鹿をさらう。勝てばそれでいい! ミズキ、加速頼む!」


 ミズキは全員へ触れ、一瞬で別の地点へ転送した。

 ガクトは周囲を見渡す。


「湖か」

 ガクトが呟く。

「木も多いし、どこから飛び出してきてもおかしくねぇな」


「水の中に追い込むのは?」

 リカが提案する。


「難しいでしょう」

 ミズキが首を振る。

「自発的に透過できるなら、水中へ入られた時点で見失う危険があります」


 ミズキは湖面とレイを見た。

「ですが、レイなら反応を起こせます。近くで起爆できれば、一時的に視界を奪えるかもしれません」


 茂みが揺れた。


「少し強引だが……嫌いじゃねぇ」

 ガクトが笑う。

「ミズキ、リカ。お前らであいつをここまで誘導しろ。レイが目を潰したら、俺が押さえ込む!」


「了解です。リカ、背中に」


「お、おっけー」


 リカはおそるおそるミズキの背に乗る。次の瞬間、二人は消えていた。


「準備しとけよ、レイ」


「準備おっけー!」


 茂みの向こう。

 リカとミズキは、死霊たちが木の実を摘んでいる小道へ出た。その一番奥で、例の雌鹿が木の実を食べている。


「いた」

 ミズキが囁く。

「湖まで誘導します」


 彼女は霊たちに触れぬよう慎重に近づいていく。鹿は気づかず、実を食べ続けていた。


「リカ。合図したら飛びついてください。私が全員ごと湖へ送ります」


「分かった!」


 ミズキはさらに距離を詰める。


「三……二……一……今です」


 リカが鹿へ飛びかかった。だが鹿は暴れ、身体を透過させて彼女の腕をすり抜ける。そのままミズキへ体当たりした。


「ジュゲン操運者:呪転送!」


 リカ、ミズキ、そして鹿は一瞬で湖畔へと再出現する。

 鹿はそのまま水面を駆け始めた。


「えっ!?」

 ガクトが目を剥く。

「水の上走れるのかよ!」


「逃げる!」

 ミズキが警告する。


「よし、レイ、撃て!」


「ジュゲン魔法士:月の明現化!」


 月光が湖面を撃ち、激しい閃光が走る。鹿は怯んで足を乱し、そのまま水中へ沈みかけた。


「ガクトさん! 溺れちゃう!」

 リカが叫ぶ。


「任せろ!」

 ガクトは笑った。

「ジュゲン闘士:灼熱疾走!」


 彼は水面を駆け抜け、鹿が沈み切る前に掴み上げた。着地した瞬間も鹿は暴れようとしたが、ミズキがすぐさま押さえ込む。


〈制限時間:0:00〉


 そこへアスモデウスとティフォンが現れた。

 悪魔が手を振ると、鹿はすっと大人しくなる。


「ふむ」

 アスモデウスが言う。

「今、所有しているのはお前たちだ。ならば、この勝負はお前たちの勝ちだな」


〈試験3 勝者:カイタンシャ〉


「次の試練へ進む権利を得た」

 アスモデウスが告げる。

「だが妙だな。ヘラクレスがもう少し妨害してもよさそうなものだが」


「諦めたんだろう」

 ティフォンが鼻を鳴らす。


「何でもいい! 勝ちは勝ちだ!」

 ガクトが拳を上げる。


 だがその時。

 湖の水が、どす黒い色へと変わり始めた。

 直後、黒いポータルが開き、そこから翼の影が閃く。


「待て」

 アスモデウスが目を細める。

「これは試練の一部では――」


 次の瞬間、爆発。


 轟音とともに全員が吹き飛ばされた。体を起こした彼らの前に立っていたのは、異形の姿をした女――


「まさか……」

 リカが震える。


「奴だ!」

 ティフォンが叫ぶ。

「ハントレス!」


 コハクは地面へ降り立つと、ゆっくりと元の姿へ戻った。

「がっかりね。ここにいると思ったのに」


 ガクトは立ち上がり、構える。

「おい! 仲間をどこにやった! 返せ、さもなきゃ――!」


 コハクは一瞬で彼の背後へ回り込み、兜ごと持ち上げた。

「さもなきゃ、何?」


 返事を待つことなく、彼女はガクトを木へ投げ飛ばし、幹ごとへし折った。


 ティフォンが慌てて叫ぶ。

「何をしている! 早くどうにかしろ!」


 リカが一歩前に出る。

「聞こえたでしょ! 友達を返して! 連れ去ったみんなも!」


「そう!」

 レイも叫ぶ。

「ハンを返して!」


 コハクの唇に笑みが浮かぶ。


「取り返せるものなら、どうぞ」


 レイが月光を放つ。

 だがその直前、別のポータルが開き、そこから現れた電撃のゲートが月光を防いだ。


 リカの目が見開かれる。

「待って――!」


 次の瞬間、ポータルから飛び出したワイヤーが、ミズキ、リカ、レイ、さらにはアスモデウスまでも拘束する。


 そして、黒い液体のような装甲を纏った人影が、その向こうから現れた。


「来なさい、我が子」

 コハクが命じる。


 その人影が一歩踏み出す。

 黒い液体が剥がれ落ち、その下から現れたのは――表情を失ったハンだった。


「はい、ハントレス」


 リカは拘束の中で暴れる。

「ハン! 何を……何をされたの!?」


 ハンはさらに別の身体をポータルから引きずり出した。

 それはヘラクレスだった。

 コハクは片手で彼を掲げる。


「こいつが力の神だそうよ。……でも、私には弱すぎたみたいね」


 レイはワイヤーを吹き飛ばそうとしたが、ハンは無言で彼女をケージへ閉じ込めた。

 その間にも、黒い液体が彼の顔を覆い、仮面のように形を成していく。


「ハン、何してるの!?」

 リカが叫ぶ。

「私たちだよ!」


「そうだよ!」

 レイも訴える。

「友達でしょ!」


 しかしハンは答えない。


「この子に友達などいないわ」

 コハクが言い放つ。

「いるのは母親だけ。……そして、やがて父親も」


「これはダンジョンへの重大な違反だ!」

 アスモデウスが怒鳴る。

「直ちにやめろ――!」


 コハクはハンを指した。

「処分しなさい、我が子」


 ハンは手首を振る。

 ワイヤーが弾け、リカたちもアスモデウスもまとめて湖へ吹き飛ばされた。


 そのまま全員、ポータルの中へと落ちていく。


 コハクはティフォンを見下ろした。

「まだ生きてたの、猫」


「貴様……必ず報いを受けるぞ! 必ずだ!」


 ティフォンはポータルへ飛び込んだ。

 それが閉じると、そこにはコハクとハンだけが残る。


 コハクはハンの頭を優しく撫でる。

「さあ、我が子。仕事の時間よ」


 彼女はシジルを握り潰し、二人の姿は消えた。


 ――そして。


フロア5,002――


 ザリアたちはピラミッドの内部で待機していたが、その時、トトが急に動きを止め、頭を押さえた。


「どうしたんだ?」

 アツシが問う。


「……まずい」

 トトが呟く。

「ギリシャの試練が……乱された」


「それってどういう意味?」

 ザリアが眉をひそめる。


 トトはすぐさま彼らを奥の間へと急がせた。

「来い。ここにいてはならない。あの女……今、狩りをしている」


「ハントレスが?」

 ザリアが目を見開く。

「私たちを狙ってるってこと?」


「すでに、お前たちの仲間の一部は捕らえられている」

 トトが言う。

「急げ!」


 彼は奥の通路を指した。

「下へ進め。アヌビスがいるはずだ。そこから先は奴が案内する」


「助かる」

 アツシが頷く。

「早くこの脅威を止めねばならん」


 彼らが階段を下りていくと、その入口は背後で閉じた。


 直後――

 ピラミッドの正面入口が、凄まじい力で吹き飛ばされた。


 トトが振り向く。

 そこに、コハクが立っていた。


「知恵の神、だっけ?」

 コハクが言う。

「今の判断、全然賢くなかったわね」


「お前は我らの一柱ではない」

 トトが睨む。

「去れ」


「さっき、誰を下へ逃がしたの?」


「貴様には関係ない」


「不正解」


 コハクの目が光る。

 トトは、彼女がこちらへ歩み寄ってくるのを見ていることしかできなかった。


 その頃、地下では――


 ザリアたちは暗闇の中を進んでいた。互いにぶつかりながら、足を急がせる。


「いたっ!」

 ノノカが声を上げる。

「ちょっと、足踏んだんだけど!」


「ごめん!」

 カオルが慌てる。


「ていうか、この先でその神様とやらを探すんだよね?」

 ザリアが眉をひそめる。

「で、なんでハントレスから逃げてんの? むしろここで叩くべきじゃん」


「場所が悪い」

 アツシが短く答える。

「奴はここに長くいる。地の利があちらにある」


 曲がり角をいくつも抜けた先、ようやく小さな炎が見えた。

 近づくと、そこにいたのはアヌビスだった。


「どうやら試練は中止せねばならぬようだ」

 アヌビスが言う。

「あの“ハントレス”は、このダンジョンにいる全てを危険に晒す」


「その試練って、そもそもあいつを嵌めるために作ったんじゃないの?」

 ノノカが言う。


「その通りだ」

 アヌビスは認めた。

「だが、見積もりが甘かった。あれほどの母を持つ以上、そう簡単に片づくはずがなかった」


「母親?」

 ザリアが反応する。

「コハクの母親って誰?」


 アヌビスはしばらくザリアを見つめたのち、前を向いた。

「言えぬ。ここでは名そのものに力が宿る。今、それを口にするのは危険だ」


「なら、他の連中と合流させろ」

 アツシが言う。

「数が揃えば、勝機も増す」


「道を進むしかない」

 アヌビスは答えた。

「急いてはならぬ」


 灯りはだんだん弱くなり、幾つもの角を曲がった末、彼らは大きな扉の前へと辿り着く。


「この先が最後の間だ」

 アヌビスが言う。

「そこからさらに下層へ進める」


 彼は扉へ手を当てた。

 ゆっくりと扉が開く。


「では、後に続――」


 だが、その先に広がっていたのは星図の間だった。

 中央の台座の上に、一人の少年が座っている。


 ハンだ。


 黒い液体を滴らせる牙の仮面をつけたまま、そこにいた。


「……っ」

 ザリアの目が見開かれる。


 ハンはゆっくりと立ち上がる。

 アヌビスは咄嗟に構えた。


「下がれ。あれは危険だ!」


 その瞬間。

 トトの首が足元へ転がってきた。


 アヌビスが顔を上げる。

 ハンの背後には、コハクがいた。


「ふん。また取るに足らない神ね」


 彼女は一行を見渡す。

「でも、またしても私の欲しい男はいない」


 コハクは軽く手を振る。

「まあいいわ。代わりはいるもの」


 ぱちん、と彼女が指を鳴らす。

 するとハンが動き、一行全員を巨大な檻へ閉じ込めた。


「全員連れてきなさい、我が子」

 コハクが命じる。

「狩りのために」


―――

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