第9話 子育ては大変
子どもを守りたい。
そんな気持ちを親が持っていても、当人たちは知らんぷりで歓喜の声をあげながら危険に突っ込んでいってしまうものです。
「早く起きてちょうだい!」
「いってらっしゃい」
「おかえり。手を洗って」
「宿題しなさい」
「晩御飯よ」
「お風呂入っちゃって」
「お母さんの言うことを聞いて!」
「あぶないっ。気を付けてちょうだい」
何を言っても、何回注意しても、きりがないことってありますよね。
伝わってないのか、うっかりしているのか。
わたしのことを馬鹿にしているように感じてイライラしたり、心配しすぎてイライラしたり。
毎日が戦争です。
男の子と女の子では、好みも違えば、やらかすことも違います。
第一子は女の子のほうがいい、というのは本当ですね。
長男はやんちゃですから、3歳離れていると娘に怪我をさせないか気になります。
その娘が大きくなってくると、今度は息子の真似をするのです。
顔に傷をつけないか、娘のことをどれだけ心配したことか。
息子のことは、もはやあきらめに近く……。
それでも1977年、昭和52年に健太が小学校に上がると少しずつやんちゃは収まっていきました。
もちろん、いざというときには縫う必要があるほどの切り傷を作ったり、骨を折ったりなど大騒ぎです。
順子は1980年、昭和55年に小学校へ入学しました。
お転婆だったので男の子と一緒に飛び回り始めるのではないか、と心配しましたが、そこは女の子。
周りの女子たちに合わせて楽しく遊ぶ術を身に着けたようです。
1983年、昭和58年には健太が中学生になりました。
この頃の男子は坊主頭にするのが普通でしたから、健太も丸刈りです。
1986年、昭和61年は健太の中学卒業と高校入学、順子の小学校卒業と中学校入学が重なって忙しかったのを覚えています。
3歳違いだと仕方ないですよね。
1989年、昭和64年のほうがもっと大変でした。
健太の大学入試と、順子の高校入試が重なりましたからね。
バタバタしましたが当人たちが頑張ったので無事、第一志望の学校へ受かることができました。
順子が大学へ進学する時には志望校について揉めたものの、安全のことを考えて自宅から通うということで地元の四年制大学にすることで決着がつきました。
女の子でも地元を離れて一人暮らしをして四年制大学に通う、ということも少なくない時代ではありましたが、親としては何かと心配です。
健太郎は希望の大学へ進学し、一人暮らしをしていましたから、順子は不公平だと感じたようですが。
結果から言えば、この選択は正しかったのです。
なぜなら1990年、平成2年頃からバブル崩壊の予兆があったからです。
1989年、昭和は64年という長い歴史の幕を閉じました。
1989年は平成元年でもあります。
この年に消費税はスタートしました。消費税率は3%でしたが、増税であることに変わりありません。
健太郎さんのように金融機関に勤めていなくても、嫌な予感はありました。
もっとも我が家は健太郎さんの方針でバブルの時期であっても派手な生活などとは無縁。
その分しっかり貯金していましたが、世の中というのはどう変化していくかわかりませんから常に不安はあります。
わたしは戦争を知らない世代ですが、米穀配給通帳は身近なものでした。
米の配給を受けるための米穀配給通帳が発行され始めたのは、1942年、昭和17年です。
わたしたちは米穀通帳と呼んでいましたが、この通帳、実は1981年、昭和56年頃まではあったのです。
最後のほうは形骸化していたものの、それは存在していました。
2025年は米の高値が問題になりましたね。
ちょっと思い出してしまいましたよ、米穀通帳のことを。
健太郎さんが堅実なおかげで、わたしが子どもたちの学費を心配する必要はありませんでした。
ですが世の中なんてどう変わるか分かりませんからね。
健太は大学進学と同時に家を出て、都会の大手本社に就職を決めました。
まだバブルの余韻が残る時期でしたし、男性は少々不景気の気配があっても、頑張れば正社員としての勤め先を見つけることができる時代でしたからね。
でも女性は違います。
順子のことも大学への進学よりも卒業後、就職のことが気になりました。
特に女性の就職は、まだまだ厳しい時代。
就職氷河期ほどではなかったものの、不景気になれば真っ先に影響の出るのが女性の就職です。
地元の大学を卒業したことで地元での就職に有利でしたし、健太郎さんの伝手もありましたから、順子は無事に就職することができました。
ですけれど。
子どもについての悩みは、学校を卒業しても変わらず続いていくのです。




