無防備過ぎる花の湯
……やっぱり。
ただの、
柔らかい、
ゆで卵だった。
箸で割った殻が、
つるりと剥けて、
白身が、少しだけ震えた。
期待していた何かは、
特別な何かには、ならなかった。
――温泉卵、とは。
俺は、ぼんやりと思いながら、
湯気の向こうを見た。
花の湯。
そう名付けられた浴場は、
夜の静けさに包まれている。
湯気が、
ゆっくりと天井へ溶けていく。
月明かりが、
水面に、淡く揺れていた。
……無防備すぎる。
俺の視線は、
どうしても、
彼女の方へ行く。
ソフィア。
湯の縁に腰掛け、
足先を湯に浸しながら、
気持ちよさそうに息をついている。
「はぁ……」
その一息で、
胸の奥が、ぎゅっと締まる。
――花。
そう呼ぶしかない。
そこに咲いているだけで、
周囲の空気を変えてしまう。
自覚が、ないのが問題だ。
「ソフィア」
声を掛けると、
こちらを振り返る。
「なに?」
無邪気な声。
「……寒くないか」
言い訳のような問い。
「全然。ちょうどいいよ」
にこっと、笑う。
……だから。
そういうところだ。
俺は、湯に視線を落とす。
温かい。
現実だ。
夢じゃない。
最近、
境界が、曖昧になる。
夢で見た彼女は、
触れたら消えてしまいそうで。
ここにいる彼女は、
あまりにも、普通で。
普通すぎて、
逆に、怖い。
「アデル」
今度は、彼女から呼ばれた。
「さっきの卵、美味しかった?」
「……ああ」
嘘は、言ってない。
美味しかった。
確かに。
特別じゃなかっただけだ。
「来年も、忘れないようにしなきゃね」
「……そうだな」
忘れた方が、
楽かもしれない。
そんなことを思う。
隣で、
クリスが、ぶつぶつ言っている。
「本当は、洗いっこしたかったのに……」
「……するな」
即座に止める。
「姉様は、姉様だ」
「意味がわかりません!」
言い合いになる気配。
ソフィアが、くすっと笑った。
「二人とも、仲良しね」
……違う。
まったく、違う。
だが、
その誤認が、
今は、ありがたい。
俺は、湯から上がる。
「先に、出る」
「もう?」
「のぼせる前にな」
それは、本当だ。
この空間は、
心臓に、よくない。
脱衣所で、
深く、息を吐く。
……無防備すぎる。
花は、
守られている自覚がない。
踏まれたら、
折れる。
だから。
俺が、立つ。
理屈は、後でいい。
湯気の向こうから、
彼女の笑い声が、聞こえた。
胸の奥で、
何かが、静かに決まる。
――必ず。
俺は、
彼女の隣にいる。
それでいい。
今は、
それで、いい。
アデル・ハミルトン




