月夜の姉様
夜は、静かだった。
温泉の余韻が、まだ身体に残っている。
廊下を歩くと、畳がひんやりして、足音が小さく吸い込まれていく。
姉様の部屋の灯りは、薄く、柔らかい。
障子越しに影が見えて、
胸が、少しだけ軽くなった。
……いる。
それだけで、いい。
そっと、障子を開ける。
月の光が、窓から差し込んでいた。
白い光が、床に落ち、
姉様の輪郭を、やさしく縁取っている。
姉様は、縁側に座っていた。
湯上がりの髪は、少し湿っていて、
肩に落ちる影が、ゆらりと揺れる。
きれいだ。
胸の奥で、言葉にならない何かが膨らむ。
「……姉様」
声を掛けると、
ゆっくりと振り向いた。
「クリス。どうしたの?」
その声も、
その笑顔も、
全部、知っているのに。
夜だと、少し違って見える。
「眠れなくて」
本当だ。
布団に入っても、
目を閉じると、先程の出来事が浮かぶ。
アデル。
温泉。
姉様の、素っ裸――。
……いや。
ぶんぶんと、頭を振る。
「月が、きれいだから」
姉様は、空を見上げた。
「ほんとね」
月は、丸く、澄んでいる。
静かで、
世界が、姉様と僕だけになったみたいだった。
「姉様は……」
言いかけて、
言葉が詰まる。
「学園、楽しみ?」
少しだけ、怖い質問。
「うん」
即答だった。
「楽しみよ」
……そう、だよね。
「でも」
続く言葉に、息を止める。
「少しだけ、寂しい」
胸が、きゅっと縮む。
「クリスの成長、毎日見られなくなるから」
そう言って、
僕の頭に、手を置いた。
撫でる。
いつもの、あの手。
「だから」
柔らかい声。
「ここにいる時間、大事にしようね」
……大事にする。
大事にするなら、
奪われたくない。
アデルの顔が、脳裏をよぎる。
勝ち誇った笑み。
近すぎる距離。
姉様を見る、あの目。
許せない。
「姉様」
少し、声が低くなる。
「……アデルは、やっぱり危ないです」
姉様は、苦笑した。
「またそれ?」
「本気です」
視線を逸らさない。
「姉様を、取ろうとしてる」
一瞬、風が吹いて、
月光が揺れた。
姉様は、しばらく黙っていた。
そして、
僕の額に、そっと口付ける。
「心配してくれて、ありがとう」
……それだけ?
「でもね」
優しい声。
「姉様は、ここにいるわ」
胸が、じんわりと温かくなる。
「クリスの姉様でしょ?」
……そうだ。
その言葉だけで、
今は、十分だ。
「……一緒に、寝ます」
確認するように言う。
「もちろん」
布団に並んで、
横になる。
姉様の温もりが、すぐそこにある。
月の光が、天井を流れていく。
僕は、静かに誓った。
姉様は、僕が守る。
弟として。
家族として。
……それで、いい。
今は。
そのまま、
目を閉じた。
夜は、まだ、深い。
クリス・デルハイド




