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第八章「静けさの中にあるもの」

 再び目を覚ましたとき、空気は現実の重みをまとっていた。

 カーテンの隙間から差し込む光は、前よりも少し冷たかった。

 それでも、わたしはその光の輪郭を、愛おしく見つめていた。


 “戻ってきた”のではない。

 “帰ってきた”のだと思った。


 冷蔵庫の音、机の上のカップの位置、通り過ぎる車の音。

 すべてが同じように見えるのに、胸の奥にやわらかい違和感が残っている。


 わたしの中には、芽吹く前の“想いの種”がある。

 それはまだ名前もない、色もない。

 でも確かにそこにあり、何かを探して震えている。


 その日の午後、わたしは近所の公園に行った。

 ベンチに座って、空を見上げる。

 遠くの子どもたちの声が、風に乗ってやってくる。

 木々の間を抜けてくるその風は、あちらの世界の風とよく似ていた。


 となりのベンチに、小さなおばあさんが座っていた。

 彼女は一輪の白い花を手に持っていた。

 それは少ししおれていて、まるで何かを見届けた後のようだった。


 「いい風ですね」

 わたしが声をかけると、おばあさんはゆっくりうなずいた。


 「この子が好きだったんです。こういう風」


 彼女は、ぽつりと語り始めた。

 数年前に亡くなった孫のこと。

 その子が公園に来るたびに、必ず木の間を走っていたこと。

 風が吹くたびに、どこかにいる気がするのだと。


 わたしは、あの世界で出会った女性の言葉を思い出していた。


 「記憶が薄れていっても、想いが根を張ることがある」


 「もしかしたら、今も……ここにいるのかもしれませんね」

 わたしがそう言うと、おばあさんはふっと目を細めた。


 「ええ、そんな気がするんです。思い出そうとしなくても、ここにいる気がしてね。

 それって、記憶じゃないのよね。もっと……空気の中にいるのよ」


 言葉にできない何かが、わたしの中で静かに共鳴していた。

 わたしも、そう思う。


 “いなくなった”は、終わりじゃない。

 “いないけれど、いる”というかたちが、この世界にもある。


 おばあさんは立ち上がり、白い花を木の根元にそっと置いた。

 「また来るわね」と優しく言い、ゆっくりと歩いていった。


 残された花が、風に揺れた。

 その姿は、“記憶”ではなく“存在”そのもののようだった。


 わたしは深く息を吸い込み、静かに目を閉じた。

 あちらの世界の景色が、胸の奥に浮かぶ。

 そして、それがこの世界とゆるやかに重なっていくのを感じた。


 ──たぶん、これからも迷う。

 記憶をなくすこともある。

 それでも、「想い」は、こうして生き続ける。


 目を開けると、空は青く澄んでいた。

 その空のどこかに、見えない“橋”がかかっている気がした。

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