第七章「忘れられた名前」
この世界での時間は、元の世界よりもゆっくりと流れているようだった。
けれどそれは「遅い」のではなく、“思い出すための時間”が丁寧に確保されているという感じだった。
わたしは広場の片隅にある、低い石の壁に腰を下ろした。
遠くで鳥が飛び立ち、木々が風に揺れる。
その音が、過去のある瞬間をそっと呼び起こす。
──「なあ、覚えててくれる?」
──「もし全部忘れても……、なんとなくでいいからさ」
その声は、現実でも夢でもなく、**“感覚の奥”**に刻まれていた。
名前は思い出せない。顔も輪郭もぼんやりしている。
けれど、その人の“言い方”や、“空気”だけは確かにそこにある。
「君は、誰だったの?」
誰に聞くでもなく、わたしはそうつぶやいた。
すると、背後から声が返ってきた。
「忘れられるって、不思議なことだよね」
振り返ると、ひとりの女性が立っていた。
見たことのない顔。けれど、彼女もまた、懐かしいものを身にまとっているように感じた。
「あなたも……?」
「ええ。わたしも“大切だった誰か”を忘れてしまったの。でも、わたしの中にはまだ、残ってる。手放せない何かが」
彼女は、首からぶら下げた小さなペンダントを開いた。
中には、写真のようなものは何も入っていなかった。
代わりに、小さな紙片が一枚、折りたたまれていた。
「これは、“想いの種”よ」
「……種?」
「記憶が薄れていっても、想いが根を張ることがあるの。
この世界では、それが目に見える形になる。
あなたの中にも、あるはずよ。まだ芽吹いてないだけで」
わたしは静かに目を閉じて、胸に手を当てた。
そこに、たしかに小さな震えがあった。
絆のかけらとは違う、もっと奥に沈んでいるなにか。
言葉にならない、でも確かに「誰かを大切にしていた」という感触。
「……思い出せなくても、残ってるんだね」
「そう。だから、無理に思い出さなくてもいい。
名前を忘れても、手を離しても、あなたの中にいたという事実は、もう消えない」
女性は静かに頷いた。
そしてふと、手のひらを差し出してきた。
「ねえ、交換しない? あなたの“まだ名前を持たない想い”と、わたしの“想いの種”」
わたしは一瞬迷ってから、自分の胸に手を当て、小さな光の粒のようなものをそっと掬い上げた。
彼女の手の中にあった種と交換すると、それらはまるで呼応するように、淡い光を帯びて揺れ始めた。
「想いは、こうして誰かの中に渡っていく。
名前がなくても、記憶が薄くても、こうして繋がることができる」
わたしはその瞬間、自分が何かの役割を果たしたような気がした。
わたしがここにいる意味。
誰かと出会い、誰かの想いを受け取り、また手渡すこと。
それが、“いなくなった人の痕跡”を、この世界に繋ぎとめていくことなのかもしれない。