第六章「見えない橋」
信号が青に変わり、歩き出した足元に、ふと一枚の紙が貼りついていた。
濡れているわけでも、風に飛ばされたわけでもない。
まるでわたしが通るのを待っていたかのように、そこにあった。
──“再訪を希望する者は、今夜、枯れた木の下へ”。
枯れた木。
あの図書館の裏に立っていた、ひときわ背の高い、葉を失ったままの木が脳裏に浮かんだ。
あれは、ただの風景の一部ではなかった。
むしろ、この世界と“あちら”を繋ぐ目印のような存在だったのかもしれない。
その夜、わたしは静かにその木のもとを訪れた。
月は雲の奥に隠れていたけれど、木の周囲には淡くやわらかな光が立ち込めていた。
枝の先がわずかに揺れていて、見えない何かを指している。
足元に、石畳が現れる。
そして、目の前に一歩先が透けて見えるような“空気の折れ目”が現れた。
まるで、世界がそこから折れて、新しいページが開かれるように──。
次の瞬間、風が背中を押した。
気づけば、わたしはまた“もう一つの地球”の地を踏んでいた。
けれど、前とはどこか違う。
空の色がより深く、街の輪郭がやさしくぼやけている。
人々の歩く速さも、声の調子も、どこか落ち着いている。
わたしは広場の中心に向かって歩いた。
その途中、見覚えのある小さな子どもが、しゃがんで地面に何かを描いていた。
あの、反転の夜に出会った少年だった。
でも彼はもう、あの夜のような“見透かすような目”をしていなかった。
「来ると思ってた」
少年は言った。
「この世界に来る人の中には、戻ってこられない人もいる。
でも君は、ちゃんと自分の意志で戻ってきた。
それが何より大事なことなんだよ」
「……戻ってきた理由が、はっきりしてるわけじゃないの」
「うん。それでいいんだ。
理由はあとから育つものだから。
今は、“手渡すために来た”と思えばいい」
「手渡す?」
少年は、地面に描いていた絵を見せてくれた。
それは、**“空を見上げている人の背中”**だった。
とても小さな姿だけれど、その背中には、何かを想っている時間の深さがあった。
「君がもらったものを、今度は君が誰かに渡す番なんだよ」
「何を……渡せばいいの?」
「君が誰かを想ったように、
誰かが誰かを想えるようになる、きっかけ。
それは“言葉”かもしれないし、“沈黙”かもしれない。
もしかしたら、ただそこに“いる”ことかもしれない」
風がまた通り過ぎた。
草の匂いが、かすかに鼻先をくすぐる。
わたしは、ポケットの中の“絆のかけら”を握りしめた。
あたたかさは、まだそこにあった。
でもそれは、もう「自分のためのあたたかさ」ではない気がした。
誰かに、何かを渡すこと。
そのために、自分は戻ってきたのかもしれない。
“いなくなった人”の存在が、わたしをここまで導いたように、
今度は、わたしが“誰かの存在”になるために。