第五章「世界の輪郭」
目を覚ましたとき、わたしは自分の部屋のベッドの上にいた。
カーテン越しに朝の光が差し込んでいる。
カレンダーの赤い丸も、スマホの通知も、昨日と同じようにそこにあった。
でも、すべてが少しだけ違っていた。
道端に咲く花、いつも見ていた道路標識、木の青々とした緑。
ふと、信号が赤になったのを確認して、立ち止まる。
今までと少し違うことを感じ取りながら、青になるのを待っていた。
信号待ちの時間が、いつもより長く感じられる。
──世界の輪郭が、少し揺れている。
誰にも気づかれないほどの違和感。
けれどわたしにはわかる。
これは、“向こう側の世界”を知ってしまった者だけが感じる震えだ。
職場で同僚とすれ違うときも、会話の合間に一瞬、誰かの影が見える気がした。
消えていったあの人ではない。
けれど、どこかで誰かが、今も“こちらを見ている”ような感覚。
以前なら、それが怖かったかもしれない。
けれど今は、不思議と安心できる。
失われた存在が「いない」わけではないことを、もう知っているからだ。
昼休み、近くの公園に立ち寄った。
ベンチに座ってパンを食べながら、ふとポケットに手を入れると、あの透明な“絆のかけら”がそこにあった。
あたたかさは消えていない。
触れるたびに、遠い誰かの想いが、自分の中の静けさと混ざり合う。
──想うことは、記憶を辿ることに似ている。
その言葉が、頭の中にふっと浮かんだ。
記憶がなくなったら、想いは消えるのだろうか。
けれどきっと、完全に消えるわけじゃない。
“もう思い出せない”という痛みの中にも、たしかに“かすかな温度”が残っている。
「おかえり」
誰かの声がしたような気がして、振り返った。
けれど、誰もいなかった。
それでも、いいと思った。
“いない”ということが、“感じない”こととイコールではないと、もうわたしは知っているから。
風が吹いた。
あの世界と似た、やわらかくて、どこか懐かしい風。
その瞬間、ふいにわたしは思った。
「また、向こうに行ける気がする」と。
今度は“誰かを探すため”ではない。
“自分の想いを確かめるため”。
“失ったものとどう生きていくか”を、自分の言葉で見つけに行くためだ。
絆のかけらをポケットにしまいながら、わたしは静かに微笑んだ。