第四章「透明な絆」
翌朝、空は静かな透明をまとっていた。
反転の夜を越えた世界には、どこか手で触れられそうな静けさが流れている。
わたしの胸には、まだ昨夜の鏡がしまわれていた。
けれど、その光は、もう映さなくなっていた。
「意味」は見えたり消えたりする。
けれど、それは消えたのではなく、「静かに沈んでいっただけ」だと感じた。
図書館の前を通り過ぎると、扉の前にひとりの青年が立っていた。
わたしを見ると、彼は目を細めて微笑んだ。
「久しぶりだね」
「……え?」
青年の顔には、なぜか懐かしさがあった。
名前も思い出せないのに、心のどこかが彼を知っていると告げてくる。
──いや、違う。“知っていた気がする”という記憶の奥にある、もうひとつの感覚。
「誰……ですか?」
彼は少し目を伏せた後、答えた。
「君が、“最後まで名前を思い出せなかった人”だよ」
「……!」
心が揺れた。
名前も、姿も、すっかり忘れていたはずの人。
けれど、存在の“感覚”だけが残っていた人。
ずっと“いないけれど、いる”と思い続けてきたその人が、今、目の前に立っていた。
「わたし……思い出せない。ごめんなさい」
「大丈夫。思い出すことが目的じゃない。
君が僕を“感じ続けていた”こと。それが、ここに立つ理由なんだよ」
彼の言葉は、どこまでも優しかった。
わたしの目から、自然と涙がこぼれた。
どうして涙が出るのか分からなかった。
けれど、悲しみではなかった。
──これは、「あたたかい喪失」だ。
青年はふと、目を細めて言った。
「でもね、もうすぐ僕は、また“存在の奥”に還らなくちゃいけない。
ここに長くはいられないんだ。
この世界は、“想いの残り火”でかろうじて繋がってる場所だから」
「どうして……?」
「君が、もうひとりでも歩けるようになったから」
言葉に詰まる。
まだ、何も分かっていない。
ただ風に押されて歩いてきただけ。
でも彼の目が、まるですべてを見届けたようにやさしいことが、何より胸を打った。
彼はポケットから、透明な石のようなものを差し出した。
中には、小さな気泡のような光が、ふわふわと浮いていた。
「これを持っていて。
それは“絆のかけら”だ。
忘れても、失っても、誰かと深く繋がったことは、この中に滲んでいる」
「ありがとう……」
「“絆”は、形がないから壊れやすい。
でも壊れたとき、初めて本当のかたちが見えることもある。
それを忘れないで」
わたしは、その石を両手で包んだ。
あたたかかった。手のひらの奥から、何かがそっと流れ込んでくる気がした。
青年は小さく手を振り、やがて光の粒の中に溶けていった。
そしてまた、ひとつ、静かな風が吹いた。