第三章「反転の夜」
あの図書館を出て、夜が来るまでの時間が、やけに長く感じられた。
“反転の夜”。
受付の女性は、その言葉を告げただけで、何の説明もしなかった。
わたしの知らない“なにか”を知っているかのようだった。
太陽がゆっくりと沈んでいく。
しかしその様子が、どこかおかしかった。
夕焼けが赤くなる代わりに、空はまるで墨を流したように、静かに、そして均一に暗くなっていく。
青と黒の境目が見えず、夜がただ滑り落ちるようにやってきた。
その夜は、音が消えていた。
虫の声も、木々のざわめきも、遠くの人の話し声も。
世界が「聞くこと」を一時的に忘れたように、無音だった。
わたしは広場の中央に置かれたベンチに座り、じっとその異質な夜を見つめていた。
この世界では、夜になると何かが反転する。
目に見えないものが浮かび上がり、普段見えていたものは影へと沈む。
そう、まるで自分の内側が外に出てくるように。
──誰かが、こちらを見ている。
その気配を感じて振り返ると、そこには少年が立っていた。
年齢は十歳前後に見える。けれど、その目の奥には、まるで千年を生きたような静けさがあった。
「君、どうしてこの世界に来たの?」
「……誰かを、探している。いなくなったはずの誰かを」
少年は小さく頷くと、夜の空を見上げた。
「ねえ、いなくなったって、本当はどういうことだと思う?」
問いかけに、言葉が出てこなかった。
「僕は思うんだ。いなくなるって、“その人がその人である意味”が、この世界から見えなくなるってことじゃないかって」
「意味……?」
「人は、誰かの中で意味を持って存在しているんだ。
でも、世界がその意味を失うと、その人は“いないもの”として扱われる」
「じゃあ……私がその人の意味を感じ続けていれば……?」
「そう。存在は、意味に支えられてる。
君が“その人と過ごした時間”に今も意味を見出しているなら、
その人は“いないけどいる”という形で、確かにここにいる」
少年はそっとポケットから小さな鏡を取り出した。
月明かりもないはずの夜の中で、その鏡はうっすらと光を反射している。
「これは、“意味を見る鏡”だよ」
「……意味を見る?」
「この鏡に映るのは、“思い出”じゃない。
君がその人に感じていた想いや、大切にしていたもの──つまり、君が“自分にとっての意味”をどれだけ手放さずにいられるかが、ここに映る」
わたしは、恐る恐る鏡を受け取って覗き込んだ。
そこには、人の姿はなかった。
ただ、ひとひらの白い花が、夜のなかに浮かぶように咲いていた。
とても小さな花。けれど、見たことのないほど、やさしい光を宿していた。
「それは、君がその人に贈りたかった気持ちの形だよ」
少年が言った。
「……どうすれば、その人に届くの?」
「もう一度、自分に問いかけることだ。
“自分が誰かを想うことに、意味はあるのか”って。
それに自分なりの答えを持って、この世界と元いた世界を行き来できるようになったとき、
君は“失われた人の存在を運ぶ者”になるんだ」
風が、ようやく吹いた。
無音の夜に、小さな音が戻ってきた合図だった。
わたしは静かに鏡を胸に抱きしめて、立ち上がった。
──問いは、まだ終わらない。
けれど、それを抱きながら、歩き出すことができる。