第一章「消えた世界」
きっかけは、コーヒーの湯気だった。
カップのふちから立ち上るその揺らぎをぼんやりと眺めていたとき、ふと「あの人が好きだったのは、濃いブラックだった」と思い出した。
それが、おかしい。
なぜなら、その“あの人”が誰なのか、思い出せなかったからだ。
名前も顔も、何を話したかも、なぜ大切だったのかも、霧の奥に沈んでしまっているのに、ただ“いた”ことだけは確かだった。
それが、どうしても消えない。
むしろ、思い出せないことの方が、不自然だった。
ノートを広げて、自分の頭の中にある断片を書き出していった。
──柔らかい声、雨の日の匂い、手の温度、空を見上げる癖。
ページの上に積み重なっていく“誰か”の痕跡に、涙が滲んだ。
そのとき、スマホの通知が鳴った。
SNSのリマインダー。
「過去の思い出を振り返ってみませんか?」
指先が勝手にスクリーンをなぞる。懐かしい風景や、何気ない日常の写真が次々に表示されていく。けれど、そこに“あの人”は一枚も写っていなかった。
──おかしい。
絶対に、一緒にいたはずなのに。
思わず、共通の友人だったはずの誰かにメッセージを送った。
「〇〇って、今どうしてる?」
返ってきたのは予想外の答えだった。
「誰のこと?」
世界が、静かにずれている。
わたしだけが、何かを知っていて、世界だけがそれを忘れている。
その不協和音が、体の奥で鳴り響いていた。
数日後。
仕事帰りに立ち寄った公園で、ぼんやりとベンチに座っていると、見知らぬ老人が声をかけてきた。
「きみ、誰かを探してる目をしているね」
なぜかその言葉に、全身が震えた。
「わたし、忘れられてしまった人がいる気がするんです。
でも、誰もその人のことを覚えていなくて……。まるで、最初から存在しなかったみたいで」
老人は一度空を見上げてから、ゆっくりと頷いた。
「この世界ではな。けれど、別の世界では……きっとまだ、その人は“いる”」
「……え?」
「ここじゃない場所に、“もう一つの地球”がある。
そこには、世界からこぼれ落ちた存在たちが、ちゃんと生きている。
行きたければ、行けるよ。きみには、それが見えるはずだ」
わたしは老人の目を見た。
冗談ではないと、直感でわかった。
そしてその瞬間、風が吹いた。
プロローグと同じ、あの温かい風だった。
視線の先、木々の間に小さな光が揺れているのが見えた。
人が入らないはずの茂みの奥に、明らかに“通路”のようなすじが走っていた。
「でも、どうして私にそんなことを……?」
「きみの目には、**“いないはずのものが、見えている”**からさ」
老人は、それだけ言って微笑み、ふっと立ち上がった。
そして、どこにも消えてしまった。
わたしは、立ち上がり、その光の通路の先へと足を踏み入れた。